城 郭 史

高天神城(遠江国) たかてんじんじょう
築 城 年-
築 城 者-
改 築 年-
改 築 者-
廃 城 年-
別 称-
現 所 在 地〒437-1435
静岡県掛川市上土方嶺向3136
史 料 地 名-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ高天神城(遠江国)の関連文化財
リ ン ク小笠原氏興、小笠原信興
高天神城(遠江国) 年表
永禄11年 1568年 -月-日 
小原鎮資が死去する。
出典:-

天正2年 1574年 6月5日 
武田勝頼高天神城(遠江国)を包囲中との報が織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻7(7)「高天神城小笠原与八郎謀叛の事」

天正2年 1574年 6月14日 
高天神城(遠江国)の救援のため織田信長信忠父子が軍勢を率い岐阜城(美濃国)を発す。
出典:『信長公記』巻7(7)「高天神城小笠原与八郎謀叛の事」

天正2年 1574年 6月19日 
織田信長が今切渡より高天神城(遠江国)に向かおうとする。
小笠原氏助が武田勝頼に内通し、武田勢を高天神城に引き入れたことから、同城は勝頼が落とす。
高天神城の落城を知った信長は吉田城(三河国)に引き上げる。
出典:『信長公記』巻7(7)「高天神城小笠原与八郎謀叛の事」

天正6年 1578年 11月3日 
武田勝頼が、横須賀城(遠江国)の向かいまで軍勢を出す。徳川家康は横須賀城近くにて総勢で勝頼に備える。武田勢は高天神城(遠江国)に撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月12日 
武田勝頼勢が高天神城(遠江国)に引き上げる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月23日 
武田勝頼が江尻(駿河国)に出張ってきたとの報を受け、徳川家康石川数正を介し松平家忠に26日までに浜松城(遠江国)に参集するよう命じる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月25日 
武田勝頼が高天神(遠江国)・国安に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月26日 
夜、徳川家康浜松城(遠江国)より出陣し、馬伏塚(遠江国)に陣取る。松平信康吉田城(三河国)を発ち馬伏塚に陣取る。徳川勢の三河国衆は見付(遠江国)に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月27日 
徳川家の三河国衆が袋井(遠江国)に陣取る。国安に陣取っていた武田勝頼勢は撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月28日 
松平家忠が河井市場(遠江国)に陣替えする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月29日 
松平家忠徳川家康旗本衆のいる馬伏塚(遠江国)に赴く。武田勝頼勢は大井川を越え撤退したため、徳川勢は浜松城(遠江国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 10月22日 
卯刻(5-7時)、遠江国で地震が発生する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月26日 
浜松城(遠江国)に武田勝頼勢が高天神城(遠江国)に移ったとの報が入る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月27日 
松平家忠が見付(遠江国)に出陣する。武田勝頼勢が国安より撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月28日 
武田勝頼勢が大井川を越え撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月29日 
武田勝頼勢の撤退につき、徳川家康勢は浜松城(遠江国)に帰城することになり、その旨を本多重次が触れ廻る。松平家忠は見付(遠江国)に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 3月13日 
酒井忠次松平家忠に高天神砦(遠江国)に16日までに出陣するよう陣触れをする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 6月10日 
徳川家康が、高天神城(遠江国)を攻めるべく、浜松城(遠江国)を出陣し、横須賀(遠江国)に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月11日 
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が鹿鼻に砦を築く。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月12日 
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が鹿鼻砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月13日 
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が鹿鼻砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月14日 
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が鹿鼻砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月15日 
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が鹿鼻砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月16日 
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が鹿鼻砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月17日 
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が普請にあたっていた鹿鼻砦の終了する。家忠が同城の根小屋を放火する。板倉定重が戦死する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月18日 
高天神城(遠江国)を攻めていた徳川家康勢が青田刈をする。徳川勢の三河衆は浜松城(遠江国)まで帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月17日 
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠深溝城(三河国)より出陣し、二川に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月18日 
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠浜松城(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月19日 
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が見付(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月20日 
高天神城(遠江国)攻めにつき、徳川家康浜松城(遠江国)より出陣し、掛川(遠江国)に入る。徳川勢は掛川・山口(遠江国)に布陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月21日 
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が井籠崎に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 7月22日 
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が小山(遠江国)方面にて刈田をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月23日 
高天神城(遠江国)攻めにつき、石川数正が田中(駿河国)方面にて刈田をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月24日 
本多忠勝勢が小山城(遠江国)を攻める。忠勝は敵3人を討ち取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月25日 
徳川家康勢が小山城(遠江国)を攻める。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月26日 
徳川家康勢が掛川(遠江国)まで帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月27日 
徳川家康勢が浜松城(遠江国)に帰城する。国衆に対し、陣番を怠ることがない旨を誓う起請文を提出させる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 11月12日 
高天神城(遠江国)攻めにつき、徳川家康織田信長に援軍を要請すべく松平家忠を遣わす。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正9年 1581年 1月3日 
武田勝頼高天神城(遠江国)の後詰をするとの風説につき、織田信忠岐阜城(美濃国)を発し、軍勢を率い清須城(尾張国)に入る。
出典:『信長公記』巻14「武田四郎高天神城後巻き横須賀城番手の事」

天正9年 1581年 3月22日 
徳川家康岡部元信の籠る高天神城(遠江国)を攻める。徳川勢が元信を討ち取り、家康は高天神城を落とす。
徳川家康勢:徳川家康[大将]、松平康元松平康次松平清宗松平康安小栗忠政、成瀬久次、渥美友勝、板倉定重(戦死)、岩瀬氏則(首級5)。
岡部元信勢:岡部元信[大将](戦死)。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第16「松平康次」の項、同21「松平清宗」の項、同26「松平康安」の項、同52「松平康元」の項、同81「板倉定重」の項、同961「渥美友勝」の項、同963「岩瀬氏則」の項

天正9年 1581年 3月25日 
徳川家康高天神城(遠江国)を兵粮攻めにしているところ、城から逃亡者が出る。逃亡者に対し家康は攻撃を加え、本多忠勝は首級22を、榊原康政は首級40余をあげる。
出典:『信長公記』巻14(3)「高天神干殺し歴々討死の事」、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

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