人 物 史

松平家忠(深溝松平) まつだいら いえただ
生 没 年弘治1年(1555)-慶長5年(1600)8/1
出 身-幼 名-
別 称深溝松平、又八郎
法 名-
戒 名慈雲院賀屋源慶
松平伊忠鵜殿長持の娘
兄 弟 姉 妹松平家忠、松平忠勝、松平伊長、松平玄成、松意、娘(松平家忠の妻、跡部大炊助の妻、千賀孫兵衛の妻)、娘(戸田尊次の妻)、娘(松平元勝の妻)
配 偶 者水野忠分の娘
松平忠利、娘(吉良義定の妻)、娘(松平忠実の妻)、松平忠貞、松平忠一、松平忠重、松平忠隆、娘(松平重成の妻)
官 位主殿助
役 職-
城 郭深溝城(三河国)、小見川城(下総国)、忍城(武蔵国)
参 考 文 献○『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項
関 連 デ ー タ松平家忠(深溝松平)の家臣
松平家忠(深溝松平)の関連文化財
松平家忠(深溝松平) 年表
弘治1年 1555年 -月-日 1歳
松平家忠が三河国深溝にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

弘治1年 1555年 10月23日 1歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 4歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄4年 1561年 4月15日 7歳
善明堤(三河国)にて吉良義昭と祖父・好景が戦い、義昭が勝利する。松平好景、松平定清、松平好之、松平景行、板倉好重が戦死する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平好景」「松平定清」「松平好之」「松平景行」の項、同巻第81「板倉好重」の項

元亀1年 1570年 4月23日 16歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 19歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正3年 1575年 5月20日 21歳
織田信長酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月21日 21歳
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、酒井家次松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠松平清宗小栗忠政[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政大島光義
徳川勢:石川数正大久保忠世大久保忠佐大須賀康高鳥居元忠平岩親吉松平信一松平忠正松平康安松平康元酒井正親榊原康政本多忠勝渥美友勝岩瀬氏定(戦死)、加藤正次
武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊津金胤時(戦死)、跡部久直(戦死)、酒依昌光(戦死)。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項

天正5年 1577年 11月11日 23歳
松平家忠深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正5年 1577年 11月15日 23歳
松平家忠岡崎城(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正5年 1577年 11月28日 23歳
松平家忠松平信康の家を見物するため岡崎城(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正5年 1577年 12月13日 23歳
松平家忠が松平景忠のもとに礼に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正5年 1577年 12月14日 23歳
松平家忠深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 2月10日 24歳
松平信康深溝城(三河国)に居る松平家忠のもとを訪れる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 3月3日 24歳
浜松城(遠江国)に居る徳川家康よりの陣触れにつき、新城の普請に赴いていた松平家忠深溝城(三河国)に戻る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 3月5日 24歳
松平家忠が二川に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 3月6日 24歳
松平家忠浜松城(遠江国)を出立する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 3月7日 24歳
松平家忠掛川城(遠江国)に入る。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月8日 24歳
松平家忠掛川城(遠江国)を出立し大井川に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月9日 24歳
徳川家康田中城(駿河国)を攻める。同城攻めに参加し、敵2人を討ち取る。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月10日 24歳
松平家忠牧野城(遠江国)に帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月11日 24歳
松平家忠牧野城(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月12日 24歳
松平家忠牧野城(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月14日 24歳
松平家忠牧野城(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月15日 24歳
松平家忠牧野城(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月16日 24歳
松平家忠牧野城(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月17日 24歳
松平家忠牧野城(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月18日 24歳
松平家忠牧野城(遠江国)の普請終了につき、浜松城(遠江国)まで帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月19日 24歳
松平家忠浜松城(遠江国)を出立し岡崎城(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 4月1日 24歳
松平家忠岡崎城(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 4月6日 24歳
松平家忠深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 4月13日 24歳
松平家忠岡崎城(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 6月23日 24歳
松平家忠酒井忠次のもとを訪れる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 6月30日 24歳
松平家忠浜松城(遠江国)の普請のため岡崎城(三河国)を発ち、深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 7月1日 24歳
松平家忠が二川に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 7月2日 24歳
松平家忠浜松城(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 7月3日 24歳
松平家忠が横須賀砦(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 7月4日 24歳
松平家忠が横須賀砦(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 7月5日 24歳
松平家忠が横須賀砦(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 7月6日 24歳
松平家忠が横須賀砦(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 7月7日 24歳
松平家忠が横須賀砦(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 7月8日 24歳
松平家忠が横須賀砦(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 7月9日 24歳
松平家忠が横須賀砦(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 7月10日 24歳
松平家忠が横須賀砦(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 7月11日 24歳
松平家忠が横須賀砦(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 7月12日 24歳
松平家忠が横須賀砦(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 7月13日 24歳
松平家忠が横須賀砦(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 7月14日 24歳
松平家忠が横須賀砦(遠江国)の普請にあたる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 7月15日 24歳
松平家忠が横須賀砦(遠江国)の普請完了につき、吉田城(三河国)まで戻る。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 7月16日 24歳
松平家忠が岡崎城(三河国)まで戻る。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 7月-日 24歳
徳川家康の命により松平家忠が横須賀(遠江国)に砦を築く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 8月-日 24歳
松平家忠牧野城(遠江国)の堀普請の課役をつとめる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 9月5日 24歳
徳川家康松平家忠岡崎城(三河国)詰めは無用であると言い渡す。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 9月7日 24歳
松平家忠牧野城(遠江国)の普請終了につき、掛川(遠江国)まで帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 9月8日 24歳
松平家忠が掛川(遠江国)より白須賀(遠江国)まで帰陣する。家忠自身は浜松城(遠江国)に登城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 9月9日 24歳
松平家忠が白須賀(遠江国)より岡崎(三河国)まで帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 9月15日 24歳
松平家忠が白須賀(遠江国)より深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 9月21日 24歳
松平家忠岡崎城(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 9月22日 24歳
徳川家康酒井忠次を通じて、国衆に岡崎城(三河国)詰めは無用であると言い渡す。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 9月24日 24歳
細工人が松平家忠のもとを訪れ、母衣の芯を作る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 9月25日 24歳
徳川家康より国衆に通達されていた国衆の岡崎城(三河国)詰め無用の件について、石川数正平岩親吉が、松平家忠に在所(深溝(三河国)に帰るよう伝える。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 9月26日 24歳
徳川家康より国衆に通達されていた国衆の岡崎城(三河国)詰め無用の件につき、松平家忠が妻女をともない深溝(三河国)に帰る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 10月6日 24歳
松平家忠岡崎城(三河国)詰め無用の件につき、徳川家康に礼をすべく、松平康定を浜松城(遠江国)に遣わす。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 10月24日 24歳
武田勝頼勢の出勢を聞き酒井忠次が25日までに浜松城(遠江国)に出陣するよう陣触れをする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 10月25日 24歳
松平家忠が10月24日の陣触れにつき、寅刻(3-5時)、深溝城(三河国)を出陣し、浜松城(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 10月28日 24歳
遠江国にて大地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 10月28日 24歳
松平家忠浜松城(遠江国)にいる松平信康酒井忠次のもとを訪れる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月1日 24歳
松平家忠が見附(遠江国)に在陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 10月29日 24歳
武田勝頼勢が大井川を越えたとの報が牧野城(遠江国)より浜松城にもたらされる。徳川家康勢は見附(遠江国)まで出陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 10月29日 24歳
遠江国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月1日 24歳
申刻(15-17時)、遠江国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月2日 24歳
申刻(15-17時)、遠江国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月2日 24歳
武田勝頼勢が、小山(遠江国)、相良(遠江国)方面に移る。松平信康は馬伏塚に布陣し、徳川諸勢は柴原に布陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月3日 24歳
酉刻(17-19時)、遠江国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月3日 24歳
武田勝頼が、横須賀城(遠江国)の向かいまで軍勢を出す。徳川家康は横須賀城近くにて総勢で勝頼に備える。武田勢は高天神城(遠江国)に撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月4日 24歳
夜、遠江国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月7日 24歳
松平家忠のもとに山崎(尾張国)にいる水野忠分より飛脚が到来し、荒木村重織田信長に敵対したことを伝える。また藤太は家忠に音信として鱈2本を贈る。家忠は平岩親吉にその鱈を贈る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月9日 24歳
松平家忠酒井忠次のもとに赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月12日 24歳
武田勝頼勢が高天神城(遠江国)に引き上げる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月13日 24歳
阿部正勝が松平家忠に掛川(遠江国)に移るよう伝える。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月14日 24歳
松平家忠が風吹より掛川・益田(遠江国)まで移る。武田勝頼勢が大井川を越えたとの注進が牧野城(遠江国)より掛川にいた松平家忠のもとに届く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月15日 24歳
武田勝頼勢が青島に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月17日 24歳
武田勝頼勢が島田に攻め入る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月19日 24歳
武田勝頼勢が島田より田中に引き上げる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月25日 24歳
武田勝頼が遠江国より引き上げる。
出典:『家忠日記』同年月30日条

天正6年 1578年 11月29日 24歳
申刻(15-17時)、遠江国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月30日 24歳
松平家忠牧野城(遠江国)に鉄砲衆20名を置く。11月25日に武田勝頼が引き上げたので、徳川家康勢も浜松城(遠江国)に引き上げる。松平信康は三河国まで帰国する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 12月2日 24歳
松平家忠徳川家康とともに岡崎城(三河国)に戻った後、家忠は深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 12月6日 24歳
11月30日に牧野城(遠江国)に置いていた鉄砲衆が深溝城(三河国)に戻ってくる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 12月7日 24歳
松平家忠のもとに村山掃部助から伊勢御師が訪れる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 12月8日 24歳
松平家忠が永良にて鷹狩をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 12月20日 24歳
松平家忠岡崎城(三河国)城下の岡崎町にある満生寺に宿泊する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 12月21日 24歳
松平家忠岡崎城(三河国)城下の岡崎町に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 12月22日 24歳
松平家忠岡崎城(三河国)城下の岡崎町より深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 1月2日 25歳
松平家忠浜松城(遠江国)に居る徳川家康のもとに礼に赴く。家康は謡始を催し、家忠が参加する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正7年 1579年 1月3日 25歳
松平家忠浜松城(遠江国)にて家中衆に礼をする。家忠は浜松城を出立し新居まで帰る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 1月4日 25歳
松平家忠吉田城(三河国)に居る酒井忠次のもとへ礼に赴く。その後、深溝城(三河国)に帰る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 1月11日 25歳
卯刻(5-7時)、三河国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 1月14日 25歳
松平家忠松平信康のもとへ礼に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 1月15日 25歳
松平家忠岡崎城(三河国)城中の家中衆に礼をする。その後、深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 1月19日 25歳
徳川家康岡崎城(三河国)に赴く。それにより、松平家忠が岡崎城に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 1月27日 25歳
徳川家康吉良(三河国)にて鷹狩をする。松平家忠が見舞いに赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 1月28日 25歳
鵜殿八郎三郎が松平家忠にもとに礼に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 1月29日 25歳
徳川家康吉良(三河国)にて鷹狩をする。宇屋(三河国)にて松平家忠が酒宴を催す。家康は家忠に鷹狩で獲た雁を下賜する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正7年 1579年 2月9日 25歳
松平家忠のもとに2月18日に浜松城(遠江国)の普請を命じる徳川家康印判状が届く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 2月11日 25歳
子刻(23-1時)、三河国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 2月18日 25歳
松平家忠浜松城(遠江国)向けて、深溝城(三河国)を発つ。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 2月19日 25歳
松平家忠浜松城(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 3月6日 25歳
松平家忠牧野城(遠江国)在番につき掛川(遠江国)・益田(遠江国)まで赴く。浜松城(遠江国)普請中につき、軍勢の半分を在番のため引き連れ、半分を浜松城に残す。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 3月7日 25歳
松平家忠が西郷孫九郎と交替し牧野城(遠江国)に在番する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正7年 1579年 3月26日 25歳
戸田新六が松平家忠と交替し牧野城(遠江国)に在番する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 3月27日 25歳
松平家忠牧野城(遠江国)より深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月23日 25歳
武田勝頼が江尻(駿河国)に出張ってきたとの報を受け、徳川家康石川数正を介し松平家忠に26日までに浜松城(遠江国)に参集するよう命じる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月23日 25歳
松平家忠が市場にて馬を買う。
武田勝頼が江尻(駿河国)に出張ってきたとの報を受け、徳川家康石川数正を介し家忠に26日までに浜松城(遠江国)に参集するよう命じる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月25日 25歳
松平家忠浜松城(遠江国)に向かうべく、深溝城(三河国)より出陣する。未刻(13-15時)、浜松城に登城する。
武田勝頼が高天神(遠江国)・国安に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月25日 25歳
武田勝頼が高天神(遠江国)・国安に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月26日 25歳
夜、徳川家康浜松城(遠江国)より出陣し、馬伏塚(遠江国)に陣取る。松平信康吉田城(三河国)を発ち馬伏塚に陣取る。徳川勢の三河国衆は見付(遠江国)に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月27日 25歳
徳川家の三河国衆が袋井(遠江国)に陣取る。国安に陣取っていた武田勝頼勢は撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月28日 25歳
松平家忠が河井市場(遠江国)に陣替えする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月29日 25歳
松平家忠徳川家康旗本衆のいる馬伏塚(遠江国)に赴く。武田勝頼勢は大井川を越え撤退したため、徳川勢は浜松城(遠江国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月30日 25歳
三河国衆の総勢が浜松城(遠江国)より三河国に帰国する。大将衆のみが浜松城に残る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 7月7日 25歳
松平家忠岡崎城(三河国)に出仕する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 7月8日 25歳
松平家忠深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月5日 25歳
徳川家康松平家忠に弓・鉄砲衆を連れて西尾(三河国)に赴くよう命じる。家康も岡崎城(三河国)より西尾に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月7日 25歳
徳川家康岡崎城(三河国)に戻る。岡崎城の本城城番として松平上野・榊原康政を、北端城の城番として松平家忠・松平玄蕃・鵜殿八郎三郎を置く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月9日 25歳
松平信康が大浜(三河国)より堀江城(遠江国)に移る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月10日 25歳
徳川家康が鵜殿喜六をもって松平家忠岡崎城(三河国)呼び出す。家康より国衆に対して音信を交わさないことを誓う起請文の提出を求める。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月11日 25歳
松平家忠深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月15日 25歳
松平家忠が本多重次のもとに音信を遣わす。
家忠のもとに酒井忠次より19日まで出陣するよう陣触れがある。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月17日 25歳
松平家忠のもとに京都の茶湯者 宗音が訪れる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月18日 25歳
松平家忠深溝城(三河国)より出陣し、竹谷(三河国)に着いたところで、酒井忠次より出陣延期の折紙が到来したため、深溝城に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月19日 25歳
松平家忠が漆を買い求めるため足助(三河国)に人を遣わす。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月23日 25歳
松平家忠が鉄砲薬を調合する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月30日 25歳
申刻(15-17時)、三河国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月2日 25歳
松平家忠牧野城(遠江国)在番交替につき、深溝城(三河国)を発ち、浜松城(遠江国)に入る。徳川家康は病のため家忠は登城せず。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月3日 25歳
松平家忠牧野城(遠江国)在番交替につき、浜松城(遠江国)を発ち掛川(遠江国)に入る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月4日 25歳
松平家忠牧野城(遠江国)に到着し、西郷孫九郎と在番を交替する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月8日 25歳
牧野城(遠江国)に在番中の松平家忠が同城の塀を普請する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月18日 25歳
徳川家康勢が二山(駿河国)に陣取る。松平家忠牧野城(遠江国)在番につき、同城に留守居する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月19日 25歳
徳川家康家臣の牧野康成・掛川衆が向井正重の籠る持船城(駿河国)を攻め、同城を落とす。向井正重、向井政勝が戦死する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「清和源氏 義家流 足利支流 向井」「向井正重」の項・「向井政勝」の項

天正7年 1579年 9月28日 25歳
松平信一徳川家康に帰陣を勧め、家康は井籠より牧野城(遠江国)に引き上げることとする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月30日 25歳
徳川家康牧野城(遠江国)に帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 10月1日 25歳
徳川家康浜松城(遠江国)に帰城する。
松平家忠牧野城(遠江国)の塀を普請する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 10月8日 25歳
今川氏真松平家忠の陣所を訪れる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 10月22日 25歳
卯刻(5-7時)、遠江国で地震が発生する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 10月24日 25歳
徳川家康掛川城(遠江国)より牧野城(遠江国)に入る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月1日 25歳
三河国衆が浜松城(遠江国)に参集する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月7日 25歳
松平家忠が滝坂にて兵を潜ませ敵の小荷駄を奪取する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正7年 1579年 11月12日 25歳
徳川家康が馬伏塚(遠江国)に赴く。松平家忠は河合市場に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月13日 25歳
徳川家康勢が横須賀(遠江国)に陣替えする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月20日 25歳
徳川家康が横須賀(遠江国)に出陣中の国衆に帰陣するよう本多信俊をもって触れ廻る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月21日 25歳
松平家忠深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月24日 25歳
徳川家康松平家忠に蒼鷹を賜う。
酒井忠次が家忠に武田勝頼勢が田中(駿河国)にまで進んできたことを伝える。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正7年 1579年 11月25日 25歳
岡崎城(三河国)に詰めていた天野康景が松平家忠に敵出張につき出陣を促す。家忠は深溝城(三河国)を発ち、新居(遠江国)に至る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月26日 25歳
松平家忠浜松城(遠江国)に到着し登城する。浜松城に武田勝頼勢が高天神城(遠江国)に移ったとの報が入る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月27日 25歳
松平家忠が見付(遠江国)に出陣する。武田勝頼勢が国安より撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月28日 25歳
武田勝頼勢が大井川を越え撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月29日 25歳
武田勝頼勢の撤退につき、徳川家康勢は浜松城(遠江国)に帰城することになり、その旨を本多重次が触れ廻る。松平家忠は見付(遠江国)に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 12月1日 25歳
松平家忠が帰陣につき、見付(遠江国)より浜名(遠江国)に至る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 12月2日 25歳
松平家忠深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 12月3日 25歳
松平家忠が鷹狩をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 12月5日 25歳
松平家忠が鷹狩をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 12月7日 25歳
松平家忠が鷹狩をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 12月8日 25歳
松平家忠が鷹狩をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 12月9日 25歳
松平家忠が鷹狩をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 12月10日 25歳
松平家忠が永良に赴き鷹狩をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 12月12日 25歳
鷹狩のため永良に赴いていた松平家忠深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 12月16日 25歳
松平家忠が鷹狩をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 12月25日 25歳
松平家忠岡崎城(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 12月26日 25歳
松平家忠岡崎(三河国)に居る平岩親吉石川数正のもとに赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 12月29日 25歳
松平家忠浜松城(遠江国)に向かうべく出立し、浜名(遠江国)にて宿泊する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 12月30日 25歳
松平家忠浜松城(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 1月2日 26歳
松平家忠徳川家康に出仕する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 1月3日 26歳
松平家忠浜松城(遠江国)を出立し、吉田城(三河国)に居る酒井忠次に礼をする。その後、深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 1月7日 26歳
松平家忠が鷹狩をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 2月3日 26歳
松平家忠が鷹狩をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 1月8日 26歳
松平家忠が永良にて鷹狩をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 2月13日 26歳
松平家忠が中島にて鷹狩をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 1月17日 26歳
松平家忠岡崎城(三河国)に滞在中の徳川家康のもとへ礼に赴く。家忠は岡崎の一無の所に宿泊する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 2月14日 26歳
酒井忠次松平家忠に22日までに浜松城(遠江国)まで出陣するよう陣触れをする。家忠は岡崎(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 2月15日 26歳
松平家忠岡崎(三河国)に居る平岩親吉石川数正のもとに赴く。家忠は深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 2月17日 26歳
松平信康の妻であった徳(織田信長の娘)が美濃国に帰ることになったため、徳川家康岡崎城(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 2月18日 26歳
松平信康の妻であった徳(織田信長の娘)を美濃国まで送り届けるよう命を受けた松平家忠岡崎城(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 2月20日 26歳
美濃国に帰ることになった松平信康の妻であった徳(織田信長の娘)を岡崎城(三河国)にて徳川家康が見送る。松平家忠が桶狭間(尾張国)まで送り届ける。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 3月6日 26歳
松平家忠が鷹狩をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 3月8日 26歳
松平家忠が鷹狩をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 3月10日 26歳
鵜殿八郎三郎が松平家忠のもとに礼に赴く。
家忠が鷹狩をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 3月11日 26歳
松平家忠が中島にて鷹狩をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 3月13日 26歳
酒井忠次松平家忠に高天神砦(遠江国)に16日までに出陣するよう陣触れをする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 3月14日 26歳
酒井忠次松平家忠に人足を供出するよう命じる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 3月15日 26歳
松平家忠が人足を吉田城(三河国)に出発させる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 3月16日 26歳
松平家忠深溝城(三河国)を発ち、浜松城(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 3月18日 26歳
松平家忠に逢坂に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 3月20日 26歳
松平家忠に逢坂砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 3月21日 26歳
松平家忠に逢坂砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 3月22日 26歳
松平家忠に逢坂砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 3月23日 26歳
松平家忠に逢坂砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 3月24日 26歳
松平家忠に逢坂砦の普請に従事する。家忠のもとに徳川家康より肴が届く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 3月25日 26歳
松平家忠が中村に砦を築く。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 3月26日 26歳
松平家忠に中村砦の普請に従事する。家忠のもとに酒井忠次より兎が届く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 3月27日 26歳
松平家忠に中村砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 3月28日 26歳
松平家忠に中村砦の普請が完了する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 3月29日 26歳
松平家忠が逢坂砦・中村砦の中間に砦を築く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 閏3月1日 26歳
松平家忠が逢坂砦・中村砦の中間に砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 閏3月2日 26歳
松平家忠に逢坂砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 閏3月3日 26歳
松平家忠に逢坂砦の普請に従事する。家忠のもとに徳川家康より樽が届く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 閏3月9日 26歳
松平家忠吉田(三河国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 閏3月10日 26歳
松平家忠深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 閏3月13日 26歳
松平家忠が中島に茶の湯に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 閏3月30日 26歳
酒井忠次松平家忠に4月4・5日頃までに出陣するよう陣触れをする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 4月16日 26歳
松平家忠牧野城(遠江国)在番のため、深溝城(三河国)を発ち、浜松城(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 4月17日 26歳
松平家忠牧野城(遠江国)在番のため、浜松城(遠江国)を発ち、益田(遠江国)・掛川(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 4月18日 26歳
松平家忠牧野城(遠江国)の在番を西郷家員と交替する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 5月17日 26歳
戸田康長が牧野城(遠江国)の在番を松平家忠と交替する。家忠は深溝城(三河国)に帰城すべく、浜松城(遠江国)まで戻る。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 5月18日 26歳
松平家忠深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月8日 26歳
松平家忠深溝城(三河国)より出陣し吉田城(三河国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月9日 26歳
松平家忠深溝城(三河国)より出陣し浜松城(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月10日 26歳
徳川家康が、高天神城(遠江国)を攻めるべく、浜松城(遠江国)を出陣し、横須賀(遠江国)に陣取る。松平家忠は鎌田に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月11日 26歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が鹿鼻に砦を築く。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月12日 26歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が鹿鼻砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月13日 26歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が鹿鼻砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月14日 26歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が鹿鼻砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月15日 26歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が鹿鼻砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月16日 26歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が鹿鼻砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月19日 26歳
松平家忠深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 6月17日 26歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が普請にあたっていた鹿鼻砦の終了する。家忠が同城の根小屋を放火する。板倉定重が戦死する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月18日 26歳
高天神城(遠江国)を攻めていた徳川家康勢が青田刈をする。徳川勢の三河衆は浜松城(遠江国)まで帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月17日 26歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠深溝城(三河国)より出陣し、二川に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月18日 26歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠浜松城(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月19日 26歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が見付(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月20日 26歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、徳川家康浜松城(遠江国)より出陣し、掛川(遠江国)に入る。徳川勢は掛川・山口(遠江国)に布陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月21日 26歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が井籠崎に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 7月22日 26歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が小山(遠江国)方面にて刈田をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月23日 26歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、石川数正が田中(駿河国)方面にて刈田をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月24日 26歳
本多忠勝勢が小山城(遠江国)を攻める。忠勝は敵3人を討ち取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月25日 26歳
徳川家康勢が小山城(遠江国)を攻める。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月26日 26歳
徳川家康勢が掛川(遠江国)まで帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月27日 26歳
徳川家康勢が浜松城(遠江国)に帰城する。国衆に対し、陣番を怠ることがない旨を誓う起請文を提出させる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月28日 26歳
松平家忠吉田城(三河国)方面まで帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月29日 26歳
松平家忠深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 11月12日 26歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、徳川家康織田信長に援軍を要請すべく松平家忠を遣わす。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正9年 1581年 7月3日 27歳
松平家忠が相良(遠江国)に砦を築く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正10年 1582年 7月3日 28歳
徳川家康が甲斐国に向けて浜松城(遠江国)より出陣する。
徳川勢:松平康元
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項、同巻第52「松平康元」の項

天正10年 1582年 7月9日 28歳
徳川家康が府中(甲斐国)に到着する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正10年 1582年 -月-日 28歳
子・忠利が三河国深溝にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平忠利」の項

天正11年 1583年 8月28日 29歳
江尻城(駿河国)の在番を西郷家員より松平家忠に交替する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正17年 1589年 7月9日 35歳
方廣寺大仏殿造営につき、富士山より伐り出した材木の運搬を酒井家次松平家忠に伝える。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正17年 1589年 7月17日 35歳
方廣寺大仏殿造営につき、富士山より伐り出した材木の運搬のため松平家忠に新井まで赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

文禄1年 1592年 12月8日 38歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 42歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長5年 1600年 6月16日 46歳
徳川家康大坂城(摂津国)を発し、伏見城(山城国)に到着する。織田有楽斎・長孝父子、山名禅高金森長近可重父子、山岡景友、池田輝政池田長吉福島正則高晴兄弟、浅野幸長黒田長政細川忠興藤堂高虎、有馬則頼・豊氏父子、筒井定次、徳永寿昌・昌重父子、生駒一正、田中吉政蜂須賀至鎮小出吉政、中村一栄、山内一豊堀尾吉晴・忠氏父子、一柳直盛、津田信成、津田小平次、富田信高、古田重勝、稲葉道通、古田重然、市橋長勝、九鬼守隆、桑山相模守、亀井茲矩、寺沢広高石川康長、天野雄光、奥平貞治、河村助左衛門、山城秀宗、佐藤信元、赤井五郎八、岡田助右衛門、丹羽氏次遠藤慶隆、西尾光教、中川忠勝、三好為三、大島光義、長谷川重成、兼松正吉三好房一船越景直、平野長重、池田光重、佐々顕政、平田若狭守、落合顕公、森可政、清水小八郎、松波秋徳、佐久間安政、佐久間勝之、祖父江法斎、鈴木重慶、溝口政一、堀田重国、戸川達安宇喜多詮家、野間秋弘、伊丹忠親、別所孫四郎、本田周防守、松倉重政、村越兵庫頭、神保相茂、秋山右近、野尻彦次郎、仙石式部少輔、分部光嘉、極楽院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理亮、岡田少五郎、箸尾半左衛門が家康に従う。総勢55800。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 6月17日 46歳
徳川家康伏見城(山城国)の留守居として、鳥居元忠松平家忠内藤家長松平近正を置く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

慶長5年 1600年 6月18日 46歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に向けて伏見城(山城国)を発す。巳刻(9-11時)には醍醐を通過する。大津城(近江国)にて京極高次の饗応を受け、夜、石部(近江国)に到着し宿泊する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長5年 1600年 7月1日 46歳
石田三成が蟄居中の佐和山城(近江国)を出て大坂城(摂津国)に入る。徳川家康に対し所業の悪さを詰問する13ヶ条からなる詰問状を石田三成前田玄以増田長盛長束正家の連署で発給する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月2日 46歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月17日 46歳
毛利輝元大坂城(摂津国)西の丸に入る。徳川家康に対し所業の悪さを詰問する13ヶ条からなる詰問状を石田三成前田玄以増田長盛長束正家が連署で発給する。
増田長盛が伏見城(山城国)の留守居であった鳥居元忠に退城を促すが断られる。
出典:『義演准后日記』同年月18日条

慶長5年 1600年 7月19日 46歳
伏見城(山城国)に留守居として残した鳥居元忠が伏見の増田長盛邸、前田玄以邸を焼き払う。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『左大史孝亮記』同年月日条

慶長5年 1600年 7月20日 46歳
石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 7月22日 46歳
石田三成鍋島勝茂等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第823「鍋島勝茂」の項

慶長5年 1600年 7月24日 46歳
石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

慶長5年 1600年 7月27日 46歳
石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。なかなか落城しないため、「大鉄砲」を用いる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 7月29日 46歳
石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。島津義弘が城を極楽橋より攻めるも、留守居の鳥居元忠に退けられる。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月30日 46歳
石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。寅刻(3-5時)、松丸を落とす。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 8月1日 46歳
石田三成等が伏見城(山城国)が攻め落とす。鳥居元忠松平近正松平家忠内藤家長、岩間兵庫、上林竹庵が討死する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史研究』)、『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

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