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史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
地 名 の 歴 史
水口(近江国)
みなくち
初 見
-
国
近江国
郡
甲賀郡
荘 園
-
中 世 高
-
近 世 領 主
-
近 世 石 高
-
鎮 守
-
神 社
-
寺 院
-
城 郭
水口岡山城
、
水口城
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
水口(近江国) 年表
慶長5年 1600年 9月15日
関ヶ原の合戦で
徳川家康
と
石田三成
が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。
黒田長政
・
加藤嘉明
・
細川忠興
・
金森長近
が
石田三成
と、
福島正則
・
松平忠吉
・
井伊直政
が
宇喜多秀家
・
小西行長
と、
藤堂高虎
が
大谷吉継
と戦い、
池田輝政
・
浅野幸長
が南宮山の
毛利秀元
・
吉川広家
・
安国寺恵瓊
・
長束正家
・
長宗我部盛親
と対峙する。戦中、
小早川秀秋
が寝返り、
大谷吉継
勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。
島津義弘
・
島津豊久
は伊勢路からの撤退を企て、
井伊直政
の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、
酒井重忠
[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、
松平康安
[徳川家康勢]、
小栗忠政
[徳川家康勢]、
花房職秀
[徳川家康勢]、
油川信貞
[徳川家康勢]、
三枝守英
[徳川家康勢]、
岩瀬氏与
[徳川家康勢・使番]、
鈴木重次
[徳川家康勢]、
鈴木信光
[徳川家康勢 御使番]、
森可澄
[徳川家康勢]、
加藤正次
[徳川家康勢]、
酒依昌吉
[徳川家康勢]、
小倉吉正
[水野重央勢]、
黒田一成
[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、
藤堂高刑
[藤堂高虎勢]、
池田利隆
[池田輝政勢]、
池田長吉
[池田輝政勢]、
伊木忠次
[池田輝政勢]、
森可政
[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、
川尻秀長
(戦死)、
島清興
[石田三成勢](戦死)、
大谷吉治
[大谷吉継勢]、
湯浅隆貞
[大谷吉継勢](戦死)、
福留政親
[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』、『
菅氏世譜
』
慶長20年 1615年 1月4日
辰刻(7-9時)、
徳川家康
が船に乗り
膳所
(近江国)を出立する。
松平正久
、興安、
後藤光次
が同船する。矢橋(近江国)にて上陸し、申刻(15-17時)、
水口
(近江国)に到着する。代官の長野内蔵允が家康を饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長20年 1615年 1月5日
卯刻(5-7時)、
徳川家康
が
水口
(近江国)を出立する。申刻(15-17時)、亀山(伊勢国)に到着する。
伊勢亀山城
(伊勢国)城主の
松平忠明
は
大坂城
(摂津国)の堀・櫓破却につき不在のため、留守居の者が家康を饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長20年 1615年 4月17日
徳川家康
が
水口
(近江国)に到着する。
徳川秀忠
の使者として
成瀬正武
が家康のもとに到着し、10日に秀忠が
江戸城
(武蔵国)を発ったこと、14日に清水(駿河国)に到着したこと、23・24日には京都(山城国)に到着するので、それまでは合戦を控え、秀忠には先陣を命じることを伝える。
安藤直次
、
成瀬正成
の飛脚が家康のもとに到着し、
徳川頼宣
勢は永原(近江国)に、
徳川義俊
勢は土山(近江国)に到着したことを伝える。
松平忠直
勢が
坂本
(近江国)に陣取ったとの報告が家康のもとにもたらされる。家康は忠直勢に18日には西岡・向明神(山城国)辺りに進軍するよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 4月18日
徳川家康
が
水口
(近江国)を出立し、矢橋(近江国)、
大津
(近江国)、
膳所
(近江国)を経由する。大津から膳所の船中で、
が家康に膳を献じる。午刻(11-13時)、船を下船する。山科(山城国)辺りで公家衆や京都の町衆が出迎え、未刻(13-15時)、
二条城
(山城国)に到着する。
徳川義俊
、
徳川頼宣
が京都に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』同年月日条
元和1年 1615年 8月5日
早朝、
徳川家康
が、守山・草津(近江国)で起こった
松平忠輝
による
徳川秀忠
の家臣の長坂、伊丹が理不尽に殺害された旨を伝え聞く。家康は
本多正純
に命じて事件の詳細を調査させるも噂しかないため、家康は近江代官の長野友秀、小野宗左衛門、観音寺を召し出し事件の顛末を聞くと、長坂・伊丹が忠輝の前に出たため「狼藉」といって切り殺されたという。
巳刻(9-11時)、家康が矢橋(近江国)より船に乗り、
水口
(近江国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条
元和1年 1615年 8月6日
徳川家康
が雨のため
水口
(近江国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条
元和1年 1615年 8月8日
徳川家康
が雨のため
水口
(近江国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条
元和1年 1615年 8月9日
卯刻(5-7時)、
徳川家康
が
水口
(近江国)を発ち、亀山(伊勢国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条
元和5年 1619年 1月21日
中井正清
が
水口
(近江国)にて死去する。
出典:-
寛永10年 1633年 5月16日
松平信綱が
水口
(近江国)に建設予定の御殿の地を検分する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項
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