人 物 史

高力忠房 こうりき ただふさ
生 没 年天正12年(1584)-明暦1年(1655)12/11
出 身-幼 名-
別 称-
法 名-
戒 名禅林院殿傑岑道英大居士
高力正長本多忠俊の娘
兄 弟 姉 妹高力忠房、高力正重、高力長次
配 偶 者まん(真田信幸の娘)
高力隆長、高力高房、高力政房、娘(小川正久の妻)
官 位左近大夫、摂津守
役 職江戸幕府 奏者番
城 郭岩槻城(武蔵国)、浜松城(遠江国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ史料にみえる高力忠房の呼称
高力忠房の関連文化財
高力忠房 年表
天正12年 1584年 -月-日 1歳
高力忠房が遠江国浜松にて生まれる。
出典:-

文禄1年 1592年 12月8日 9歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 13歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 15歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 2月12日 20歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 22歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長18年 1613年 11月14日 30歳
徳川家康が鷹狩をする。17日に岩槻(武蔵国)に移動する旨を明らかにする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月16日 30歳
徳川家康が体調不良により、17日に予定していた岩槻(武蔵国)への移動を延期する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月19日 30歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が忍(武蔵国)を発す。道中、鷹狩をする。申刻(15-17時)、岩槻(武蔵国)に到着する。岩槻城(武蔵国)城主の高力忠房が家康を出迎える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月20日 30歳
徳川家康が岩槻(武蔵国)を発ち、未刻(13-15時)、越谷(武蔵国)に到着する。
小山(下野国)より本多正純が越谷に到着する。
徳川秀忠が鴻巣(武蔵国)より江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日 32歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 33歳
徳川家康が死去する。
出典:-

寛永1年 1624年 2月30日 41歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
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寛永9年 1632年 1月24日 49歳
徳川秀忠が死去する。
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正保1年 1644年 12月16日 61歳
「寛永」より「正保」に年号が改まる。
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慶安1年 1648年 2月15日 65歳
「正保」より「慶安」に年号が改まる。
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慶安4年 1651年 4月20日 68歳
徳川家光が死去する。
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承応1年 1652年 9月18日 69歳
「慶安」より「承応」に年号が改まる。
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明暦1年 1655年 4月13日 72歳
「承応」より「明暦」に年号が改まる。
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明暦1年 1655年 12月11日 72歳
高力忠房が死去する。
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