人 物 史

応其 おうご
生 没 年天文5年(1536)-慶長13年(1608)10/1
出 身近江国
俗 姓(氏)佐々木俗 名-
別 称深覚
院 号 坊 号-
--
兄 弟 姉 妹-
所 属 寺 社高野山
方廣寺
興山寺
僧 位 僧 官-
諡 号-
師 匠政遍
参 考 文 献応其に関する参考文献
関 連 デ ー タ応其の関連文化財
応其 年表
天文5年 1536年 -月-日 1歳
応其が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 20歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 23歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 35歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 38歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正13年 1585年 7月11日 50歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正16年 1588年 3月3日 53歳
応其が造営を手掛けた室生寺龍王宮の遷座式が行われ、供養として大曼荼羅供養が執行される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正18年 1590年 9月21日 55歳
応其覚栄が三船神社を造替する。
出典:三船神社本殿棟札(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)

天正19年 1591年 閏1月17日 56歳
応其覚栄が三船神社の上遷宮を行う。
出典:三船神社本殿棟札(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)

天正19年 1591年 3月29日 56歳
山科言経大仏殿にいる応其のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 4月1日 56歳
山科言経大仏殿にいる応其其のもとを訪れ、朝飯を大勢の高野山学侶とともにする。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 4月2日 56歳
夕方、山科言経大仏殿にいる応其のもとを訪れ対面する。夜、応其の屋敷に梅庵・兼如とともに赴き連歌を行う。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 4月3日 56歳
山科言経大仏殿にいる応其のもとで朝飯をとる。大村由己・兼如が相伴する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 4月20日 56歳
山科言経大仏殿にいる応其のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 4月22日 56歳
山科言経細川幽斎・梅庵が大仏殿にいる応其のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 5月20日 56歳
大仏殿の柱立が行われる。柱立ては5・6本なされたという。豊臣秀吉がその場に臨み、諸大工に餅を配る。
出典:『時慶卿記』同年月日条、『言経卿記』同年同月22日条

天正19年 1591年 7月11日 56歳
大仏殿柱立が行われる。
出典:『時慶卿記』同年月日条

天正19年 1591年 7月24日 56歳
山科言経大仏殿にいる応其のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 11月14日 56歳
豊臣秀吉より東寺の造営奉行を命じられた応其が東寺の塔を再興。一重分ができる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正20年 1592年 2月3日 57歳
山科言経大仏殿にいる応其のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正20年 1592年 4月16日 57歳
山科言経大仏殿にいる応其のもとを訪れるが、応其は京都を出ており不在。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正20年 1592年 9月23日 57歳
豊臣秀吉本願寺顕如のもとに茶湯に赴く。その後、大仏殿に赴き、さらに大坂城(摂津国)へ向かう。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正20年 1592年 10月17日 57歳
山科言経大仏殿にいる応其のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正20年 1592年 11月3日 57歳
山科言経大仏殿にいる応其のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正20年 1592年 11月24日 57歳
応其山科言経を招き、4・5人で酒宴を開く。この日、大仏殿の柱立てを終える。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正20年 1592年 11月24日 57歳
大仏殿の柱立てが終わる。
出典:『言経卿記』同年月日条

文禄1年 1592年 12月8日 57歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 1月7日 58歳
西洞院時慶、里村紹巴が大仏殿にいる応其(「木食上人ノ小屋」)のもとを訪れる。
出典:『時慶卿記』同年月日条

文禄2年 1593年 閏9月23日 58歳
応其の病が回復し、豊臣秀吉のもとに謁見する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 11月25日 58歳
大仏殿応其の屋敷で連歌会が行われる。参会者は前田玄以・里村紹巴・西洞院時慶・里村昌叱・文閑・里村玄仍・下間頼純・里村紹与・猪苗代如。
出典:『時慶卿記』同年月日条

文禄2年 1593年 11月26日 58歳
高野山では、以後、新造の坊舎について、坊料を付けないことと応其・無量光院・北室院・桜池院・遍照光院・龍光院・如意輪寺・宝性院・高室院・正智院・無量寿院の連名をもって定める。
出典:文禄2年11月26日付木食興山上人等連署覚書案『高野山文書』巻1-70号

文禄2年 1593年 12月29日 58歳
大仏殿の瓦下地が完成し、瓦葺きを開始する。西洞院時慶が東寺再興と大仏殿造営の順調な進捗をみて「雖末世奇特ノ事共也、大閤御威光又木食興山上人生相不思儀ノ事也、」と豊臣秀吉応其を評する。
出典:『時慶卿記』同年月日条

文禄3年 1594年 1月11日 59歳
上岩出神社を応其が施主として再建する。本願は覚栄
出典:上岩出神社本殿棟札(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)

文禄3年 1594年 3月3日 59歳
朝、高野山に到着する。検校に50石、大舎利に100石、平僧100名に100石、新発意100名に200石、行人2000人に2000石、応其に1000石、木食内竪に100石を下行する。
出典:『駒井日記』同年月4日条

文禄3年 1594年 7月22日 59歳
大政所(豊臣秀吉の母・なか)が大檀那となり、応其が作事奉行をつとめた東寺塔婆の完成につき塔供養を行う。導師は三宝院義演
出典:『義演准后日記』文禄5年閏7月13日条

文禄4年 1595年 7月8日 60歳
豊臣秀吉が、謀叛の疑惑につき豊臣秀次高野山清巌寺に配流する。申刻(15-17時)、秀次が伏見城(山城国)を出立する。木下吉隆、羽田長門守、応其が秀次の供をする。秀次一行は玉水(山城国)に宿泊する。
夜、秀次の妻子が徳永寿昌邸に移され、前田玄以田中吉政が監視する。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」、『当代記』巻3同年月日条

文禄4年 1595年 7月9日 60歳
豊臣秀次が玉水(山城国)を出立し、奈良(大和国)の中院の井上源五郎邸に宿泊する。秀次のもとに見舞いの使者が多く訪れたが、不要である旨の触れを出すよう駒井重勝、益田照従に命じる。
出典:『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」

文禄4年 1595年 7月13日 60歳
豊臣秀次謀叛事件につき、連座した秀次家臣の処刑が行われる。秀次家臣の切腹に石田三成前田玄以増田長盛が検使として立ち会う。秀次謀叛事件に連座した服部一忠上杉景勝に、一柳直秀は徳川家康に、船越景直は遠流の刑に処される。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月15日 60歳
豊臣秀次高野山青巌寺にて切腹する。秀次家臣・木村重茲が秀次に連座し大門寺(摂津国)にて切腹する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条

文禄4年 1595年 8月-日 60歳
妙寺村の本尊を応其覚栄が造像する。
出典:大日如来像朱書銘(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)

文禄4年 1595年 9月21日 60歳
豊臣秀吉聖護院道澄大仏殿の住持に補任する。
出典:『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条

文禄4年 1595年 -月-日 60歳
大仏殿に奥院を新造する。
出典:『義演准后日記』文禄5年1月28日条

文禄5年 1596年 1月4日 61歳
三宝院義演応其に年賀の札と樽を送ってきたので、応其が返礼をする。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 1月28日 61歳
三宝院義演が1月29日の大仏千僧会にて導師を勤めるため上洛する。応其が義演に大仏殿奥院を宿坊として提供する。応其は伊賀に赴いていたため留守。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 2月23日 61歳
2月25日の大仏千僧会出仕につき三宝院義演応其に宿坊を依頼する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 2月24日 61歳
方廣寺中門の全ての柱を建て終える。
出典:『義演准后日記』同年月25日条

文禄5年 1596年 2月25日 61歳
大仏千僧会が行われる。三宝院義演等が出仕する。
義演は宿坊にて応其に会い高野山奥院灯籠堂が炎上したことを聞く。
義演は本尊をはじめ大仏殿を見物し、あまりの広さに驚嘆する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 7月28日 61歳
三宝院義演が、29日に大仏千僧会に出仕するため、大仏殿応其の坊へ向かい宿泊する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 閏7月5日 61歳
応其方廣寺大仏の開眼供養を8月18日に執行する旨の触状を発給する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 閏7月9日 61歳
方廣寺大仏の開眼供養開催につき、三宝院義演東寺および応其より呪願の勤仕を依頼されたため、請ける旨を前田玄以に伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 8月30日 61歳
応其東寺伽藍復興のための材木を確保するよう高野衆に命じる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長1年 1596年 10月27日 61歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 1月23日 62歳
応其高野山より上洛する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 2月21日 62歳
三宝院義演応其に醍醐寺の塔婆修理に協力するよう依頼し、応其が引き受ける。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 2月24日 62歳
朝、応其高野山大塔供養会執行につき、高野山に向かうべく京都を出発する。
出典:『義演准后日記』同年月25日条

慶長2年 1597年 3月11日 62歳
応其の差配のもと高野山大塔供養会を執行する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 3月15日 62歳
三宝院義演が、21日に高野山大塔供養会にて導師を勤めるべく醍醐寺を発す。この日、大和郡山(大和国)にある応其の宿坊に宿泊する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 3月16日 62歳
三宝院義演が大和郡山(大和国)を発ち応其の所領がある紀伊国清水に宿泊する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 3月17日 62歳
三宝院義演が、清水(紀伊国)を発ち天野越えで高野山に登る。大門の外で下輿し高野山大塔に参詣する。興山寺に宿泊する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 3月21日 62歳
応其が差配する高野山大塔の供養会を執行する。導師は三宝院義演
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 3月22日 62歳
三宝院義演が下山の旨を応其にとどめられ清厳寺での両門徒召請の論議を見学する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 4月1日 62歳
応其高野山より上洛。この日、入洛する。
出典:『義演准后日記』同年3月29日条

慶長2年 1597年 4月2日 62歳
応其高野山大塔供養執行につき、高野衆を伴い豊臣秀吉のもとへ礼に赴く。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 4月3日 62歳
三宝院義演が導師を勤めた3月21日の高野山大塔供養会の礼として応其が義演のもとを訪れる。
義演は応其が訪れたのを機に、豊臣秀吉より醍醐寺塔婆修造料として1500石の寄進を受けたので、応其に塔婆の修造を依頼する。応其はその依頼を引き受ける。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 4月5日 62歳
応其が参内する。勅諚による持斎を止められる。
出典:『義演准后日記』同年月6日条

慶長2年 1597年 4月7日 62歳
応其のもとに醍醐寺番匠が礼として訪れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 4月24日 62歳
応其方廣寺大仏の材木採取につき、大和国宇多郡に赴く。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 4月29日 62歳
応其が大和国宇多郡より戻る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 6月22日 62歳
豊臣秀吉が伏見向島に瓜見に赴く。供応其等。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 7月17日 62歳
文禄5年閏7月13日の大地震により大破した大仏にかわり大仏殿に安置する善光寺阿弥陀如来(関寺阿弥陀堂に安置)が大津(近江国)に到着する。応其は大津から大仏殿に遷座するにあたり諸門跡の行列を編成の差配をする。
大仏殿に到着後、新造の宝塔に善光寺阿弥陀如来を安置する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 7月18日 62歳
応其の差配のもと善光寺阿弥陀如来が大津(近江国)から大仏殿に遷座する。その行列には、天台宗・真言宗の僧侶各々50口を先頭に応其、警護の浅野長政が続き、さらに照高院道澄・妙法院常胤・三宝院義演・聖護院興意・梶井宮応胤・曼殊院覚円といった諸門跡が続く。行列を一目見ようと貴賤が群集し、伏見の大名衆は桟敷を構えて行列を眺めたという。
大仏殿到着後は宝塔に善光寺阿弥陀如来が安置される。
この日より、「大仏」を改め「善光寺如来堂」と号す(『鹿苑日録』)。
西笑承兌は大仏は織田信長、大仏を倒した地震は明智光秀、善光寺如来は豊臣秀吉になぞらえる。
出典:『義演准后日記』・『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月7日 62歳
応其は播磨国に下向中という。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 9月18日 62歳
西笑承兌善光寺如来堂前で開催予定の朝鮮出兵戦死者を弔う大施食を執行の件につき前田玄以のもとを訪れる。玄以より鳥目万疋が支出される旨が伝えられる。また、施食の棚物、供台、盛物の箱について応其に作成が命じられ、それを大仏にいる応其に伝えるべく能智が遣わされる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月25日 62歳
26日に開催予定であった善光寺如来堂前での朝鮮出兵戦死者を弔う大施食執行が延期となる。延期理由は、朝鮮出兵戦死者の塚(「大明朝鮮闘死群霊所」)が小さいため、拡大してから施食をしてはとの意見があったためであるが、このことについて応其西笑承兌より問われた秀吉は、先に施食を行った後、塚を広げるようにとの指示する。よって、応其と承兌は28日に大施食を執行すると決し前田玄以に伝えるが、玄以は忙しく返答がなし。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月28日 62歳
西笑承兌善光寺如来堂前に赴き、卒塔婆を書く。同所にて朝鮮出兵戦死者を弔う大施食を執行する。応其に堵物2結を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長3年 1598年 2月11日 63歳
夕方、応其が醍醐寺に赴く。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 2月13日 63歳
前田玄以が送った醍醐寺五重塔修造用の材木150本が醍醐寺に到着する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 2月14日 63歳
応其が醍醐寺に赴く。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 2月23日 63歳
豊臣秀吉が醍醐寺に赴く。ヤリ山に登った後、三宝院に行き、膳を受ける。醍醐寺を再興することを伝え、門跡である三宝院義演に1000石を給付する。その内300を六坊再興に用い、残り700石を門跡の蔵(義演)が納めるようにと命じる。再興につき、金堂・講堂・食堂・鐘楼・経蔵・五重塔・湯屋・三門の建立を命じる。金堂等の建物は大和もしくは河内の1、2ヶ寺の堂舎を移すようにと命じる。造営奉行は応其に命じる。三宝院門跡の寝殿普請は増田長盛に命じる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 2月25日 63歳
応其が醍醐寺の伽藍復興につき、しかるべき堂舎を探すべく河内・大和に下向する。担当していた醍醐寺五重塔の修造工事は覚栄に委ねる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 2月26日 63歳
醍醐寺五重塔の五重目が完成する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 2月28日 63歳
豊臣秀吉が醍醐寺に赴く。ヤリ山に登った後、三宝院に行き、膳を受ける。膳を受けている途中、応其が大和国よりやってきて、伽藍に用いる堂舎の指図を秀吉に見せる。また、醍醐寺鎮守拝殿に、先年、秀吉が興福寺に参詣した折に作らせた舞台・楽屋を移築する旨、応其が提案する。その提案に対し秀吉は、楽屋については、建設予定の寝殿と大きさが似ているため、寝殿に転用するようにと命じる。ついで六坊へ各々50石ずつ給付することを伝える。三宝院の建物は六坊へ下行(移築)するようにと三宝院義演に命じる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 2月29日 63歳
この日より応其が再び醍醐寺五重塔の修造工事の指揮を執る。塔五重目に瓦を葺き終える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月1日 63歳
醍醐寺五重塔の五重目が完成し、その部分の足場を解体する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月3日 63歳
豊臣秀吉が醍醐寺に赴く。醍醐寺五重塔の二重目の瓦を葺く。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月5日 63歳
醍醐寺五重塔が完成する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月6日 63歳
醍醐寺五重塔修造のため組んでいた足場をすべて解体する。醍醐寺五重塔に石段を敷く。応其配下・深盛が三宝院義演を訪れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月11日 63歳
豊臣秀吉が醍醐寺に赴く。まず山上に登り、その後、五重塔の前に舞台・楽屋を設置すべく縄張りをする。3月中に完成させるようにと命じる。その後、三宝院に赴き膳を受ける。醍醐寺の伽藍は、16日に移築するようにと命じる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月13日 63歳
豊臣秀吉が醍醐寺での花見を15日に開催する旨、醍醐寺三宝院義演に申し伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 3月15日 63歳
豊臣秀吉が醍醐寺にて諸大名を召し連れ花見を催す。三宝院義演へ銀100枚を遣わす。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 4月3日 63歳
応其が、醍醐寺金堂に用いるため、湯浅(紀伊国)にある本宮を解体を終え、この日、大仏殿に帰寺する。
出典:『義演准后日記』同年月4日条

慶長3年 1598年 4月9日 63歳
応其が醍醐寺に入る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 4月11日 63歳
醍醐寺金堂の作事が延期となったため、清凉寺釈迦堂の歪みを直しに当寺へ赴く。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 5月7日 63歳
醍醐寺金堂の普請について着手してもよいかを応其豊臣秀吉に伺ったところ早急に建立すべきの旨を言い渡される。
出典:『義演准后日記』同年月9日条

慶長3年 1598年 5月8日 63歳
醍醐寺金堂の普請について豊臣秀吉より早急に建立するようにと応其が言い渡されたことを、応其が三宝院義演に伝える。
出典:『義演准后日記』同年月9日条

慶長3年 1598年 5月11日 63歳
応其が宇治平等院の修造を命じられる。三宝院義演より糒袋を送られる。16・17日あたりに醍醐寺に向かうことを義演に伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 5月19日 63歳
未刻(13-15時)、応其が醍醐寺に入る。仮柱立てが行われている金堂に向かうそれを指揮する。作事はすべて高野山の下法師で応其の配下が担う。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 5月20日 63歳
醍醐寺金堂の地中に埋まっていた礎石が発見されたと、応其が醍醐寺より報告を受ける。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 5月20日 63歳
応其が醍醐寺の北にある赤間の福万家に住む。三宝院義演より見舞いとして樽・食籠が贈られる。高野普請の下法師の宿は赤間御陵に20間、醍醐寺より用意してもらう。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 5月24日 63歳
応其大仏殿に帰る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 5月29日 63歳
応其が金堂の工事を請け負っている醍醐寺に赴く。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 6月3日 63歳
応其が醍醐寺金堂作事の用意のため醍醐寺に入る。金堂作事に用いる材木を渡瀬より高野衆に運ばせる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 6月6日 63歳
応其が醍醐寺金堂作事にあたり地鎮祭の執行を三宝院義演に求め、義演より許可を得る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 6月8日 63歳
醍醐寺金堂の基礎工事を終える。三宝院義演がやってきて、高野法師とともに酒を賜う。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 6月9日 63歳
醍醐寺内にある長尾宮拝殿にて一人で連歌を吟じる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 6月12日 63歳
醍醐寺金堂作事につき造営料が豊臣秀吉より下行されていないので、応其伏見城(山城国)に向かい下行を訴える。しかし、下行がならなかったので、義演にその旨を伝える。夕方、仮屋にて三宝院義演と相談をする。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 6月14日 63歳
三宝院義演応其に樽2荷・両種を送る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 6月15日 63歳
応其大仏殿に帰る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 7月3日 63歳
醍醐寺金堂に用いる瓦が石田船入に到着した旨を三宝院義演に伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 2月2日 64歳
三宝院義演が醍醐寺(山城国)金堂の造営を応其に依頼する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 2月26日 64歳
東寺五重塔に落雷。心柱が燃える。応其高野山法師ら大仏殿より駆けつけ鎮火する。
出典:『義演准后日記』同年月日条条

慶長4年 1599年 3月6日 64歳
醍醐寺(山城国)金堂建立のための瓦5000枚余が、石田(山城国)に到着する。
出典:『義演准后日記』同年月日条条

慶長4年 1599年 3月7日 64歳
醍醐寺(山城国)金堂建立のため、檜皮師が同寺に訪れる。また、瓦6000枚余が到着する。
出典:『義演准后日記』同年月日条条

慶長4年 1599年 3月8日 64歳
醍醐寺(山城国)金堂建立用の瓦が到着する。
出典:『義演准后日記』同年月日条条

慶長4年 1599年 5月17日 64歳
高台院の命による東寺(山城国)の金堂建立につき、地割がなる。奉行は応其
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 6月1日 64歳
高台院の命による石山寺(近江国)の観音堂修復につき、岩間の山木を伐採する。奉行は応其
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 6月28日 64歳
応其が石山寺(近江国)の造営のため現地に赴いていたが、この日、大仏殿近くの坊舎に戻り、大仏千僧会に出仕するため上洛した三宝院義演と対面する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 8月9日 64歳
遍照院覚栄義演のもとに訪れる。8月12日に方廣寺(山城国)の応其の坊にて灌頂を執行すること、8月13日に豊臣秀吉の追善のため結縁灌頂を執行することを伝える。導師は宝性院。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 8月12日 64歳
大仏殿の坊舎にて、三宝院義演より灌頂を授かる。
出典:『義演准后日記』同年月日・8月9日条

慶長4年 1599年 8月13日 64歳
豊臣秀吉追善のため、大仏殿の坊舎にて、応其三宝院義演より結縁灌頂を授かる。東寺の寺僧が残らず出仕したという。
出典:『義演准后日記』同年月日・8月9日条条

慶長4年 1599年 12月28日 64歳
応其覚栄が三船神社の摂社を造営する。
出典:三船神社摂社棟札(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)

慶長5年 1600年 1月17日 65歳
義演が醍醐寺(山城国)の金堂建立のことについて、応其と談合すべく、演照・演賀を遣わす。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 1月20日 65歳
応其が醍醐寺(山城国)の金堂造営につき、雑料の目録(見積)を義演に送る。ただし、応其の見積には材木に関する記載がなかったため、材木分についても報告するように応其配下の覚栄に依頼する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 1月21日 65歳
応其義演に提出した醍醐寺(山城国)金堂造営の雑料目録(見積)を、義演は前田玄以に送る。ただし、玄以は、朝に丹波亀山城(丹波国)に帰城したため目録は渡せず。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 1月25日 65歳
義演応其より提出された醍醐寺(山城国)金堂造営の雑料目録(見積)を、再度、前田玄以に送るべく演賀・堯政を遣わす。ただし、玄以は、大坂(摂津国)に下向してしまったため渡せず。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 2月9日 65歳
醍醐寺(山城国)の金堂造営につき応其が作成した見積を前田玄以に届けるべく大坂(摂津国)に遣わした演賀・演俊が、義演のもとに戻る。両名は玄以が金堂造営料について了解した宗と、豊臣秀頼への礼を2月15日にするようにと指示があったことを義演に伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 2月10日 65歳
醍醐寺(山城国)の金堂造営について、義演前田玄以による造営料についての認可が得られたことを応其に伝える。
15日に予定されていた豊臣秀頼への礼が延引となる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 3月3日 65歳
応其義演のもとを訪れる。醍醐寺(山城国)の金堂造営料(1700石)の交付を記す折紙を応其が義演に渡す。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 3月6日 65歳
醍醐寺金堂の柱立を行う。
出典:醍醐寺金堂棟札(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)

慶長5年 1600年 3月27日 65歳
醍醐寺金堂の棟上を行う。
出典:醍醐寺金堂棟札(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)

慶長5年 1600年 4月4日 65歳
応其が醍醐寺金堂の造営見舞いとして同寺を訪れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 4月6日 65歳
醍醐寺金堂造営につき吉日であるので瓦葺を開始する。覚栄が無事の建立を祈願するため醍醐長尾宮宝殿へ千句の懐紙を奉納する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、醍醐寺金堂棟札(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)

慶長5年 1600年 4月18日 65歳
醍醐寺金堂の棟札を三宝院義演が執筆する。
出典:醍醐寺金堂棟札(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月)

慶長5年 1600年 5月1日 65歳
醍醐寺金堂が高欄を残し完成する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 5月2日 65歳
醍醐寺金堂奉行の覚栄が、大仏師をともない三宝院義演のもとを訪れ、非時を賜う。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 5月7日 65歳
大坂城(摂津国)にいる応其のもとに三宝院義演が書状を送る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 5月11日 65歳
応其が9日に金堂が完成した醍醐寺を訪れる。三宝院にて三宝院義演より非時を賜う。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 5月12日 65歳
応其大仏殿に安置する大仏の蓮台を鋳造する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 9月21日 67歳
応其が造営を手掛けた寺院・神社を覚栄がまとめて応其に提出する。
出典:諸寺諸社造営目録(和歌山県立博物館編『没後四〇〇年 木食応其 ―秀吉から高野山を救った僧―』2008年10月)

慶長13年 1608年 10月1日 73歳
応其が死去する。
出典:-

天和3年 1683年 1月-日 
一運により応其座像が作成される。
出典:木食応其坐像墨書銘(和歌山県立博物館編『没後四〇〇年 木食応其 ―秀吉から高野山を救った僧―』2008年10月)

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