人 物 史

安西正重 あんざい まさしげ
生 没 年天正11年(1583)-寛永14年(1637)
出 身-幼 名-
別 称文右衛門
法 名道悟
戒 名-
楠正家-
兄 弟 姉 妹安西正重
配 偶 者三富甚左衛門の娘
娘(安西定之の妻)、安西定之[養子]
官 位兵部、右馬允
役 職-
城 郭-
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第4輯 刊本
関 連 デ ー タ-
安西正重 年表
天正11年 1583年 -月-日 1歳
安西正重が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第582「安西正重」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第582「安西正重」の項

文禄1年 1592年 12月8日 10歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 14歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 16歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 2月12日 21歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 23歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

元和1年 1615年 7月13日 33歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月5日 33歳
早朝、徳川家康が、守山・草津(近江国)で起こった松平忠輝による徳川秀忠の家臣の長坂、伊丹が理不尽に殺害された旨を伝え聞く。家康は本多正純に命じて事件の詳細を調査させるも噂しかないため、家康は近江代官の長野友秀、小野宗左衛門、観音寺を召し出し事件の顛末を聞くと、長坂・伊丹が忠輝の前に出たため「狼藉」といって切り殺されたという。
巳刻(9-11時)、家康が矢橋(近江国)より船に乗り、水口(近江国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月10日 33歳
越後に遣わしていた松平勝隆が駿府城(駿河国)にいる徳川家康松平忠輝徳川秀忠の御家人2名を殺害した件について報告する。忠輝は陣法を理解せず、あまつさえ腹を立てているとのことなので、秀忠より言って聞かすようにと家康は指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 34歳
徳川家康が死去する。
出典:-

元和2年 1616年 6月-日 34歳
松平忠輝の改易にともない、高田城(越後国)を請取るべく、小笠原忠真松代城(信濃国)に赴く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「小笠原忠真」の項

元和2年 1616年 7月27日 34歳
安西正重徳川秀忠に仕える。秀忠は正重に越後国頚城郡内にて500石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第582「安西正重」の項

寛永1年 1624年 2月30日 42歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-

寛永9年 1632年 1月24日 50歳
徳川秀忠が死去する。
出典:-

寛永14年 1637年 -月-日 55歳
安西正重大坂城(摂津国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第582「安西正重」の項

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