寺 院 史

方廣寺(山城国) ほうこうじ
本 尊廬舎那仏
善光寺如来
創 建文禄4年 1595年
開 基応其
山 号-
宗 派天台宗
別 称大仏、大仏殿、善光寺如来堂
関連宗教施設-
現 所 在 地〒605-0931
京都府京都市東山区正面通大和大路東入茶屋町527-2
旧 所 在 地-
史 料 地 名-
イ メ ー ジ-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
リ ン ク-
方廣寺(山城国) 年表
天正16年 1588年 5月12日 
大仏殿建立につき石壇が積み上げられ、盛土が行われる。また洛中上京下京の衆に餅・酒が下行する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正16年 1588年 5月15日 
豊臣秀吉の命により三十三間堂の北に大仏殿の地築がなる。また京の町衆による風流踊や金春・観世座の能も行われる。
出典:『言経卿記』『多聞院日記』同年月日条

天正16年 1588年 5月16日 
豊臣秀吉大仏殿の屋敷に赴く。上京下京の町人に踊りを命じる。
出典:『北野日記』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正16年 1588年 6月10日 
豊臣秀長大仏殿建立につき仏師を召し連れ上洛する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正16年 1588年 7月18日 
辰刻(7-9時)、毛利輝元吉川広家小早川隆景蜂須賀家政が朝食をともにする。家政は「大仏の材木の御奉行」として四国に向けて兵庫(摂津国)より出立する。
出典:『天正記』同年月日条、『毛利輝元上洛日記』同年月日条

天正16年 1588年 9月2日 
千利休蒲生氏郷に書状を送り、大仏殿の家の屋根を一昨日に葺いたこと、9月中の茶の湯をすること、般若壺の茶を服したが天下一とは言えないことを伝える。
出典:天正16年9月22日千利休書状和歌山県立博物館編『没後四〇〇年 木食応其 ―秀吉から高野山を救った僧―』(2008年10月)

天正17年 1589年 7月9日 
方廣寺大仏殿造営につき、富士山より伐り出した材木の運搬を酒井家次松平家忠に伝える。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正17年 1589年 7月17日 
方廣寺大仏殿造営につき、富士山より伐り出した材木の運搬のため松平家忠に新井まで赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正17年 1589年 8月2日 
方廣寺大仏殿造営につき、富士山より伐り出した材木が興津に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正19年 1591年 3月29日 
山科言経大仏殿にいる応其のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 4月1日 
山科言経大仏殿にいる応其其のもとを訪れ、朝飯を大勢の高野山学侶とともにする。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 4月2日 
夕方、山科言経大仏殿にいる応其のもとを訪れ対面する。夜、応其の屋敷に梅庵・兼如とともに赴き連歌を行う。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 4月3日 
山科言経大仏殿にいる応其のもとで朝飯をとる。大村由己・兼如が相伴する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 4月20日 
山科言経大仏殿にいる応其のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 4月22日 
山科言経細川幽斎・梅庵が大仏殿にいる応其のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 5月20日 
大仏殿の柱立が行われる。柱立ては5・6本なされたという。豊臣秀吉がその場に臨み、諸大工に餅を配る。
出典:『時慶卿記』同年月日条、『言経卿記』同年同月22日条

天正19年 1591年 6月11日 
山科言経大仏殿にいる愛染院・持明院のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正19年 1591年 7月10日 
有節瑞保が大仏殿を見物する。大柱1本が立つのをみる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

天正19年 1591年 7月11日 
大仏殿柱立が行われる。
出典:『時慶卿記』同年月日条

天正19年 1591年 7月24日 
山科言経大仏殿にいる応其のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正20年 1592年 2月3日 
山科言経大仏殿にいる応其のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正20年 1592年 4月16日 
山科言経大仏殿にいる応其のもとを訪れるが、応其は京都を出ており不在。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正20年 1592年 9月23日 
豊臣秀吉本願寺顕如のもとに茶湯に赴く。その後、大仏殿に赴き、さらに大坂城(摂津国)へ向かう。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正20年 1592年 10月17日 
山科言経大仏殿にいる応其のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正20年 1592年 11月3日 
山科言経大仏殿にいる応其のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正20年 1592年 11月24日 
応其山科言経を招き、4・5人で酒宴を開く。この日、大仏殿の柱立てを終える。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正20年 1592年 11月24日 
大仏殿の柱立てが終わる。
出典:『言経卿記』同年月日条

文禄2年 1593年 1月7日 
西洞院時慶、里村紹巴が大仏殿にいる応其(「木食上人ノ小屋」)のもとを訪れる。
出典:『時慶卿記』同年月日条

文禄2年 1593年 11月25日 
大仏殿応其の屋敷で連歌会が行われる。参会者は前田玄以・里村紹巴・西洞院時慶・里村昌叱・文閑・里村玄仍・下間頼純・里村紹与・猪苗代如。
出典:『時慶卿記』同年月日条

文禄2年 1593年 12月29日 
大仏殿の瓦下地が完成し、瓦葺きを開始する。西洞院時慶が東寺再興と大仏殿造営の順調な進捗をみて「雖末世奇特ノ事共也、大閤御威光又木食興山上人生相不思儀ノ事也、」と豊臣秀吉応其を評する。
出典:『時慶卿記』同年月日条

文禄4年 1595年 9月21日 
豊臣秀吉聖護院道澄大仏殿の住持に補任する。
出典:『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条

文禄4年 1595年 9月25日 
大仏殿経堂において大政所の父母である栄雲院道円・栄光院妙円の弔いとして八宗(真言宗・天台宗・律宗・禅宗・日蓮宗・浄土宗・時宗・浄土真宗)の僧100名ずつを召し寄せ、寅下刻(4時)より申刻(15-17時)まで法会を開催する。
出典:『言経卿記』同年月日条

文禄4年 1595年 -月-日 
大仏殿に奥院を新造する。
出典:『義演准后日記』文禄5年1月28日条

文禄5年 1596年 1月25日 
豪盛が大仏千僧会に出仕。豪盛は醍醐寺三宝院義演と雑談する。豊臣秀吉延暦寺を建立してくれたことを義演に物語る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 1月28日 
三宝院義演が1月29日の大仏千僧会にて導師を勤めるため上洛する。応其が義演に大仏殿奥院を宿坊として提供する。応其は伊賀に赴いていたため留守。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 1月29日 
豊臣秀吉が母・なかのため大仏殿妙法院にて八宗の僧侶による千僧会を執行する。三宝院義演等が出仕する。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条、『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 2月24日 
三宝院義演が上洛し大仏奥院を宿坊とする。
毛利輝元が義演に500疋を進上する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 2月24日 
方廣寺中門の全ての柱を建て終える。
出典:『義演准后日記』同年月25日条

文禄5年 1596年 5月6日 
豊臣秀吉伏見城(山城国)より上洛する。大仏殿にて公家衆が出迎える。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

文禄5年 1596年 5月29日 
母・なかのため大仏殿妙法院において僧衆800による法会を執行する。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

文禄5年 1596年 6月25日 
大仏千僧会が行われる。三宝院義演が導師として出仕する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 7月28日 
三宝院義演が、29日に大仏千僧会に出仕するため、大仏殿応其の坊へ向かい宿泊する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 7月29日 
大仏千僧会が行われる。三宝院義演が導師として出仕する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 閏7月5日 
応其方廣寺大仏の開眼供養を8月18日に執行する旨の触状を発給する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 閏7月9日 
方廣寺大仏の開眼供養開催につき、三宝院義演東寺および応其より呪願の勤仕を依頼されたため、請ける旨を前田玄以に伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

文禄5年 1596年 閏7月13日 
大地震により方廣寺の本尊である大仏が大破する。左手が崩れ落ち、胸が崩れ、その他はところどころでひび割がおこる。建物については築地が崩壊し、中門の四方角柱がやや裂けるが、大仏殿は無事。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 4月24日 
応其方廣寺大仏の材木採取につき、大和国宇多郡に赴く。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 4月24日 
豊臣秀吉が上洛する。方廣寺大仏殿で行われている千僧会に出席する。
出典:『義演准后日記』・『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月29日 
応其が大和国宇多郡より戻る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 7月17日 
文禄5年閏7月13日の大地震により大破した大仏にかわり大仏殿に安置する善光寺阿弥陀如来(関寺阿弥陀堂に安置)が大津(近江国)に到着する。応其は大津から大仏殿に遷座するにあたり諸門跡の行列を編成の差配をする。
大仏殿に到着後、新造の宝塔に善光寺阿弥陀如来を安置する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 7月18日 
応其の差配のもと善光寺阿弥陀如来が大津(近江国)から大仏殿に遷座する。その行列には、天台宗・真言宗の僧侶各々50口を先頭に応其、警護の浅野長政が続き、さらに照高院道澄・妙法院常胤・三宝院義演・聖護院興意・梶井宮応胤・曼殊院覚円といった諸門跡が続く。行列を一目見ようと貴賤が群集し、伏見の大名衆は桟敷を構えて行列を眺めたという。
大仏殿到着後は宝塔に善光寺阿弥陀如来が安置される。
この日より、「大仏」を改め「善光寺如来堂」と号す(『鹿苑日録』)。
西笑承兌は大仏は織田信長、大仏を倒した地震は明智光秀、善光寺如来は豊臣秀吉になぞらえる。
出典:『義演准后日記』・『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 7月25日 
方廣寺に参詣者が大いに集まったという。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 7月27日 
方廣寺に参詣者が大いに集まり、善光寺阿弥陀如来を見に来た人々相手の市も立ったという。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 7月28日 
豊臣秀吉が、7月18日に大仏殿に遷座した善光寺阿弥陀如来を見物するべく大仏殿に参詣する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 9月12日 
朝鮮からもたらされた耳鼻の桶15桶が方廣寺の塚(耳塚)に埋納される。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 9月17日 
善光寺如来堂前にて朝鮮出兵戦死者の「慈救」として大施食の執行を命じる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月17日 
豊臣秀吉が善光寺如来堂(大仏殿)前にて朝鮮出兵戦死者の「慈救」ためとして大施食の執行を命じる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月18日 
西笑承兌善光寺如来堂前で開催予定の朝鮮出兵戦死者を弔う大施食を執行の件につき前田玄以のもとを訪れる。玄以より鳥目万疋が支出される旨が伝えられる。また、施食の棚物、供台、盛物の箱について応其に作成が命じられ、それを大仏にいる応其に伝えるべく能智が遣わされる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月19日 
善光寺如来堂前で開催予定の朝鮮出兵戦死者を弔う大施食を執行の件につき、南禅寺(山城国)、天龍寺(山城国)、建仁寺(山城国)、東福寺(山城国)に僧衆を出仕させるよう西笑承兌が触状を出す。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月23日 
善光寺如来堂前で開催予定の朝鮮出兵戦死者を弔う大施食の執行につき、大施食料100貫文を渡すと前田玄以より一箒斎をもって伝えられる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月25日 
26日に開催予定であった善光寺如来堂前での朝鮮出兵戦死者を弔う大施食執行が延期となる。延期理由は、朝鮮出兵戦死者の塚(「大明朝鮮闘死群霊所」)が小さいため、拡大してから施食をしてはとの意見があったためであるが、このことについて応其西笑承兌より問われた秀吉は、先に施食を行った後、塚を広げるようにとの指示する。よって、応其と承兌は28日に大施食を執行すると決し前田玄以に伝えるが、玄以は忙しく返答がなし。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月27日 
善光寺如来堂前での朝鮮出兵戦死者を弔う大施食の件につき、早朝、前田玄以西笑承兌に28日の執行許可を伝える。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月28日 
善光寺如来堂堂(大仏殿)前の耳塚にて五山禅僧が施餓鬼を行う。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 4月3日 
応其が、醍醐寺金堂に用いるため、湯浅(紀伊国)にある本宮を解体を終え、この日、大仏殿に帰寺する。
出典:『義演准后日記』同年月4日条

慶長3年 1598年 5月24日 
応其大仏殿に帰る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 6月15日 
応其大仏殿に帰る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 2月26日 
東寺五重塔に落雷。心柱が燃える。応其高野山法師ら大仏殿より駆けつけ鎮火する。
出典:『義演准后日記』同年月日条条

慶長4年 1599年 6月28日 
応其が石山寺(近江国)の造営のため現地に赴いていたが、この日、大仏殿近くの坊舎に戻り、大仏千僧会に出仕するため上洛した三宝院義演と対面する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 8月9日 
遍照院覚栄義演のもとに訪れる。8月12日に方廣寺(山城国)の応其の坊にて灌頂を執行すること、8月13日に豊臣秀吉の追善のため結縁灌頂を執行することを伝える。導師は宝性院。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 8月12日 
大仏殿の坊舎にて、三宝院義演より灌頂を授かる。
出典:『義演准后日記』同年月日・8月9日条

慶長4年 1599年 8月13日 
豊臣秀吉追善のため、大仏殿の坊舎にて、応其三宝院義演より結縁灌頂を授かる。東寺の寺僧が残らず出仕したという。
出典:『義演准后日記』同年月日・8月9日条条

慶長5年 1600年 5月12日 
応其大仏殿に安置する大仏の蓮台を鋳造する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 6月19日 
前田玄以より三宝院義演に醍醐寺塔修造および金堂造営に用いた足場用の材木を大仏殿に運送するようにとの命が下る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 6月21日 
19日に前田玄以より命じられた、醍醐寺塔修造および金堂造営に用いた足場用材木を、寺領民を人足として徴発し大仏殿まで運送させる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 4月25日 
方広寺で大仏千僧会が執行される。1番は天台宗で照高院道澄が導師をつとめ、第2番は真言宗で大覚寺空性が導師をつとめる。3番以下は、通常通り。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 6月29日 
方廣寺にて大仏千僧会が執行される。1番は真言宗で三宝院義演が導師をつとめ、第2番は天台宗で曼殊院良恕が導師をつとめる。3番以下は、通常通り。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 8月29日 
方廣寺にて大仏千僧会が執行される。1番は真言宗で大覚寺空性が導師をつとめる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 12月4日 
辰刻(7-9時)、方廣寺(山城国)の大仏殿内にて本尊の鋳造が行われるが、鋳造中の本尊より出火し、後光に引火して、大仏殿堂内にも火が回り、午刻(11-13時)、大仏殿が灰燼に帰す。この火災で照高院、鳥辺野の芝が焼ける。妙法院(山城国)、豊国神社(山城国)は災を免れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長15年 1610年 6月16日 
方廣寺(山城国)の大仏殿造営のため90本ずつ三重に、計180本の柱立てが行われる。柱1本につき銀16貫目、仏前は8間と間が広いため巨木を用いる必要から1本で銀100貫目する木材が使われる。これにより豊臣秀吉が蓄えた金銀が「払底」したとされる。
出典:『当代記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月4日 
中井正清駿府城(駿府城)に居る徳川家康のもとに訪れ、前殿等造替を報告する。また、方廣寺大仏殿の大虹梁立てについて、容易に成し遂げることができることを家康に伝え、家康は喜悦する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月29日 
角倉素庵駿府城(駿河国)に居る徳川家康のものを訪れる。与一は方廣寺大仏殿の瓦葺きが成ったこと、父・了以とともに、淀(山城国)・鳥羽(山城国)の船が三条橋まで乗り入れることができるよう鴨川を開削したこと、この開削により禁裏造営時に材木の搬入ができるようになったことを家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月16日 
卯刻(5-7時)、方廣寺大仏殿(山城国)の鐘鋳が行われる。
出典:『駿府記』同年月19日条

慶長19年 1614年 4月19日 
板倉勝重の飛脚が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着する。16日に方廣寺大仏殿(山城国)の鐘鋳が行われたことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月20日 
勅使の広橋兼勝・三条実條、藪宰相、日野、広橋兼賢、高倉が駿府城(駿河国)に登城し徳川家康に会う。勅使の意趣は、徳川秀忠の娘を入内すること、家康に太政大臣か准三后従一位に任官することを伝える。家康よりは、「公家中之法式」を糺すこと、諸公家の記録を書写し進上することを伝える。実條が『三代実録』を所持していることを家康に伝える。
曲直瀬玄朔が家康に謁す。
京都より家康のもとに飛脚が到着し、方廣寺大仏殿(山城国)の鐘鋳に唐金17000貫目余、鞴数132丁、桶4筋、鋳物師棟梁は山城国釜之座弥右衛門・同助左衛門、脇棟梁11人、諸国鋳物師3100余人、鐘の口9尺1寸5分、高1丈8寸、厚9寸だったことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月3日 
8月3日に方廣寺大仏殿の大仏開眼供養が行われ、導師は仁和寺門跡であるとの勅諚が出たことを、金地院崇伝徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月8日 
南光坊天海徳川家康方廣寺(山城国)の大仏開眼供養のことについて、仁和寺門跡が出仕することへの異論を訴える。家康は以心崇伝を介し片桐且元に、近年の事例ではなく聖武天皇や源頼朝の時代の例を調べるよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月18日 
京都(山城国)の板倉勝重片桐且元より以心崇伝をもって駿府城(駿河国)にいる徳川家康方廣寺(山城国)の大仏開眼供養について報告がある。8月3日の朝、仁和寺門跡を導師とし、日中の供養は天台宗を左座とすること、鷹司が大仏殿に着座し、公家衆は堂内に着座することなどを伝える。なお、頼朝時代の開眼供養について、家康が『吾妻鑑』を読ませる。
多武峰(大和国)が崩れ、大織冠社檀が破損したこと、ただし藤原鎌足像は無事で他所に移したことを崇伝と竹林坊が家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月21日 
飛鳥井中納言が徳川家康に『源氏物語』を講釈する。
駿府城(駿河国)数寄屋にて家康が近習4、5人と金地院崇伝板倉重昌を召し、方廣寺(山城国)の鐘の銘文が「関東不吉」であると述べたうえで、上棟式の日程についても吉日ではないとして立腹する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月26日 
南光坊天海徳川家康に天台血脈を伝授する。
片桐且元板倉勝重の書状が家康のもとに届く。内容は方廣寺大仏供養は8月3日、開眼供養は8月18日にするようにとの家康の指示だが、18日は豊国臨時祭のため3日に開眼供養を開催したいと豊臣秀頼が述べていたことを伝える。家康はこの返事として、大仏供養のことについて棟札の記載と鐘の銘文に立腹していることを伝え、頼朝時代には大仏開眼と堂供養は分けて実施しているので先例に倣うようにと本多正純金地院崇伝をして伝えさせる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月2日 
方廣寺大仏供養に天台宗僧(諸末寺衆)として多賀社の般若院・成就院・少納言・少弐が参加する。
出典:『大仏供養請僧惣名帳』(『大日本仏教全書』寺誌叢書三)

慶長19年 1614年 8月2日 
中井正清駿府城(駿河国)にいる徳川家康方廣寺(山城国)の鐘の銘文を送る。銘文の筆者は東福寺(山城国)の清韓で、家康は「国家安康」の語をはじめ文章に不快感を示す。銘文の写しを作成し、徳川秀忠に送る。担当は林羅山
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月4日 
中井正清より駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに方廣寺(山城国)大仏殿の棟札写しがもたらされる。棟札執筆者は照高院道勝。家康は棟札の文章に不快感を示す。鐘の銘文についても、奈良の大仏の鐘銘になぞらえるようにと伝えたのに異なっていたこと、また豊臣秀頼が京都(山城国)に赴くならば、供奉の者を諸大夫に任官すべきと伝えたが、諸大夫の任官だけして秀頼の京行きは中止となったことに不審の念を示す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月5日 
片桐且元より駿府城(駿河国)にいる徳川家康方廣寺(山城国)大仏殿の鐘銘・棟札が到着する。4日に中井正清が提出したものと同文であることを確認する。家康は鐘銘の善悪を五山衆に問うべく、板倉重昌を京都(山城国)に遣わすこととする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月17日 
徳川家康中井正清より提出された興福寺(大和国)南大門、法隆寺(大和国)の御持堂・聖霊院・法華堂の棟札写4通を見て、各棟札には大工名が入っているのに、方廣寺(山城国)大仏殿の棟札にはそれがないとして立腹する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月18日 
板倉重昌が京都より駿府城(駿河国)の徳川家康のもとに戻る。方廣寺大仏殿梵鐘の銘文について五山碩学の長老7人の批判文を持参する。家康はその批判文を読んだうえで、南光坊天海以心崇伝林羅山を呼び、批判文より英叟清韓の文書の難点を指摘するよう命じる。
片桐且元が丸子寺に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月19日 
片桐且元が駿府(駿河国)に到着する。
徳川家康方廣寺(山城国)鐘銘についての五山衆の批判文の写しを徳川秀忠に送る。林羅山が担当。
於大の13回忌として家康が銀100枚を増上寺(武蔵国)に送る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月20日 
徳川家康以心崇伝本多正純方廣寺(山城国)に棟札・鐘銘がどこで食い違ったのか、また豊臣秀頼が多くの牢人を召し抱えていることについて不審の念を述べる。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月20日 
大野道犬が方廣寺大仏殿あたりで捕縛される。
浅野長晟が紀伊国伊都郡に隠れていた真田信繁の妻を捕らえ二条城(山城国)に移送する。信繁妻は豊臣秀頼より信繁に与えられた黄金57枚と脇差(銘 来国俊)を所持しており、長晟はそれらを徳川家康に進上するが、家康はそれを長晟に賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月9日 
徳川家康二条城(山城国)前殿に出座する。家康は南光坊天海以心崇伝を召し、豊国神社(山城国)について破却したいところであるが、祭神である豊臣秀吉方廣寺大仏(山城国)の鎮守であるので、大仏殿の回廊裏に遷座を考えているが、どうかと尋ねる。天海・崇伝いずでも、家康の意図でしかるべしと返答する。そこで家康は、板倉勝重を召し寄せ、妙法院門跡を方廣寺住持とし1000石を加増する旨を伝える。照高院興意については、家康・秀忠父子の調伏祈祷をしていたので思うところはあるが、ひとまず聖護院に移すこととする。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月19日 
智積院を照高院寺屋敷に移す。妙法院を方廣寺(山城国)住持とするための処置とされる。妙法院には新たに300石を給付する。
出典:『駿府記』同年月日条

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