和暦 |
西暦 |
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年齢 |
事項 |
出典 |
慶長10年 | 1605 | - | - | 1 | 池田政綱が生まれる。 | - |
慶長16年 | 1611 | 1 | 15 | 7 | 弟・輝興が播磨国姫路にて生まれる。 | 『寛政重修諸家譜』巻第266「池田輝興」の項 |
慶長18年 | 1613 | 1 | 24 | 9 | 巳刻(9-11時)、父・輝政が中風を発症し、声を発せなくなる。 | 『駿府記』同年月29日条 |
慶長18年 | 1613 | 1 | 25 | 9 | 申刻(15-17時)、父・輝政が姫路(播磨国)にて死去する。 | 『駿府記』同年月29日条、『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項 |
慶長18年 | 1613 | 3 | 15 | 9 | 徳川家康・秀忠父子が播磨国仕置きのため安藤重信・村越直吉を播磨国に遣わす。 | 『駿府記』同年月日条 |
慶長18年 | 1613 | 4 | 27 | 9 | 播磨国仕置き(池田輝政死後の後処理)に赴いていた村越直吉・安藤重信が駿府城(駿河国)に戻る。若原良長、中村正勝による領国経営が問題だったため、良長を罰す。正勝は病死する。 | 『駿府記』同年月日条 |
慶長18年 | 1613 | 6 | 16 | 9 | 池田輝政の遺領について徳川家康が裁定する。播磨国は池田玄隆に、備前国および播磨国宍粟郡・佐用郡・赤穂郡は池田忠継に給付することが決まる。 | 『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第263「池田利隆」の項、同巻第265「池田忠継」の項 |
慶長18年 | 1613 | 8 | 22 | 9 | 池田輝政の遺領相続につき、池田玄隆・忠継兄弟が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。玄隆は銀300枚・太刀(銘 守家)を、忠継は銀200枚・太刀(銘 長光)を家康に献上する。 | 『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 | 1615 | 2 | 4 | 11 | 寅刻(3-5時)、母・督が死去する。 | 『駿府記』同年月8日条 |
慶長20年 | 1615 | 2 | 23 | 11 | 兄・忠継が疱瘡を患い岡山(備前国)にて死去する。 *『駿府記』では22日死去となっている。 | 『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠継」の項、『駿府記』同年月28日条 |
元和2年 | 1616 | 1 | 19 | 11 | 池田忠雄が従四位下・侍従に叙位・任官。 | 『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠雄」の項 |
慶長20年 | 1615 | 6 | 28 | 11 | 徳川秀忠が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴く。家康・秀忠は池田忠雄を召し出し、兄・忠継の遺領相続を認める。ただし、播磨国宍粟郡38000石は輝澄に、同国赤穂郡35000石は政綱に、同国佐用郡25000石は輝興に分与し、忠雄は備前国浅口郡・窪屋郡・下道郡・都宇郡の315000石を領し、淡路国は幕府に返上する。 | 『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第263「池田政綱」の項、同巻第265「池田忠雄」の項、同巻第266「池田輝澄」の項 |
元和1年 | 1615 | 7 | 13 | 11 | 「慶長」より「元和」に年号が改まる。 | 『駿府記』同年月日条 |
元和2年 | 1616 | 4 | 17 | 12 | 徳川家康が死去する。 | - |
元和9年 | 1623 | 7 | 19 | 19 | 池田政綱が従五位下・右京大夫に叙位・任官。 | 『寛政重修諸家譜』巻第263「池田政綱」の項 |
寛永1年 | 1624 | 2 | 30 | 20 | 「元和」より「寛永」に年号が改まる。 | - |
寛永3年 | 1626 | 8 | 19 | 22 | 島津家久が従三位・参議に叙位・任官。森忠政が従四位上・左近衛中将に叙位・任官。南部利直、加藤嘉明が従四位上に叙される。細川忠利が従四位下・左近衛少将に叙位・任官。池田政綱が従四位下に叙される。 | 『寛政重修諸家譜』巻第105「細川忠利」の項、同108「島津家久(忠恒)」の項、同210「南部利直」の項、同263「池田政綱」の項、同773「加藤嘉明」の項 |
寛永8年 | 1631 | 7 | 29 | 27 | 池田政綱が死去する。 | 『寛政重修諸家譜』巻第263「池田政綱」の項 |