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人 物 史
覚栄
かくえい
生 没 年
?-?
出 身
-
俗 姓(氏)
-
俗 名
-
別 称
二位
院 号 坊 号
遍照院
父
-
母
-
兄 弟 姉 妹
-
所 属 寺 社
方廣寺
僧 位 僧 官
-
諡 号
-
師 匠
-
参 考 文 献
○
覚栄に関する参考文献
関 連 デ ー タ
○
覚栄の関連文化財
覚栄 年表
- -年 -月-日
覚栄
が生まれる。
出典:-
天正18年 1590年 9月21日
応其
、
覚栄
が三船神社を造替する。
出典:三船神社本殿棟札(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)
天正19年 1591年 閏1月17日
応其
、
覚栄
が三船神社の上遷宮を行う。
出典:三船神社本殿棟札(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)
文禄3年 1594年 1月11日
上岩出神社を
応其
が施主として再建する。本願は
覚栄
。
出典:上岩出神社本殿棟札(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)
文禄4年 1595年 8月-日
妙寺村の本尊を
応其
、
覚栄
が造像する。
出典:大日如来像朱書銘(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)
慶長3年 1598年 2月25日
醍醐寺五重塔の修造を指揮していた応其が、2月23日に
豊臣秀吉
より醍醐寺の伽藍復興奉行に命じられ、かつ伽藍は大和・河内の寺の堂舎を移すようにと言い渡されたため大和・河内に下向することになったことから、
応其
に代わり醍醐寺五重塔修造の指揮を執る。
醍醐寺五重塔は四重目が完成する。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長3年 1598年 2月26日
醍醐寺五重塔の五重目が完成する。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長3年 1598年 2月27日
大風につき醍醐寺五重塔の五重目を一旦取り外す。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長3年 1598年 2月29日
この日より
応其
が再び醍醐寺五重塔の修造工事の指揮を執る。塔五重目に瓦を葺き終える。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長3年 1598年 3月1日
醍醐寺五重塔の五重目が完成し、その部分の足場を解体する。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長3年 1598年 3月5日
醍醐寺五重塔が完成する。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長4年 1599年 8月9日
遍照院覚栄
が
義演
のもとに訪れる。8月12日に
方廣寺
(山城国)の
応其
の坊にて灌頂を執行すること、8月13日に
豊臣秀吉
の追善のため結縁灌頂を執行することを伝える。導師は宝性院。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長4年 1599年 12月28日
応其
、
覚栄
が三船神社の摂社を造営する。
出典:三船神社摂社棟札(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)
慶長5年 1600年 1月20日
応其
が醍醐寺(山城国)の金堂造営につき、雑料の目録(見積)を
義演
に送る。ただし、応其の見積には材木に関する記載がなかったため、材木分についても報告するように応其配下の
覚栄
に依頼する。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長5年 1600年 1月21日
応其
が
義演
に提出した醍醐寺(山城国)金堂造営の雑料目録(見積)を、義演は
前田玄以
に送る。ただし、玄以は、朝に
丹波亀山城
(丹波国)に帰城したため目録は渡せず。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長5年 1600年 1月25日
義演
が
応其
より提出された醍醐寺(山城国)金堂造営の雑料目録(見積)を、再度、
前田玄以
に送るべく演賀・堯政を遣わす。ただし、玄以は、大坂(摂津国)に下向してしまったため渡せず。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長5年 1600年 2月9日
醍醐寺(山城国)の金堂造営につき
応其
が作成した見積を
前田玄以
に届けるべく大坂(摂津国)に遣わした演賀・演俊が、
義演
のもとに戻る。両名は玄以が金堂造営料について了解した宗と、
豊臣秀頼
への礼を2月15日にするようにと指示があったことを義演に伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長5年 1600年 2月10日
醍醐寺(山城国)の金堂造営について、
義演
は
前田玄以
による造営料についての認可が得られたことを
応其
に伝える。
15日に予定されていた
豊臣秀頼
への礼が延引となる。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長5年 1600年 3月3日
応其
が
義演
のもとを訪れる。醍醐寺(山城国)の金堂造営料(1700石)の交付を記す折紙を応其が義演に渡す。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長5年 1600年 3月6日
醍醐寺金堂の柱立を行う。
出典:醍醐寺金堂棟札(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)
慶長5年 1600年 3月27日
醍醐寺金堂の棟上を行う。
出典:醍醐寺金堂棟札(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)
慶長5年 1600年 4月4日
応其
が醍醐寺金堂の造営見舞いとして同寺を訪れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長5年 1600年 4月6日
醍醐寺金堂造営につき吉日であるので瓦葺を開始する。
覚栄
が無事の建立を祈願するため醍醐長尾宮宝殿へ千句の懐紙を奉納する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、醍醐寺金堂棟札(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)
慶長5年 1600年 5月1日
醍醐寺金堂が高欄を残し完成する。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長5年 1600年 5月2日
醍醐寺金堂奉行の
覚栄
が、大仏師をともない
三宝院義演
のもとを訪れ、非時を賜う。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長7年 1602年 9月21日
応其
が造営を手掛けた寺院・神社を
覚栄
がまとめて応其に提出する。
出典:諸寺諸社造営目録(和歌山県立博物館編『没後四〇〇年 木食応其 ―秀吉から高野山を救った僧―』2008年10月)
慶長7年 1602年 10月16日
遍照院覚栄
が
東寺
金堂の本尊新造につき、大仏師・康正、康猶をともない
三宝院義演
のもとを訪れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長9年 1604年 -月-日
遍照院覚栄
が
東寺
南大門の奉行をつとめる。
出典:『義演准后日記』慶長10年2月5日条
慶長10年 1605年 2月5日
覚栄
が
三宝院義演
に扇6包を送る。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長10年 1605年 4月20日
東寺
南大門完成につき、本願である
文珠院勢誉
が棟札の板を
三宝院義演
に進上し、棟札の文章の執筆を依頼する。
出典:『義演准后日記』同年月日条
- -年 -月-日
覚栄
が死去する。
出典:-
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