人 物 史

村越直吉 むらこし なおよし
生 没 年永禄5年(1562)-慶長19年(1614)1/14
出 身-幼 名-
別 称茂助
法 名宗俊
戒 名-
村越俊吉-
兄 弟 姉 妹村越直吉、女(高木広正の妻)
配 偶 者筧重成の娘、生駒親正の娘
村越内蔵助、村越吉勝、娘(日下部正冬の妻)
官 位-
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ史料にみえる村越直吉の呼称
村越直吉 年表
永禄5年 1562年 -月-日 1歳
村越直吉が生まれる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 9歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 12歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

文禄1年 1592年 12月8日 31歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 35歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 37歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 6月6日 39歳
保科正直の娘・栄が徳川家康の養女として黒田長政に嫁ぐ。栄の輿は大坂城(摂津国)西ノ丸より出発し、本多忠勝村越直吉が付き従い、輿の受け取りは母里友信が担う。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長8年 1603年 2月12日 42歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 44歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長16年 1611年 8月2日 50歳
徳川義俊徳川頼宣、徳川頼房が藤堂高虎邸を訪れる。埦飯の後、能5番、風流踊あり。義俊等に本多正純成瀬正成永井直勝村越直吉松平正久後藤光次が供をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月27日 50歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が駿府(駿河国)の藤堂高虎邸を訪れる。家康に徳川頼宣本多正純安藤直次成瀬正成村越直吉永井直勝松平正久、水野重央、西尾丹後守、竹腰正信、秋元泰勝、板倉重昌後藤光次長谷川藤広、浅井七平、大岡兵蔵、佐久間頼勝、日根野左京亮、高力河内守、北見長五郎、野尻万介等が供奉する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月6日 50歳
巳刻(9-11時)、徳川家康が鷹狩と称して関東の向かうべく駿府城(駿河国)を出立する。供奉は本多正純安藤直次成瀬正成村越直吉松平正久後藤光次。駿府八幡辺で鷹狩をする。家康は清水(駿河国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月7日 50歳
朝、徳川家康が清水(駿河国)を出立する。今泉の善応寺に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月8日 50歳
徳川家康が三島(伊豆国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月9日 50歳
徳川家康大久保忠隣を召し出し、忠隣の子・忠常の病の容態を訪ねる。本多正信が迎えとして家康のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月10日 50歳
徳川家康が中原(相模国)に宿泊する。徳川秀忠の命により安藤重信が家康の御膳を用意する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月11日 50歳
徳川家康が中原(相模国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月12日 50歳
徳川家康が相模川まで移動するが、雨により中原(相模国)に引き返し逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月13日 50歳
徳川家康が藤沢(相模国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月14日 50歳
徳川家康が神奈川(武蔵国)に到着する。江戸城(武蔵国)より徳川秀忠が出向き雑談する。秀忠は江戸城に戻り、家康は神奈川にて宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月15日 50歳
徳川家康が稲毛(武蔵国)に宿泊する。途中、鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月16日 50歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。江戸詰めの諸大名が家康を出迎える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月25日 50歳
徳川秀忠が茶壺(銘 鎮西)の口を切る。「数寄屋」にて、本多正信本多正純大久保長安安藤直次成瀬正成村越直吉永井直勝松平正久後藤光次長谷川藤広を召し、鶴料理と茶を振る舞う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 3月15日 52歳
徳川家康秀忠父子が播磨国仕置きのため安藤重信村越直吉を播磨国に遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月27日 52歳
播磨国仕置き(池田輝政死後の後処理)に赴いていた村越直吉安藤重信が駿府城(駿河国)に戻る。若原良長、中村正勝による領国経営が問題だったため、良長を罰す。正勝は病死する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月15日 52歳
巳刻(9-11時)、源誉存応が報土寺(駿河国)に居す。徳川家康が報土寺に赴く。供は本多正純安藤直次成瀬正成村越直吉松平正久等100余名。家康は源誉存応の法問「一念弥陀仏即滅無量罪」を聴聞する。午刻(11-13時)、家康は駿府城(駿河国)に帰城する。その後、家康は南光坊天海邸のもとに赴き仏法について雑談する。夜、帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月14日 53歳
村越直吉が死去する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月16日 
卯刻(5-7時)、徳川家康が東金(上総国)を発し、申刻(15-17時)、千葉(下総国)に到着する。家康が村越直吉の死を知り、大いに悲しむ。
出典:『駿府記』同年月日条

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