人 物 史

小笠原長次 おがさわら ながつぐ
生 没 年元和1年(1615)-寛文6年(1666)5/29
出 身信濃国松本幼 名幸松丸
別 称-
法 名-
戒 名慈源宗恵長松寺
小笠原忠脩本多忠政の娘
兄 弟 姉 妹女、小笠原長次
配 偶 者松平康重の娘
娘(蜂須賀光隆の妻)、小笠原長章、娘(森忠継の妻)、小笠原長勝、娘、娘(岩城景隆の妻)、某
官 位信濃守
役 職-
城 郭龍野城(播磨国)、中津城(豊前国)
参 考 文 献○『寛政重修諸家譜』巻第189「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原長次」の項
関 連 デ ー タ小笠原長次の関連文化財
小笠原長次 年表
慶長20年 1615年 5月25日 1歳
小笠原長次が信濃国松本にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第189「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原長次」の項

元和1年 1615年 7月13日 1歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

寛永1年 1624年 2月30日 10歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-

寛永3年 1626年 9月16日 12歳
小笠原長次が召しにより二条城(山城国)に登城する。幕府が長次に龍野60000石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第189「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原長次」の項

寛永6年 1629年 10月18日 15歳
小笠原長次が従五位下・信濃守に叙位・任官する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第189「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原長次」の項

寛永9年 1632年 10月11日 18歳
小笠原忠真が明石(播磨国)より小倉(豊前国)150000石に、小笠原長次龍野(播磨国)より中津(豊前国)80000石に、小笠原忠知が杵築(豊後国)40000石に移封となる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠真」、同巻第189「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原長次」の項、同巻第190「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠知」

寛永14年 1637年 11月11日 23歳
小笠原長次が島原(肥前国)で蜂起した一揆鎮圧のため、中津(豊前国)に向け江戸(武蔵国)を発す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第189「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原長次」の項

寛永14年 1637年 11月27日 23歳
徳川家光が松平信綱に島原(肥前国)の一揆鎮圧を命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項

寛永14年 1637年 12月3日 23歳
島原(肥前国)の一揆鎮圧のため松平信綱・輝綱父子が江戸城(武蔵国)を発す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項

寛永15年 1638年 1月1日 24歳
板倉重昌率いる幕府軍が天草時貞率いる一揆勢の籠る原城(肥前国)を攻める。重昌が戦死する。
出典:-

寛永15年 1638年 1月2日 24歳
松平信綱が寺井(肥前国)に到着する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項

寛永15年 1638年 1月19日 24歳
松平信綱が平戸(肥前国)に入港したオランダ人の船を一揆勢の籠る原城(肥前国)の近くに寄せて城に石火矢を撃ち込む。この砲撃姿勢から、オランダが一揆に与しないかをうかがう。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項

寛永15年 1638年 1月23日 24歳
小笠原長次が島原(肥前国)一揆鎮圧のため中津城(豊前国)を出陣する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第189「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原長次」の項

寛永15年 1638年 1月28日 24歳
幕府が上使として宮城和甫・石川貴成を原城(肥前国)を囲む諸勢のもとに遣わし兵粮を配る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項

寛永15年 1638年 2月1日 24歳
幕府が上使として酒井忠知・駒木根政次を原城(肥前国)を囲む諸勢のもとに遣わし、松平信綱の兵粮攻めを徳川家光が支持していることを伝える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項

寛永15年 1638年 2月8日 24歳
小笠原長次が有馬(肥前国)に到着する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第189「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原長次」の項

寛永15年 1638年 2月21日 24歳
原城(肥前国)に籠る一揆勢が黒田忠之の陣所を夜襲する。幕府軍は応戦し、一揆勢を退ける。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項

寛永15年 1638年 2月27日 24歳
幕府軍の内、鍋島勝茂が抜け駆けし天草時貞率いる一揆勢が籠る原城(肥前国)を攻める。細川忠利・光尚が三ノ丸を、小笠原忠真が二ノ丸を、小笠原長次が本丸を攻める。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「細川忠利」・「細川光尚」の項、『同』巻第188「小笠原忠真」の項、『同』巻第256「松平信綱」の項

寛永15年 1638年 2月28日 24歳
幕府軍が天草時貞率いる一揆勢が籠る原城(肥前国)の本丸を惣攻めする。細川忠利勢の陣佐左衛門が天草時貞を討ち取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「細川忠利」の項、『同』巻第256「松平信綱」の項

寛永15年 1638年 3月1日 24歳
原城(肥前国)を破却する。
籠城していた一揆勢37000人に対し、キリスト教からの改宗を促すが、応じないためすべて処刑する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項

寛永15年 1638年 4月3日 24歳
松平信綱・戸田氏鉄、上使・太田資宗が松倉勝家・重頼父子、寺沢堅高を小倉城(豊前国)に召し寄せ、所領改易を伝え、勝家は森長継に、重頼は生駒高俊に身柄を預ける。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項

正保1年 1644年 12月16日 30歳
「寛永」より「正保」に年号が改まる。
出典:-

慶安1年 1648年 2月15日 34歳
「正保」より「慶安」に年号が改まる。
出典:-

承応1年 1652年 9月18日 38歳
「慶安」より「承応」に年号が改まる。
出典:-

明暦1年 1655年 4月13日 41歳
「承応」より「明暦」に年号が改まる。
出典:-

万治1年 1658年 7月23日 44歳
「明暦」より「万治」に年号が改まる。
出典:-

寛文1年 1661年 4月25日 47歳
「万治」より「寛文」に年号が改まる。
出典:-

寛文6年 1666年 5月29日 52歳
小笠原長次が中津(豊前国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第189「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原長次」の項

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