城 郭 史

浜松城(遠江国) はままつじょう
築 城 年-
築 城 者-
改 築 年-
改 築 者-
廃 城 年-
別 称-
現 所 在 地〒430-0946
静岡県浜松市中区元城町100-2
史 料 地 名-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ浜松城(遠江国)の関連文化財
リ ン ク徳川家康堀尾吉晴
浜松城 年表
和暦 西暦 事項 出典
永禄13年1570420織田信長朝倉義景の領国である越前国へ侵攻すべく、軍勢30000を率い京都を発ち、一条(山城)を東に出て坂本(近江国)を経由して和邇(近江国)に到着する。和邇・堅田に陣取る。武井夕庵松永久秀池田勝正(軍勢3000)が従軍する。『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」、『多聞院日記』同年月22日条、『当代記』同年月日条
永禄13年1570421織田信長が田中城(近江国)に到着する。『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」
永禄13年1570422織田信長が熊川(若狭国)の松宮玄蕃の所に宿泊する。『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」
元亀1年1570423織田信長が佐柿(若狭国)の粟津越中守の所に逗留する。『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」
元亀1年1570425織田信長が敦賀(越前国)に着陣し、手筒山城(越前国)を攻める。織田勢は森可隆が戦死する。『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『言継卿記』同年月27日条、『多聞院日記』同年月29日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の項
元亀1年1570426金ヶ崎城(越前国)に籠城していた朝倉景恒織田信長に降伏する。『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」
元亀1年1570429織田信長が越前国侵攻中のところ、義弟・浅井長政が信長を裏切り、朝倉義景に呼応する。美濃国への往還が不可能となった信長は若狭国西路を京都(山城国)に向かって逃走する。『言継卿記』同年月日条
元亀1年1570430越前国侵攻中の織田信長が、浅井長政の裏切りにより越前国を撤退し、下田(丹波国)を経由し、亥刻(21-23時)、10名程度で京都に入る。松永久秀等が供をする。『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年5月1日条、『継芥記』同年5月1日条、『当代記』同年月日条
元亀3年157211-武田信玄が二俣城(遠江国)を包囲するとの報を受けた織田信長が、佐久間信盛、平手汎秀、水野信元を援軍として浜松城(遠江国)に遣わす。『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」
元亀3年157211-武田信玄が、中根正照、松平康安、青木四郎兵衛の籠る二俣城(遠江国)を包囲する。『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項
元亀3年1572--武田信玄が二俣城(遠江国)を攻略する。『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」
元亀3年1572--武田信玄が堀江城(遠江国)を攻める。『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」
元亀3年15721222三方ヶ原(遠江国)にて武田信玄徳川家康が戦い、信玄が勝利する。
武田信玄勢:真田昌幸土屋昌続横手信俊[山県昌景勢]、山高信親(戦死)。
徳川家康勢:酒井忠次酒井正親榊原康政[先鋒]、小栗忠政鳥居忠広(戦死)・野々山元政(戦死)、石川正俊(戦死)、渥美友勝、加藤正信(戦死)、加藤比禰丞(戦死)。
織田勢:平手汎秀(戦死)。
浜松城(遠江国)留守居衆:石川家成、小笠原広重。
『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井忠次」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同118「石川家成」の項、同122「石川正俊」の項、同110「野々山元政」の項、同160「山高信親」の項、同163「柳沢信俊」の項、同191「小笠原広重」の項、同777「加藤比禰丞」の項、同777「加藤正信」の項、同961「渥美友勝」の項
天正5年15771021徳川家康勢が掛川(遠江国)より浜松(遠江国)に帰陣する。『家忠日記』同年月日条
天正5年15771022徳川家康が馬伏塚より浜松(遠江国)に帰陣する。『家忠日記』同年月日条
天正6年157836松平家忠浜松城(遠江国)を出立する。『家忠日記』同年月日条
天正6年157838松平家忠掛川城(遠江国)を出立し大井川に陣取る。『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項
天正6年1578318松平家忠牧野城(遠江国)の普請終了につき、浜松城(遠江国)まで帰陣する。『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項
天正6年1578417松平信康浜松城(遠江国)より居城・岡崎城(三河国)に帰城する。『家忠日記』同年月日条
天正6年1578630松平家忠浜松城(遠江国)の普請のため岡崎城(三河国)を発ち、深溝城(三河国)に帰城する。『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項
天正6年157872松平家忠浜松城(遠江国)に到着する。『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項
天正6年1578819徳川家康による駿河国攻めに際し、三河国衆が浜松城(遠江国)に到着する。『家忠日記』同年月日条
天正6年1578912徳川家康浜松城(遠江国)より岡崎城(三河国)に赴く。『家忠日記』同年月日条
天正6年1578914徳川家康岡崎城(三河国)より浜松城(遠江国)に帰城する。『家忠日記』同年月日条
天正6年15781025松平家忠が10月24日の陣触れにつき、寅刻(3-5時)、深溝城(三河国)を出陣し、浜松城(遠江国)に到着する。『家忠日記』同年月日条
天正6年15781027松平信康が軍勢を率いて浜松城(遠江国)に到着する。『家忠日記』同年月日条
天正6年15781028遠江国にて大地震が起こる。『家忠日記』同年月日条
天正6年15781028松平家忠浜松城(遠江国)にいる松平信康酒井忠次のもとを訪れる。『家忠日記』同年月日条
天正6年15781029武田勝頼勢が大井川を越えたとの報が牧野城(遠江国)より浜松城にもたらされる。徳川家康勢は見附(遠江国)まで出陣する。『家忠日記』同年月日条
天正6年15781029遠江国にて地震が起こる。『家忠日記』同年月日条
天正6年1578111申刻(15-17時)、遠江国にて地震が起こる。『家忠日記』同年月日条
天正6年1578112申刻(15-17時)、遠江国にて地震が起こる。『家忠日記』同年月日条
天正6年1578113酉刻(17-19時)、遠江国にて地震が起こる。『家忠日記』同年月日条
天正6年1578114夜、遠江国にて地震が起こる。『家忠日記』同年月日条
天正6年15781112武田勝頼勢が高天神城(遠江国)に引き上げる。『家忠日記』同年月日条
天正6年15781125武田勝頼が遠江国より引き上げる。『家忠日記』同年月30日条
天正6年15781129申刻(15-17時)、遠江国にて地震が起こる。『家忠日記』同年月日条
天正6年15781130松平家忠牧野城(遠江国)に鉄砲衆20名を置く。11月25日に武田勝頼が引き上げたので、徳川家康勢も浜松城(遠江国)に引き上げる。松平信康は三河国まで帰国する。『家忠日記』同年月日条
天正7年157912徳川家康浜松城(遠江国)にて謡始を催す。松平家忠が参加する。『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項
天正7年1579119徳川家康岡崎城(三河国)に赴く。『家忠日記』同年月日条
天正7年157929松平家忠のもとに2月18日に浜松城(遠江国)の普請を命じる徳川家康印判状が届く。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579218松平家忠浜松城(遠江国)向けて、深溝城(三河国)を発つ。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579219松平家忠浜松城(遠江国)に到着する。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579221本多重次が浜松城(遠江国)の構の普請に従事する。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579223浜松城(遠江国)の普請が行われる。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579224浜松城(遠江国)の普請が行われる。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579225浜松城(遠江国)の普請が行われる。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579226浜松城(遠江国)の普請が行われる。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579227浜松城(遠江国)の普請が行われる。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579228浜松城(遠江国)の普請が行われる。『家忠日記』同年月日条
天正7年157931浜松城(遠江国)の普請が行われる。『家忠日記』同年月日条
天正7年157932浜松城(遠江国)の普請が行われる。『家忠日記』同年月日条
天正7年157933浜松城(遠江国)の普請が行われる。『家忠日記』同年月日条
天正7年157934浜松城(遠江国)の普請が行われる。『家忠日記』同年月日条
天正7年157935浜松城(遠江国)の普請が行われる。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579310浜松城(遠江国)の普請が行われる。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579311浜松城(遠江国)の普請が行われる。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579312浜松城(遠江国)の普請が終了する。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579423武田勝頼が江尻(駿河国)に出張ってきたとの報を受け、徳川家康石川数正を介し松平家忠に26日までに浜松城(遠江国)に参集するよう命じる。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579425武田勝頼が高天神(遠江国)・国安に陣取る。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579426夜、徳川家康浜松城(遠江国)より出陣し、馬伏塚(遠江国)に陣取る。松平信康吉田城(三河国)を発ち馬伏塚に陣取る。徳川勢の三河国衆は見付(遠江国)に陣取る。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579427徳川家の三河国衆が袋井(遠江国)に陣取る。国安に陣取っていた武田勝頼勢は撤退する。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579428松平家忠が河井市場(遠江国)に陣替えする。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579429松平家忠徳川家康旗本衆のいる馬伏塚(遠江国)に赴く。武田勝頼勢は大井川を越え撤退したため、徳川勢は浜松城(遠江国)に帰城する。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579430三河国衆の総勢が浜松城(遠江国)より三河国に帰国する。大将衆のみが浜松城に残る。『家忠日記』同年月日条
天正7年157983徳川家康浜松城(遠江国)より岡崎城(三河国)に赴く。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579810徳川家康が国衆に対して松平信康と音信を交わさないことを誓う起請文の提出を求める。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579812徳川家康(三河国)より(遠江国)に帰城する。岡崎城には留守居として本多重次を置く。『家忠日記』同年月日条
天正7年157992徳川家康浜松城(遠江国)にて病を患う。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579919徳川家康家臣の牧野康成・掛川衆が向井正重の籠る持船城(駿河国)を攻め、同城を落とす。向井正重、向井政勝が戦死する。『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「清和源氏 義家流 足利支流 向井」「向井正重」の項・「向井政勝」の項
天正7年1579101徳川家康浜松城(遠江国)に帰城する。『家忠日記』同年月日条
天正7年15791019徳川家康浜松城(遠江国)より出陣し掛川城(遠江国)に入る。『家忠日記』同年月日条
天正7年15791022卯刻(5-7時)、遠江国で地震が発生する。『家忠日記』同年月日条
天正7年15791024徳川家康掛川城(遠江国)より牧野城(遠江国)に入る。『家忠日記』同年月日条
天正7年1579111三河国衆が浜松城(遠江国)に参集する。『家忠日記』同年月日条
天正7年15791111徳川家康が掛川(遠江国)まで赴く。徳川勢は掛川諸郷に陣取る。『家忠日記』同年月日条
天正7年15791112徳川家康が馬伏塚(遠江国)に赴く。松平家忠は河合市場に陣取る。『家忠日記』同年月日条
天正7年15791113徳川家康勢が横須賀(遠江国)に陣替えする。『家忠日記』同年月日条
天正7年15791114酒井忠次がもろいに陣替えする。徳川家康は、鷹が病を患ったので浜松城(遠江国)に帰城する。『家忠日記』同年月日条
天正7年15791115徳川家康浜松城(遠江国)より馬伏塚(遠江国)の陣所に戻る。『家忠日記』同年月日条
天正7年15791120徳川家康が横須賀(遠江国)に出陣中の国衆に帰陣するよう本多信俊をもって触れ廻る。『家忠日記』同年月日条
天正7年15791126浜松城(遠江国)に武田勝頼勢が高天神城(遠江国)に移ったとの報が入る。『家忠日記』同年月日条
天正7年15791127松平家忠が見付(遠江国)に出陣する。武田勝頼勢が国安より撤退する。『家忠日記』同年月日条
天正7年15791128武田勝頼勢が大井川を越え撤退する。『家忠日記』同年月日条
天正7年15791129武田勝頼勢の撤退につき、徳川家康勢は浜松城(遠江国)に帰城することになり、その旨を本多重次が触れ廻る。松平家忠は見付(遠江国)に陣取る。『家忠日記』同年月日条
天正7年15791229松平家忠浜松城(遠江国)に向かうべく出立し、浜名(遠江国)にて宿泊する。『家忠日記』同年月日条
天正7年15791230松平家忠浜松城(遠江国)に到着する。『家忠日記』同年月日条
天正8年158013松平家忠浜松城(遠江国)を出立し、吉田城(三河国)に居る酒井忠次に礼をする。その後、深溝城(三河国)に帰城する。『家忠日記』同年月日条
天正8年1580221徳川家康岡崎城(三河国)より浜松城(遠江国)に帰城する。『家忠日記』同年月日条
天正8年1580316松平家忠深溝城(三河国)を発ち、浜松城(遠江国)に到着する。『家忠日記』同年月日条
天正8年1580416松平家忠牧野城(遠江国)在番のため、深溝城(三河国)を発ち、浜松城(遠江国)に到着する。『家忠日記』同年月日条
天正8年1580417松平家忠牧野城(遠江国)在番のため、浜松城(遠江国)を発ち、益田(遠江国)・掛川(遠江国)に到着する。『家忠日記』同年月日条
天正8年158051徳川家康が掛川(遠江国)まで出陣する。『家忠日記』同年月日条
天正8年158053徳川家康勢が田中に攻め入る。『家忠日記』同年月日条
天正8年158054徳川家康勢が田中に陣取る。『家忠日記』同年月日条
天正8年158055徳川家康が朝比奈信置の籠る持船城(駿河国)を攻める。徳川勢は石川数正勢が32人討ち取られるなど損害を出し、家康は掛川(遠江国)に撤退する。『家忠日記』同年月日条
天正8年1580517戸田康長が牧野城(遠江国)の在番を松平家忠と交替する。家忠は深溝城(三河国)に帰城すべく、浜松城(遠江国)まで戻る。『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項
天正8年158069松平家忠深溝城(三河国)より出陣し浜松城(遠江国)に到着する。『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項
天正8年1580610徳川家康が、高天神城(遠江国)を攻めるべく、浜松城(遠江国)を出陣し、横須賀(遠江国)に陣取る。『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項
天正8年1580617高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が普請にあたっていた鹿鼻砦の終了する。家忠が同城の根小屋を放火する。板倉定重が戦死する。『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項
天正8年1580618高天神城(遠江国)を攻めていた徳川家康勢が青田刈をする。徳川勢の三河衆は浜松城(遠江国)まで帰陣する。『家忠日記』同年月日条
天正8年1580718高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠浜松城(遠江国)に到着する。『家忠日記』同年月日条
天正8年1580720高天神城(遠江国)攻めにつき、徳川家康浜松城(遠江国)より出陣し、掛川(遠江国)に入る。徳川勢は掛川・山口(遠江国)に布陣する。『家忠日記』同年月日条
天正8年1580727徳川家康勢が浜松城(遠江国)に帰城する。国衆に対し、陣番を怠ることがない旨を誓う起請文を提出させる。『家忠日記』同年月日条
天正10年1582416織田信長が掛川(遠江国)を発ち、徳川家康の居城・浜松城(遠江国)に宿泊する。家康は信長を饗応する。『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」
天正10年1582417織田信長浜松城(遠江国)を発ち、今切渡を通って吉田城(三河国)に入り、当地に宿泊する。『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」
天正10年1582514徳川家康穴山梅雪が番場(近江国)に到着する。家康、梅雪のため丹羽長秀が番場に宿を設ける。『信長公記』巻15(25)「家康公・穴山梅雪御上洛の事」
天正10年1582515徳川家康穴山梅雪が礼として安土城(近江国)を訪れる。惣見寺に座敷を用意し、唐物・和物で飾りつけをしてもてなす。宿所は大宝坊。『鷺森日記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・18条、『信長公記』巻15(25)「家康公・穴山梅雪御上洛の事」、『川角太閤記』
天正10年1582529徳川家康穴山梅雪を見物する。『鷺森日記』同年月日条
天正10年158273徳川家康が甲斐国に向けて浜松城(遠江国)より出陣する。
徳川勢:松平康元
『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項、同巻第52「松平康元」の項
天正12年158449池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項
天正12年15841016徳川家康浜松城(遠江国)に帰城する。『当代記』巻2同年月日条
天正14年1586129徳川家康浜松城(遠江国)に帰城する。『宇野主水記』同年月日条
天正14年1586514徳川家康に嫁ぐことになった羽柴秀吉の妹・旭が浜松城(遠江国)に到着する。旭の乗った輿を酒井重忠が請け取る。家康は旭を榊原康政邸に迎える。『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第100「榊原康政」の項
慶長5年1600623徳川家康浜松城(遠江国)にて堀尾忠氏の饗応を受ける。夜、中泉(遠江国)に宿泊する。『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』
慶長5年160087細川忠興が、浜松(遠江国)に到着する。堀尾忠氏が忠興をもてなす。『細川忠興軍功記』
慶長5年1600--徳川家康の命により保科正光が堀尾忠氏に代り浜松城(遠江国)を守備する。『寛政重修諸家譜』巻第250「保科正光」の項
慶長6年16012-徳川家康松平忠頼浜松(遠江国)50000石を給付する。『当代記』巻3同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠頼」の項
慶長17年161223徳川家康が境川にて鹿狩りをする。浜松(遠江国)にて宿泊する。『駿府記』同年月日条
慶長19年1614918片桐且元が駿府(駿河国)より大坂城(摂津国)に戻る。且元は豊臣秀頼淀殿に、今後、徳川秀忠との不和を生じないよう、秀頼か淀殿のいずれかが江戸(武蔵)在府をするか、秀頼が大坂城を出て他国に国替えをしてはどうかと徳川家康より提案があったことを伝える。秀頼・淀殿はこの提案を不快とする。『駿府記』同年月25日条
慶長19年1614925大坂(摂津国)にて豊臣秀頼の命により大野治長青木一重、石川貞政、薄田兼相渡辺糺木村重成、織田頼長等が、片桐且元を殺害せんとする。且元はこの計画を知り、自邸に籠居する。
且元の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。その飛脚は、18日に且元が秀頼・淀/茶々に、徳川秀忠との関係悪化を回避するため、秀頼・淀殿のいずれかが江戸(武蔵国)に在府するか、秀頼が大坂城(摂津国)を出て国替えに応じるか徳川家康より提案があったことを伝えたが、秀頼・淀殿は不快の意を示したこと、その後、且元を殺害するとの密告があったため且元は出仕を控えていることを伝える。本多正純が家康に飛脚の報告内容を伝える。
『駿府記』同年月日条・同年10月1日条
慶長19年1614101板倉勝重よりの飛脚が駿府(駿河国)に到着する。勝重の書状には大坂(摂津国)にて豊臣秀頼の命により大野治長青木一重、石川貞政、薄田兼相渡辺糺木村重成、織田頼長等が、片桐且元を殺害せんとし、計画を知った且元が自邸に籠居したことを、本多正純板倉重昌徳川家康に報告する。
家康はこの事件に立腹し、大坂に向けて出陣することを近江国、伊勢国、美濃国、尾張国、三河国、遠江国に触れ、徳川秀忠にも伝える。
勝重よりの書状が、再度、駿府(駿河国)に到着し、織田頼長が、且元が駿府に赴いたならば、秀頼を大坂城(摂津国)より追い出し、織田常真を大将として籠城するつもりであると家康に報告する。
且元・貞隆兄弟が大坂城を退去し、居城・茨木城(摂津国)に入る。
片桐家秘記
慶長19年1614104徳川秀忠大坂城(摂津国)の豊臣秀頼を攻めるべく、関東、陸奥に陣触を出す。『当代記』同年月日条
慶長19年1614105板倉勝重の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、豊臣秀頼大坂城(摂津国)を整備し、牢人を召し抱え、籠城の準備をしていると、駿府城(駿河国)にいる徳川家康に報告する。『駿府記』同年月日条
慶長19年1614106板倉勝重の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、勝重宛の織田有楽の書状を駿府城(駿河国)にいる徳川家康に届ける。有楽の書状には、片桐且元による家康との交渉が不調に終わったことを豊臣秀頼が折檻したため、且元・貞隆兄弟は茨木城(摂津国)に退くことになり、大坂城(摂津国)は大騒動となったが、長益・頼長父子は家康・秀忠父子に対する野心はない伝える。
江戸城(武蔵国)普請役を終えた細川忠利が箱根(相模国)にて大坂の騒動を聞きつけ、この日、駿府(駿河国)に到着する。忠利は、父・忠興が肥後国に在国しているので、家康・秀忠に随従し、大坂城攻めに先手を命じるようにと本多正純を介して家康に伝える。家康は忠利の申し出を神妙として、江戸に赴くよう指示する。
江戸城(武蔵国)普請役を終えた中川久盛が駿府(駿河国)に到着し、家康に対面する。家康は久盛に岡城(豊後国)に帰国し、軍勢を整え、指示を待つようにと伝える。
奥平信昌の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。奥平忠政が10月2日に死去したことを、正純を通じて家康に伝える。家康は加納(美濃国)は、忠政の弟・松平忠明が率い、大坂に出陣し、父・信昌は愁嘆であろうから加納城(美濃国)を守備するようにと指示を出す。
『駿府記』同年月日条
慶長19年1614107江戸城(武蔵国)普請役を終えた京極高知京極忠高森忠政田中忠政が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康は4名に急ぎ領国に帰国し、軍勢を整え出陣の指示を待つようにと伝える。
片桐且元貞隆兄弟の使者として小島勝兵衛・梅津忠介が駿府(駿河国)に到着する。両使は本多正純を介し、且元・貞隆が大坂城(摂津国)より茨木城(摂津国)に退いたことを家康に報告する。家康は両使を召し出し、服・羽織を下賜したうえで、且元・貞隆へ茨木城への退出を神妙と書状をもって伝える。
大坂城攻めにあたり、家康が駿府城(駿河国)の留守居を松平紀伊守、三宅宗右衛門に命じる。
家康が彦坂光正に西国の早船を調べ櫓を取り上げるように命じる。
家康が沼津城(駿河国)の留守居を長野九左衛門に命じる。
『駿府記』同年月日条
慶長19年1614108朝、徳川家康藤堂高虎大坂城(摂津国)攻めの先陣として、天王寺(摂津国)から攻め入るべく、紀伊国・美濃国・尾張国・伊勢国・遠江国・三河国の諸勢と大和国まで進むようにと命じる。
徳川秀忠の使者として土井利勝が駿府(駿河国)に到着する。利勝は、大坂城攻めにつき、家康が出陣するとのことだが、秀忠の意向としては家康は関東・江戸の仕置きをして欲しいとの思いがあり、再三、家康に翻意を促すが、家康は先ず上洛し、大坂城の状況をみてさしたることがなければ処置をした後、駿府に戻るが、豊臣秀頼が籠城するならば秀忠に同城を攻撃を指示するという。なお、その際は、秀忠に軍勢100000をもって陸奥の仕置きをした後、上洛するようにと伝える。加えて、江戸城(武蔵国)の留守居を松平忠輝蒲生忠郷奥平家昌最上家親鳥居忠政酒井重忠酒井忠利、内藤清次とするよう利勝に指示する。利勝は江戸(武蔵国)にむけすぐに駿府を発つ。
江戸城普請を終えた竹中重利が駿府に到着し、家康と対面する。家康は、重利が福島正則と知音なので、使者として赴くようにと伝える。家康が重門を通じて、このたび秀頼が織田長益大野治長木村重成、渡辺守の所為か、家康・秀忠父子に悪逆を構えていることについて、豊臣秀吉は正則を好み、故に正則は秀頼と疎むことはないが、家康・秀忠への秀頼の敵対は、秀頼本人の意思ではないにせよ、もはや互いに疑心暗鬼の状況であるから戦は避けられないので、福島勢は子・忠勝が率いて大坂に出陣し、正則は江戸に留まるようにと正則に伝える。
『駿府記』同年月日条
慶長19年16141010江戸城(武蔵国)の普請を終えた浅野長晟鍋島勝茂山内忠義蜂須賀至鎮小出吉英稲葉典通遠藤慶隆毛利高政が駿府(駿河国)に到着し、駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康は大坂城(摂津国)攻めにつき、領国に戻り軍勢を整え指示を待つように伝える。『駿府記』同年月日条
慶長19年16141011辰刻(7-9時)、大坂城(摂津国)攻めのため徳川頼宣駿府城(駿河国)より出陣する。安藤直次・水野重央等の数百騎が随従する。
巳刻(9-11時)、徳川家康が駿府城より出陣する。家康は道中に鷹狩をする。家康勢は、午刻(11-13時)、本多正純指揮のもと出陣する。申刻(15-17時)、家康は田中(駿河国)に到着する。
徳川家康勢:徳川家康[大将]、本多正純、石川忠総柳沢元吉小倉吉次[水野分長勢]
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『石川忠総家臣大坂陣覚書』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』
慶長19年16141012申刻(15-17時)、徳川家康が掛川(遠江国)に到着する。夜、家康のもとに茨木城(摂津国)より大野治純と片桐且元の使者が到着する。家康は治純を召し出し、大坂城(摂津国)の様子を尋ねる。治純は、豊臣秀頼による籠城の準備は、織田有楽、織田頼長、木村重成渡辺糺大野治長等の秀頼側近が急に企てたことであると述べる。
京都(山城国)にいる板倉勝重より家康のもとに飛脚が到着する。飛脚は、10月6・7日に京都にいた牢人の内、長宗我部盛親後藤基次、仙石秀範、明石全登、松浦重政等の1000人余を秀頼が金銀にて召し抱え籠城しているとし、豊臣勢が大和国に攻め入り、宇治(山城国)・槙島(山城国)まで出て放火し、茨木城を攻めて且元・貞隆兄弟を討ち取るとの噂があると報告する。
秀頼が(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を大坂城(摂津国)に運び入れる。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退く。
『駿府記』同年月日条・同年月15日条、『当代記』同年月日条
慶長19年16141013徳川家康が中泉(遠江国)に到着する。道中、鷹狩をする。徳川秀忠より家康のもとへ板倉重宗が到着する。
福島正則の使者と竹中重利の書状が江戸(武蔵国)より家康のもとに到着する。正則より、豊臣秀頼大坂城(摂津国)で籠城準備をしていることについて、秀頼と淀殿の野心を批判し、秀頼近習が若輩故かとして、秀頼に書状をしたためたことを家康に伝える。正則の書状は本多正純が内容を確かめる。その書状には、方廣寺(山城国)のことについて、家康・秀忠に対し交戦姿勢を示すのは天魔の所業であるので、すぐに改心し、淀殿にいたっては家康・秀忠に詫び、江戸か駿府(駿河国)に在国し、秀頼の無事を確保するのが大切であると述べる。正則は江戸に妻子を置き、家康・秀忠に対し無二の忠節を誓っている。もし秀頼が改心しないのであれば、正則を始め天下の諸勢が大坂城に向かい、同城を攻め落とすのは間違いないから、よくよく考え、生きながらえるか自滅するかを思案するようにと記されていたとされる。
長崎(肥前国)より長谷川藤広の飛脚が家康のもとに到着する。9月24日にキリスト教徒100余人と高山重友内藤如庵、長崎のキリスト教徒を、船にて天川(マカオ)に遣わしたと報告する。
夜、黒田蔵人と安藤直次所従が喧嘩をする。
秀頼が槙島昭光を大将に軍勢300を(和泉国)に出す。片桐且元が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は尼崎(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。
『駿府記』同年月日条・同年月16日条、『当代記』同年月日条
慶長19年16141014卯刻(5-7時)、徳川家康が中泉(遠江国)を発ち、道中を鷹狩をしながら、天龍川二瀬の舟橋を渡り、午刻(11-13時)に浜松(遠江国)に到着する。二瀬舟橋は大石十右衛門、豊島作右衛門が架ける。
京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。勝重よりは、大坂城(摂津国)の様子に変わりはないものの、豊臣秀頼が多くの牢人を召し抱えていることを注文に書き載せ報告する。秀頼は高野山(紀伊国)にいた真田信繁が黄金200枚・銀30貫にて召し抱えたこと、若原良長が播磨国の牢人衆を召し連れ大坂城に入城したこと、淀殿縁者の浅井井頼、根来衆300騎等、数多くの牢人衆が秀頼に召し抱えられたことを伝える。
徳川秀忠の使者として松平正勝が家康のもとに到着する。
江戸城(武蔵国)の普請を終えた加藤忠広が浜松にて家康に対面する。家康は忠広に急ぎ領国に戻り、軍勢を整え、肥後国を守り、指示を待つようにと伝える。また家康は忠広に雁2、肥後守を賜う。松平正久が忠広に伝える。
江戸城の普請を終えた脇坂安元が浜松にて家康に対面する。家康は安元にすぐに伊予国に戻り、大坂城に向けて出陣し、藤堂高虎に組するようにと伝える。
伯耆国の代官である伊丹・山田が家康に伯耆国の午年の物成銀150貫を進上する。
家康が本多正純を召し出し、本多忠政を始めとする伊勢国の軍勢を、淀・鳥羽(山城国)に進めるように指示する。
松平忠直の軍勢15000に早々、淀・橋本(山城国)に出陣するように家康が命じる。
徳川義俊名古屋城(尾張国)より出陣し、一宮(尾張国)に到着する。
前田利光金沢城(加賀国)を出陣する。
『駿府記』同年月日条・同年月16日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条
慶長19年16141015徳川家康吉田(三河国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。勝重は、10月12日に豊臣秀頼(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を大坂城(摂津国)に運び入れたという。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退いたという。
10月9日に、堺を出た町人の柏尾宗具が家康のいる吉田に到着する。家康は宗具を召し出す。宗具は大坂城の籠城の様子と、秀頼が堺を放火するとの噂があったので妻子を郷に隠し、家康の旗本に加わることを述べる。家康は宗具を称える。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年16141016徳川家康岡崎(三河国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。10月13日に豊臣秀頼が槙島昭光を大将に軍勢300を(和泉国)に出す。片桐且元が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は尼崎(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。この報を受け、家康は上洛を急ぐ。
福島正則が家康に書状を送る。正則は江戸(武蔵国)にあり、妻子を江戸城(武蔵国)に置くという。
徳川秀忠の使者として成瀬正武が家康のもとに到着する。正武は、伊達政宗上杉景勝佐竹義宣が江戸に到着したので、秀忠が出陣したいと述べていることを伝える。家康は秀忠が準備ができ次第、出陣してもよいと返答する。
松平忠直坂本(近江国)に着陣する。
『駿府記』同年月日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条
慶長19年16141017未刻(13-15時)、徳川家康名古屋(尾張国)に到着する。古田重然、半井驢庵が家康を出迎え、家康は名古屋城(尾張国)追手門外で対面する。
徳川義俊が赤坂(美濃国)に着陣する。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年16141018雨により徳川家康名古屋(尾張国)に逗留する。京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。飛脚は豊臣秀頼大坂城(摂津国)にて籠城の準備を進めていること、戦死したと噂されていた今井宗薫・宗呑父子は秀頼勢に捕縛されていたことを家康に報告する。
前田利光の飛脚が家康のもとに到着する。利光は10月14日に金沢城(加賀国)を出陣し、近々、京都に到着することを伝え、陣所の位置について家康の指示を乞う。家康は、淀・鳥羽(山城国)近辺を陣所とするように指示する。
松平忠直の飛脚が家康のもとに到着する。忠直勢が16日に坂本(近江国)に到着したことを報告するとともに陣所の位置について指示を乞う。家康は、西岡・東寺(教王護国寺)・九条・山崎(山城国)辺りを陣所とするように指示する。
徳川義俊が柏原(近江国)に着陣する。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日・19日条
慶長19年16141019午刻(11-13時)、徳川家康が岐阜(美濃国)に到着する。徳永昌重の飛脚が家康のもとに到着する。昌重より豊臣秀頼の披露状が家康のもとにもたらされる。秀頼は昌重に、片桐且元に不届きであったので、且元を折檻をしたところ、家康が立腹し出陣するまでに至ったのは思いがけないことであり、秀頼は家康・秀忠父子に野心はないことを伝えてほしいと伝える。この披露状の内容を本多正純が家康に伝えたところ、家康は、秀頼は若輩ゆえ織田有楽大野治長が謀をめぐらし、秀頼の意向と偽って、治長から前田利長に書状を送り、上洛して秀頼を補佐を依頼するとともに、兵粮として抱えている福島正則からの米30000石と秀頼蔵納の70000石を進退を委ねると伝えていることを、利長の死後、利光より報告を受けているので、秀頼方に家康・秀忠への敵対心があることは間違いないと述べる。
家康は正純をして、島津家久毛利宗瑞鍋島直茂黒田長政福島忠勝池田利隆池田忠継池田忠雄浅野長晟蜂須賀至鎮加藤嘉明森忠政田中忠政生駒正俊に軍勢を率い、大坂城(摂津国)に押し寄せるように命じる。
徳川義俊が永原(近江国)に着陣する。
本多忠政が枚方(河内国)に陣取る。
松平忠明等の美濃勢が淀(山城国)に陣取る。
三河国の諸勢が鳥羽(山城国)に陣取る。
藤堂高虎が大和路に赴く。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年16141020徳川家康柏原(近江国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着し、豊臣秀頼二条城(山城国)まで押し寄せ放火するとの噂があることを伝える。『駿府記』同年月日条
慶長19年16141021徳川家康佐和山(近江国)に到着する。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)に到着する。
『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書
慶長19年16141022徳川家康が永原(近江国)に到着する。京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)攻めのため京都に到着した先陣諸勢の兵粮米について、(和泉国)の南北町中より支出の旨、申し出がったことを報告する。
家康が竹中重利を召し出し、福島忠勝とともに安芸国・備後国に赴き軍勢を整え、大坂(摂津国)まで出陣するように指示する。また、備後国には鍛冶が多くいるので、鉄楯を生産するように指示する。
家康が大坂に居住し、この日、永原に到着した前庭を召し出し、豊臣秀頼の軍備の様子を尋ねる。前庭は万事が淀殿の意向で決まるので、配下は困惑していると伝える。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)に到着した軍勢を閲兵する。
『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書
慶長19年16141023卯刻(5-7時)、徳川家康が永原(近江国)を発ち、矢橋(近江国)より早船にて膳所(近江国)に到着する。船中、戸田氏鉄が家康に御膳を献じる。午刻(11-13時)、家康は二条城(山城国)に到着する。家康は、片桐孝利を召し出す。孝利はは、このたび大坂城(摂津国)で家康に別心を構えた者について報告する。
福島正則豊臣秀頼に送った使者が、二条城に戻ってくる。秀頼の正則への返書は無かったとされる。
家康が片桐且元藤堂高虎を召し出し、大坂城の堀の深さを尋ねるとともに、大坂城攻めの諸口の様子を、絵図を用いながら聞く。
徳川秀忠よりの使者として青山重長が家康のもとに到着する。家康は秀忠に出陣を指示する。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項
慶長19年16141023徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。
江戸城の留守居として酒井重忠を置く。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項、同巻第161「青木信安」の項、同巻第169「米倉信継」の項、同巻第964「木内蕃正」の項
慶長19年16141023豊臣秀頼二条城(山城国)近辺を焼き討ちすべく遣わした山伏60人の内、20人が捕縛される。『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項
慶長19年16141023前田利光率いる軍勢20000、松平忠直率いる軍勢10000が下京(山城国)に着陣する。『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項
慶長19年16141024二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに、勅使として広橋兼勝、三条実條が赴く。
家康が大坂城(摂津国)攻めの先手の諸大名衆と対面する。
徳川秀忠の使者として水野忠元が家康のもとに到着する。秀忠の出馬を早く認めてもらうよう家康に伝えたところ、家康より伊達政宗上杉景勝佐竹義宣を先手として急ぎ出陣するように言い渡す。
秀忠が神奈川(武蔵国)に到着する。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年16141025未刻(13-15時)、山城国で大地震あり。
二条城(山城国)にて徳川家康藤堂高虎片桐且元を召し出し、大坂城(摂津国)包囲の先手を命じる。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)を発ち、宇治(山城国)に陣取る。
徳川秀忠が小田原(相模国)に到着する。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書
慶長19年16141026二条城(山城国)にて徳川家康豊臣秀頼のもとにいた織田常真と対面する。常真は家康に内通しており、家康は知行を給付すると常真に伝える。
家康が池田利隆浅野長晟鍋島勝茂等の諸大名と対面する。理由は、利隆等が江戸城(武蔵国)の普請後、そのまま家康に軍列に加わったため金子を持ち合わせておらず軍備に不自由しているので、銀子の借用を後藤光次を介して家康に依頼する。家康は銀200貫目を貸し与える。
京極采女正が家康に対面し、奈良柿1000を献上する。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年16141027一乗院、喜多院が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
宝性院、片桐貞隆が家康に対面する。
石川貞政、池田利隆が二条城奥ノ間にて家康と対面し、大坂・尼崎(摂津国)の絵図でもって軍陣を様子を説明する。
夜、徳川秀忠の飛脚が家康のもとに到着する。秀忠は23日に江戸城(武蔵国)を出陣し、24日には藤沢(相模国)に到着したことを報告する。家康は、数万の軍勢の移動であるので、ゆるゆると進軍するようにと伝える。
、五山衆が南禅寺金地院(山城国)にて諸家記録1本を3部ずつ写本を作成し、禁裏、江戸城、駿府城(駿河国)にそれぞれ保管するように命じ置く。担当は金地院崇伝林羅山
(和泉国)の南北町が家康に銀200枚を献上する。成瀬正成が家康に披露する。
秀忠勢が三島(伊豆国)に到着する。
『駿府記』同年月日条・同年月29日条
慶長19年16141029徳川秀忠の使者として永井尚政二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。秀忠の軍勢が27日に三島(伊豆国)に到着したことを報告する。
夏に勘気を蒙った池田光重が、板倉勝重を介し、家康に大坂城(摂津国)攻めに先手に加わりたいと嘆願する。家康はその申し出を殊勝とし、有馬豊氏勢の先手を勤めるようと指示する。
『駿府記』同年月日条
慶長19年1614112吉田(三河国)より徳川秀忠の使者として内藤右衛門佐が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。右衛門佐は家康に秀忠が進軍を急いでおり、清水(駿河国)から掛川(遠江国)、吉田(三河国)と進軍したことを報告する。家康は大軍の移動を急がせていることに立腹し、そうしないようにと指示する。『駿府記』同年月日条
慶長19年1614113大坂城(摂津国)の先陣の片桐且元が、同城を包囲したことを、二条城(山城国)にいる徳川家康に報告する。家康は、指示なく攻め込むことがないように且元に言い含める。
家康が大坂城攻め先陣が布陣する天王寺口に物見として島弥左衛門、本多藤四郎の遣わした物見が、夜、家康のもとに戻ってくる。物見からは道明寺(河内国)近所の小山に藤堂高虎が布陣しており、以下、諸勢の夫人を報告する。家康は城より遠いので、今少し城に陣を寄せるようにとし、松平清正石川忠総古田重治、徳永昌重を平野(河内国)まで進めさせる。
戌刻(19-21時)、伊達政宗の使者として山岡重長徳川秀忠のもとに到着する。重長は本多正信を介し、豊臣秀頼の使者として和久是安が秀頼黒印状を持参し、大坂城攻めにつき秀頼に味方するように依頼があったが、政宗は家康・秀忠の恩を忘れることはできないとし秀頼に同心できないととして、是安を捕縛したことを秀忠に伝える。秀忠は政宗の対応を称賛する。
『駿府記』同年月日条
慶長19年1614115大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退する。松平清正が追撃するも、兼相の撤退が早かったため、追撃を諦め、平野の焼け跡に陣所を構える。『駿府記』同年月日条・同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項
慶長19年1614116未刻(13-15時)、松平清正の飛脚が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。清正より、11月5日に大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退したので、追撃したが叶わなかったため、平野の焼け跡に陣所を構えたと家康に報告がある。
藤堂高虎浅野長晟が住吉(摂津国)に陣取ったと家康に報告する。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第90「花房正成」の項
慶長19年1614117辰刻(7-9時)、池田忠継が吹田川を渡り、中島(摂津国)に陣取る。それを徳川家康に報告する。忠継は大和田川に陣取る。
未刻(13-15時)、有馬豊氏が中島に到着する。
近日中に家康が二条城(山城国)を出陣することが決まる。経路は龍田・法隆寺・郡山(大和国)を通り、住吉(摂津国)に陣取るとする。
蜂須賀至鎮が二条城にいる家康に対面する。家康は至鎮の早々の着陣を喜ぶ。
『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠継」の項
慶長19年16141110徳川秀忠が永原(近江国)を出立する。膳所(近江国)にて戸田氏鉄が膳を献じる。大津・追分(近江国)にて公家衆・僧衆が秀忠を出迎える。追分にて徳川義俊徳川頼宣が秀忠を出迎え、対面する。その後、伏見城(山城国)に到着する。『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』
慶長19年16141115卯刻(5-7時)、徳川家康大坂城(摂津国)攻めに赴くべく、二条城(山城国)より出陣する。未刻(13-15時)、家康は木津(山城国)に到着するが、旅館狭小につき、急遽、奈良(大和国)まで進む。奈良奉行・中坊左近が膳を献上する。一乗院、大乗院、喜多院、春日社禰宜が出迎える。
秀忠が大坂城を攻めるべく伏見城(山城国)を出陣し枚方(河内国)に陣取る。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』
慶長19年16141116徳川家康法隆寺阿弥陀院に陣取る。
卯刻(5-7時)、徳川秀忠が枚方(河内国)を発し、岡山(河内国)に陣取る。
秀忠の使者として永井尚政が枚方より家康のもとに到着する。秀忠が岡山に着陣したことを伝える。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』
慶長19年16141117徳川家康が住吉(摂津国)に陣取る。家康供奉衆がこの日より甲冑を着す。
住吉にて藤堂高虎浅野長晟蜂須賀至鎮前田利光松平忠直生駒正俊一柳直盛・直重父子、松平清正本多忠政・忠刻、古田重治、桑山元晴、脇坂安元池田忠雄等が家康に対面する。家康は高虎、利光を召し寄せ、大坂(摂津国)の絵図を見せ、攻め口を伝える。
徳川秀忠が平野(河内国)に陣取る。
夜、秀忠の使者として土井利勝が家康のもとを訪れる。明朝、先陣の様子を確認すべく天王寺・茶臼山辺りに赴くよう伝える。
佐竹義宣率いる軍勢1500が大坂(摂津国)に着陣し、玉造口に陣取る。
『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義宣」の項
慶長19年16141118徳川家康が住吉(摂津国)より、徳川秀忠が平野(河内国)より茶臼山(摂津国)に赴く。父子は天王寺にて父子が面会する。家康は藤堂高虎本多正信を召し寄せ、大坂城(摂津国)攻めの談判をする。家康は城攻めに際し、付城の築城を命じる。茶臼山について、大坂城の惣構より27.28町のところにあるので、高虎に鉄砲30挺の配備を命じる。その後、家康は住吉に、秀忠は平野の陣所に戻る。
大坂城より明石全登が天王寺に向かって出撃し、藤堂高虎脇坂安元が鉄砲にて応戦する。
向井忠勝が新家(摂津国)に攻め入り、豊臣方の船50挺を奪う。忠勝は福島(摂津国)に陣取る。
『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第103「向井忠勝」の項
慶長19年16141125徳川家康秀忠父子が天王寺に向けて出陣する。
蜂須賀至鎮浅野長晟が穢多ヶ崎砦を攻め、同砦を落とす。石川忠総が博労ヶ淵砦を攻め、同砦を落とす。
至鎮、長晟、忠総は船場(摂津国)に陣取る。
『佐久間軍記』
慶長19年16141119巳刻(9-11時)、徳川秀忠が住吉(摂津国)にいる徳川家康の陣所に赴き対面する。家康は、大坂の絵図を前に、本多正信本多正純藤堂高虎安藤直次成瀬正成を召し寄せ評定をする。その評定では、淀川の鳥養(摂津国)辺りで川の水を止め、天満口・船場口・天王寺口の四方より一気攻めることを決める。そこで、土俵20万を摂津国・河内国に出すよう命じる。
大野治房薄田兼相の兵が詰めている船場口の穢多ヶ島に、浅野長晟池田忠雄蜂須賀至鎮が攻め入り、大野・薄田勢を追い払う。3名は同地に付城を築く。
伊達政宗の使者・山岡重長が家康のもとを訪れる。家康は伊達勢に木津・今宮に陣取るように伝える。
『駿府記』同年月日条
慶長19年16141126上杉景勝佐竹義宣が今福に攻め入り、同地を占拠する。今福を守っていた矢野正倫、飯田家貞が戦死する。検使は屋代秀正、安藤正次、伊東政世。
玉造(摂津国)にて義宣が陣場普請をする。その普請の最中、豊臣勢が大坂城(摂津国)より出勢し、義宣家臣の渋江政光率いる佐竹勢と戦い、政光が豊臣勢を破る。
未刻(13-15時)、大坂城より木村重成後藤基次率いる豊臣勢3000が義宣の守る今福を攻めるべく、政光率いる佐竹勢が応戦する。佐竹勢は政光、小野崎通勝、高垣重久が戦死する。その後、重成・基次と義宣が戦う。途中、義宣劣勢につき、鴫野に布陣していた景勝(須田長義、水原親憲等)、榊原康勝が加勢する。重成・基次は大坂城に撤退する。
『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同巻第129「佐竹義宣」の項
慶長19年16141129朝、蜂須賀至鎮(蜂須賀勢:森氏純、森藤兵衛)、池田忠雄戸川達安花房正成石川忠総九鬼守隆が野田・福島(摂津国)に進軍し同地を守る豊臣勢を破る。豊臣勢は広瀬加左衛門、森長左衛門が戦死する。
守隆、向井忠勝が豊臣方の番船を押収する。豊臣勢は天満(摂津国)に逃れたとする。
天満・船場(摂津国)が焼ける。
徳川方の軍勢が大坂城(摂津国)の船場の惣構の堀際まで押し寄せる。また、大坂城の北に布陣する徳川方の軍勢が備前島近辺に、東に布陣する軍勢が森・河内近辺に押し寄せる。
家康が浅野長晟に博労ヶ淵(摂津国)に陣取るように命じる。使者として成瀬正成を遣わす。
家康が安藤直次を野田・福島に布陣する至鎮、忠雄、達安、正成のもとに遣わし、軍法の遵守を命じる。夜、直次は家康のもとに帰着し、野田、福島、博労ヶ淵の様子について報告する。また、忠雄、至鎮家中で功名のあったものを家康に報告する。家康は功名をあげた者に黄金・服を下賜する。
『駿府記』同年月日条、同年12月4日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠雄」の項
慶長19年16141130豊臣勢が船場町、天満町(摂津国)を焼き討ちする。本多正純成瀬正成安藤直次永井直勝が船場、天満に物見に赴き、申刻(15-17時)、徳川家康の陣所に戻る。『駿府記』同年月日条
慶長19年1614123成瀬正成安藤直次が、徳川義俊徳川頼宣の陣所となる天王寺(摂津国)近辺を検分する。
徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣を移すこととする。
織田有楽大野治長よりの和睦に関する書状を有楽家臣の村田吉蔵と治長家臣の米村権右衛門が、本多正純後藤光次のもとに到着する。
池田忠継森忠政を天満(摂津国)より船場(摂津国)に戻す。
徳川勢の先手が城より10町もしくは5、6町の近くまで接近する。井伊直孝勢は大坂城(摂津国)三ノ丸の堀近くに竹束を寄せる。
『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書
慶長19年1614124徳川家康が住吉(摂津国)より天王寺茶臼山に陣替えする。徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣替えする。徳川義俊徳川頼宣天王寺(摂津国)に陣取る。義俊に成瀬正虎が随従する。
朝、松平忠直本多富正・本多成重が豊臣勢と鉄砲を撃ち合い、続けて大坂城(摂津国)に攻め上り城壁を突破しかけたところで、豊臣勢が出撃し忠直勢は多くの負傷者を出す。軍監が家康に報告し、家康は安藤直次を忠直のもとに遣わし、すぐに退くように命じる。
井伊直孝勢が大坂城の真田信繁の守る真田丸に攻め込む。真田勢の銃撃により井伊勢の多くが討ち取られる。徳川秀忠の命により井伊勢は撤退する。
未刻(13-15時)、家康が茶臼山に到着する。本多正純の先導のもと家康は陣所の普請の様子を検分する。
家康が富正、成重を召し、忠直の突出のことを問う。富正、成重は制止をしたが忠直が若いため突出したと述べるも、家康は富正、成重に責があると不満をあらわにする。
家康は藤堂高虎の陣所を検分する。大坂城より鉄砲による砲撃があるなか、家康は城近くまで見回りする。
夜、家康は住吉(摂津国)に戻る。
『駿府記』同年月日条、同年月日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『福富半右衛門親政法名浄安覚書
慶長19年1614129藤堂高虎徳川家康大坂城(摂津国)惣攻めの評定をする。
山城忠元、滝川忠征が家康に長柄堤が完成し、河川の水が尼崎(摂津国)に流れ、天満川が浅くなったので、そのうち川が乾くとの報告をする。
青木一重の書状が家康に届く。本多正純が披露する。
家康が永井直勝、青木二郎右衛門を召し寄せ、今夜より諸勢に鬨の声をあげさせ、籠城している者の睡眠を妨げるように命じる。
家康が松平忠直の家老・山本内蔵助を召し出し、攻め口の陣場を言い渡す。
板倉勝重島津家久に大坂(摂津国)への参陣を催促する。
夜、徳川勢より鬨の声と鉄砲が放たれるが、鉄砲のつるべ撃ちを家康が禁止する。
『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第108「島津島津家久(忠恒)」の項
慶長19年16141211徳川家康が間宮新左衛門、島田直時、日向半兵衛を召し、銀山堀衆をもって大坂城(摂津国)の櫓を崩すように命じる。
藤堂高虎井伊直孝前田利光の陣場で堀をつくる。黒田長政が鉛3000斤を家康に献上する。
浅野長晟が家康に城に軍勢を近づけるにあたり堀を埋めるべきか否かを正純を通じて尋ねる。家康はしばし待つようにと指示する。
『駿府記』同年月日条
慶長19年16141213徳川家康中井正清に、大坂城(摂津国)総攻めの際に使用予定の熊手をつけた梯子の準備を命じる。あわせて大名一人につき梯子50本を配布するようにと家康は本多正純に指示する。『駿府記』同年月日条
慶長19年16141216徳川家康松平正久、牧野清兵衛、稲富重次に対し、鉄砲練達者数十人を選び、藤堂高虎松平忠直等の攻め口に赴き、小筒・大筒をもって大坂城(摂津国)の矢狭間・櫓に試し撃ちするよう命じる。『駿府記』同年月日条
慶長19年16141217徳川秀忠水野忠元、稲富重次をもって佐竹義宣の陣所の高所より石火矢(大砲)を大坂城(摂津国)に向けて放つ。
浅野長晟が攻め口としている船場の堀川を埋めようとしたところ、大坂城より石火矢が放たれる。砲弾は重さ5-6斤だとされる。家康はその砲弾を自身の陣所にもってこさせて検分する。玉が土俵に埋まらなかったことから、木鉄砲による射撃ではないかと推察する。
『駿府記』同年月日条
慶長19年16141219徳川家康徳川秀忠父子と豊臣秀頼の間で和睦がなる。
家康が藤堂高虎仙石忠政と対面する。
家康が松平甲斐守、前田利光松平忠直加藤明成福島忠勝、松平河内守と対面する。
家康が南光坊天海と対面する。
家康が落馬して負傷した子・頼宣の祖父・正木観斎に摩沙円を送る。興安が担当する。
黒田忠長が家康・秀忠父子に対面する。忠長は病が癒えていなかった、それで死すことがあっても城攻めに加わることを述べる。忠長は家康に煙硝5000斤を献じる。井上之房、小河玄蕃允が忠長に供奉する。
『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『黒田家譜』巻14「長政記」、『菅氏世譜
慶長19年16141224日の出前、茶臼山(摂津国)の徳川家康の本陣の小姓衆小屋5、6軒が焼失する。松平正久板倉重昌、加賀爪忠澄が本陣の門を堅守し、人の出入りを止める。
徳川秀忠は家康と対面し相談する。秀忠が退去後、本多正信土井利勝が家康のもとに残る。
織田有楽大野治長が人質の大野治徳、織田尚長を連れ家康に対面する。京極忠高も家康のもとに参上する。有楽・治長は服3領を、治徳・尚長は服2領を家康に献上する。有楽は十徳、治長は羽織袴を着する。その場に藤堂高虎本多正信が列席する。家康は有楽、治長に大坂城(摂津国)城中の堀・櫓の破却を早々に着手するように伝える。
巳刻(9-11時)、家康が諸大名を引見する。前田利光福島忠勝浅野長晟鍋島勝茂細川忠利寺沢広高池田利隆池田忠継池田忠雄森忠政有馬豊氏稲葉典通京極高知山内忠義堀尾忠晴加藤明成南部利直毛利秀就毛利秀元吉川広家福原広俊松平忠直、松平忠昌、松平信吉、榊原康勝本多忠朝本多忠政松平清正本多康紀松平忠利、水野勝成と対面する。
家康が南光坊天海金地院崇伝と対面し雑談する。
家康が天海の執り成しにより鷹匠・小栗忠蔵を赦免する。
秀忠が佐和山(近江国)を井伊直孝に給付する。その旨を秀忠が利勝を介し家康に報告する。
『駿府記』同年月日条
慶長19年16141225辰刻(7-9時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を発ち、申刻(15-17時)、二条城(山城国)に到着する。板倉勝重が迎える。茶臼山の陣所には本多正純成瀬正成安藤直次が残る。
徳川秀忠大坂城(摂津国)の堀・櫓破却を見届けるべく、岡山の陣所に残る。徳川義俊徳川頼宣も岡山に在陣する。
織田有楽大野治長、伊東長次が岡山に陣す秀忠のもとを訪れる。
『駿府記』同年月日条
慶長19年16141227岡山に在陣している徳川秀忠の使者として土井利勝二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)の総堀・櫓の破却のことを報告する。また在陣の諸大名の苦労を慮って、公役普請は3ヶ年免除するよう家康が秀忠に伝える。『駿府記』同年月日条
慶長20年161513午刻(11-13時)、徳川家康駿府城(駿河国)に帰城すべく二条城(山城国)を出立する。申刻(15-17時)、膳所(近江国)に到着する。膳所城(近江国)城主の戸田氏鉄が家康を饗応する。『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』
慶長20年1615112徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。
徳川秀忠の使者として佐久間政実、安藤正次が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)二ノ丸の堀が意外に深く、土手の土で埋めても1/3にも満たなかったため、二ノ丸千貫櫓、織田有楽邸の家屋、西ノ丸、大野治長邸を破却し、かつ高所の土も入れて堀を埋めたことを報告する。
家康が正次到来につき、正次が軍監をつとめた鴫野の戦いについて見聞したことの報告を求める。正次は豊臣勢の鉄砲100が佐竹義宣陣所に発砲したこと、義宣・渋江政光、屋代、水原親憲の働きにより豊臣勢が退いたことを報告する。
『駿府記』同年月日条
慶長20年1615119申刻(15-17時)、徳川秀忠が岡山の陣所より伏見城(山城国)に移る。大坂城(摂津国)の堀埋め普請が、まだ完了していないため、松平忠明本多忠政等の諸大名の軍勢は大坂に残す。目付として、本多正純安藤重信が大坂に残る。『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長20年1615128徳川秀忠二条城(山城国)を発ち、膳所(近江国)に到着する。『駿府記』同年月30日条
慶長20年1615129徳川家康浜松(遠江国)に到着する。道中、鷹狩をする。『駿府記』同年月日条
慶長20年161526徳川秀忠浜松(遠江国)に到着する。『駿府記』同年月日条
慶長20年161547徳川家康浜松(遠江国)に到着する。『駿府記』同年月日条
慶長20年1615410徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。
江戸城の留守居に酒井重忠を置く。
『駿府記』同年月日・17日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項
慶長20年1615421徳川秀忠伏見城(山城国)に到着する。『駿府記』同年月日条
慶長20年1615426徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、対面する。4日28日に大坂城(摂津国)に向けて出陣することが決まる。『駿府記』同年月日条
慶長20年1615427徳川家康の使者として本多正純伏見城(山城国)にいる徳川秀忠のもとに赴き、4月28日とされていた大坂城(摂津国)への出陣を延期すると伝える。『駿府記』同年月日条
慶長20年1615428豊臣秀頼勢10000が郡山・龍田・法隆寺(大和国)の近辺に出撃し、子刻(23-1時)放火する。法隆寺は火災を免れる。大和郡山城(大和国)に籠城していた筒井定慶は逃亡する。
申刻(15-17時)、大野治房・槙島昭光が豊臣勢を率い、(和泉国)、住吉(摂津国)等を放火する。住吉社(摂津国)は火災を免れる。
『駿府記』同年月日・29日条
慶長20年1615429浅野長晟が信達(和泉国)にて大野治長の家老・北村善大夫、大野弥五左衛門等30名ほどを捕縛する。
巳刻(9-11時)、柏野(和泉国)にて、大野治房・大野道犬・郡宗保・槙島昭光・塙直之・岡野大学が率いる豊臣勢3000が浅野長晟の陣取る信達(和泉国)に攻め寄せる。浅野勢は浅野忠知を先陣に応戦する。戦いは卯刻(5-7時)より午刻(11-13時)まで戦い、長晟が勝利する。浅野勢の上田宗箇亀田高俊、田胡助左衛門、浅野良重が豊臣勢を追撃し、直之、芦田作内、米田監物、横井治右衛門、山内権三郎等が戦死する。徳川家康は長晟の戦功を賞し感状を発給する。松平正久、秋元泰勝、後藤光次が家康の意を奉じる。
元和3年10月14日付松浦俊重泉州樫井表戦争覚書(『浅野家文書』126号)、元和3年10月13日付金丸信盛泉州樫井戦争覚書(『浅野家文書』127号)、慶長20年4月30日付秋元泰朝他2名連署状(『浅野家文書』128号)、『駿府記』同年月日・30日条
慶長20年161558豊臣秀頼大坂城サキ島の堀西方にある唐物倉にて淀殿大野治長速水守久等とともに残り、徳川家に和を乞うが、井伊直孝安藤重信が唐物倉に発砲したため、徳川家に和睦の意なしと受け止めた秀頼らは自刃する。淀殿、大蔵卿局、右京大夫局、二位局(助命される)、饗庭局、宮内卿局、清韓、速水守久、速水出来、津川左近、大野治長、大野治徳、毛利勝永、毛利勘解由、毛利長右衛門、堀対馬守、武田左吉、氏家道喜、伊藤武蔵、土肥勝五郎、高橋半三郎、高橋三十郎、埴原三十郎、寺尾少右衛門、小室茂兵衛、土肥庄五郎、片岡十右衛門、加藤弥平太、森島長意、竹田永翁、小室義兵衛、中方将監、中方半兵衛、真田幸昌が秀頼と共に自害する。秀頼勢の将の首実検が行われ、松平忠直が、真田信繁、御宿政友、大野道犬の首を持参する。
申刻(15-17時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を出て、戌刻(19-21時)、二条城に到着する。
『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』・『言緒卿記』同年月日条(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)
寛永5年1628810江戸城(武蔵国)西ノ丸の廊下にて豊島信満が井上正就を殺害する。正就を討った後、信満は自刃する。『寛政重修諸家譜』巻第241「井上正就」の項
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