城 郭 史

諏訪原城 牧野城(遠江国) すわはらじょう まきのじょう
築 城 年天正1年 1573年
築 城 者-
改 築 年-
改 築 者-
廃 城 年-
別 称牧野城、牧野原城
現 所 在 地〒428-0022
静岡県島田市金谷
史 料 地 名-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ諏訪原城 牧野城(遠江国)の関連文化財
リ ン ク牧野康成(右馬允)松平家忠
諏訪原城 牧野城(遠江国) 年表
天正3年 1575年 7月20日 
徳川家康が諏訪原城(遠江国)を攻める。榊原康政が先陣をつとめる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正3年 1575年 8月24日 
諏訪原城(遠江国)城主・今福丹波守が城を捨てて逃亡する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井正親」の項、同巻第100「榊原康政」の項

天正6年 1578年 3月10日 
松平家忠牧野城(遠江国)に帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月11日 
松平家忠牧野城(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月12日 
松平家忠牧野城(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月14日 
松平家忠牧野城(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月15日 
松平家忠牧野城(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月16日 
松平家忠牧野城(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月17日 
松平家忠牧野城(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月18日 
松平家忠牧野城(遠江国)の普請終了につき、浜松城(遠江国)まで帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月19日 
松平家忠浜松城(遠江国)を出立し岡崎城(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 9月4日 
徳川家康が西駿河より牧野(遠江国)に帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 9月7日 
松平家忠牧野城(遠江国)の普請終了につき、掛川(遠江国)まで帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 10月29日 
武田勝頼勢が大井川を越えたとの報が牧野城(遠江国)より浜松城にもたらされる。徳川家康勢は見附(遠江国)まで出陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月12日 
武田勝頼勢が高天神城(遠江国)に引き上げる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月14日 
武田勝頼勢が大井川を越えたとの注進が牧野城(遠江国)より掛川にいた松平家忠のもとに届く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月15日 
武田勝頼勢が青島に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月17日 
武田勝頼勢が島田に攻め入る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月19日 
武田勝頼勢が島田より田中に引き上げる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月25日 
武田勝頼が遠江国より引き上げる。
出典:『家忠日記』同年月30日条

天正6年 1578年 11月30日 
松平家忠牧野城(遠江国)に鉄砲衆20名を置く。11月25日に武田勝頼が引き上げたので、徳川家康勢も浜松城(遠江国)に引き上げる。松平信康は三河国まで帰国する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 3月6日 
松平家忠牧野城(遠江国)在番につき掛川(遠江国)・益田(遠江国)まで赴く。浜松城(遠江国)普請中につき、軍勢の半分を在番のため引き連れ、半分を浜松城に残す。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 3月7日 
松平家忠が西郷孫九郎と交替し牧野城(遠江国)に在番する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正7年 1579年 3月26日 
戸田新六が松平家忠と交替し牧野城(遠江国)に在番する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 3月27日 
松平家忠牧野城(遠江国)より深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月2日 
松平家忠牧野城(遠江国)在番交替につき、深溝城(三河国)を発ち、浜松城(遠江国)に入る。徳川家康は病のため家忠は登城せず。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月3日 
松平家忠牧野城(遠江国)在番交替につき、浜松城(遠江国)を発ち掛川(遠江国)に入る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月4日 
松平家忠牧野城(遠江国)に到着し、西郷孫九郎と在番を交替する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月8日 
牧野城(遠江国)に在番中の松平家忠が同城の塀を普請する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月18日 
徳川家康勢が二山(駿河国)に陣取る。松平家忠牧野城(遠江国)在番につき、同城に留守居する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月19日 
徳川家康家臣の牧野康成・掛川衆が向井正重の籠る持船城(駿河国)を攻め、同城を落とす。向井正重、向井政勝が戦死する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「清和源氏 義家流 足利支流 向井」「向井正重」の項・「向井政勝」の項

天正7年 1579年 9月28日 
松平信一徳川家康に帰陣を勧め、家康は井籠より牧野城(遠江国)に引き上げることとする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月30日 
徳川家康牧野城(遠江国)に帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 10月1日 
徳川家康浜松城(遠江国)に帰城する。
松平家忠牧野城(遠江国)の塀を普請する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 10月8日 
今川氏真松平家忠の陣所を訪れる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 10月22日 
卯刻(5-7時)、遠江国で地震が発生する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 10月24日 
徳川家康掛川城(遠江国)より牧野城(遠江国)に入る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月26日 
浜松城(遠江国)に武田勝頼勢が高天神城(遠江国)に移ったとの報が入る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月27日 
松平家忠が見付(遠江国)に出陣する。武田勝頼勢が国安より撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月28日 
武田勝頼勢が大井川を越え撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月29日 
武田勝頼勢の撤退につき、徳川家康勢は浜松城(遠江国)に帰城することになり、その旨を本多重次が触れ廻る。松平家忠は見付(遠江国)に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 4月16日 
松平家忠牧野城(遠江国)在番のため、深溝城(三河国)を発ち、浜松城(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 4月17日 
松平家忠牧野城(遠江国)在番のため、浜松城(遠江国)を発ち、益田(遠江国)・掛川(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 4月18日 
松平家忠牧野城(遠江国)の在番を西郷家員と交替する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 5月2日 
徳川勢が牧野城(遠江国)に入る。徳川勢の遠江衆が井籠に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 5月17日 
戸田康長が牧野城(遠江国)の在番を松平家忠と交替する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

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