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寛政重修諸家譜 索引(製作中)
史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
城 郭 史
深溝城(三河国)
ふこうずじょう
築 城 年
-
築 城 者
-
改 築 年
-
改 築 者
-
廃 城 年
元和1年 1615年
別 称
-
現 所 在 地
〒444-0124
愛知県額田郡幸田町深溝里前
史 料 地 名
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
リ ン ク
松平好景
、
松平伊忠
、
松平家忠
、
松平忠利
、板倉重昌
深溝城(三河国) 年表
永禄3年 1560年 5月19日
桶狭間にて
織田信長
が
今川義元
を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:
森可成
、
前田利家
。
今川義元勢:
松平宗次
(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項
天正5年 1577年 11月11日
松平家忠
が
深溝城
(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正5年 1577年 12月14日
松平家忠
が
深溝城
(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正6年 1578年 2月10日
松平信康
が
深溝城
(三河国)に居る
松平家忠
のもとを訪れる。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正6年 1578年 3月3日
浜松城
(遠江国)に居る
徳川家康
よりの陣触れにつき、新城の普請に赴いていた
松平家忠
が
深溝城
(三河国)に戻る。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正6年 1578年 4月6日
松平家忠
が
深溝城
(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項
天正6年 1578年 6月30日
松平家忠
が
浜松城
(遠江国)の普請のため
岡崎城
(三河国)を発ち、
深溝城
(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項
天正6年 1578年 9月5日
徳川家康
が
松平家忠
に
岡崎城
(三河国)詰めは無用であると言い渡す。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正6年 1578年 9月15日
松平家忠
が白須賀(遠江国)より
深溝城
(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正6年 1578年 9月22日
徳川家康
が
酒井忠次
を通じて、国衆に
岡崎城
(三河国)詰めは無用であると言い渡す。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正6年 1578年 9月25日
徳川家康
より国衆に通達されていた国衆の
岡崎城
(三河国)詰め無用の件について、
石川数正
・
平岩親吉
が、
松平家忠
に在所(深溝(三河国)に帰るよう伝える。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正6年 1578年 9月26日
徳川家康
より国衆に通達されていた国衆の
岡崎城
(三河国)詰め無用の件につき、
松平家忠
が妻女をともない深溝(三河国)に帰る。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正6年 1578年 10月24日
武田勝頼
勢の出勢を聞き
酒井忠次
が25日までに
浜松城
(遠江国)に出陣するよう陣触れをする。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正6年 1578年 10月25日
松平家忠
が10月24日の陣触れにつき、寅刻(3-5時)、
深溝城
(三河国)を出陣し、
浜松城
(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正6年 1578年 12月2日
松平家忠
が
徳川家康
とともに
岡崎城
(三河国)に戻った後、家忠は
深溝城
(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正6年 1578年 12月6日
11月30日に
牧野城
(遠江国)に置いていた鉄砲衆が
深溝城
(三河国)に戻ってくる。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正6年 1578年 12月7日
松平家忠
のもとに村山掃部助から伊勢御師が訪れる。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正6年 1578年 12月22日
松平家忠
が
岡崎城
(三河国)城下の岡崎町より
深溝城
(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 1月4日
松平家忠
が
吉田城
(三河国)に居る
酒井忠次
のもとへ礼に赴く。その後、
深溝城
(三河国)に帰る。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 1月15日
松平家忠
が
岡崎城
(三河国)城中の家中衆に礼をする。その後、
深溝城
(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 1月19日
徳川家康
が
岡崎城
(三河国)に赴く。それにより、
松平家忠
が岡崎城に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 2月18日
松平家忠
が
浜松城
(遠江国)向けて、
深溝城
(三河国)を発つ。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 2月19日
松平家忠
が
浜松城
(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 3月27日
松平家忠
が
牧野城
(遠江国)より
深溝城
(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 4月23日
松平家忠
が市場にて馬を買う。
武田勝頼
が江尻(駿河国)に出張ってきたとの報を受け、
徳川家康
が
石川数正
を介し家忠に26日までに
浜松城
(遠江国)に参集するよう命じる。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 4月25日
松平家忠
が
浜松城
(遠江国)に向かうべく、
深溝城
(三河国)より出陣する。未刻(13-15時)、浜松城に登城する。
武田勝頼
が高天神(遠江国)・国安に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 7月7日
松平家忠
が
岡崎城
(三河国)に出仕する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 7月8日
松平家忠
が
深溝城
(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 8月5日
徳川家康
が
松平家忠
に弓・鉄砲衆を連れて西尾(三河国)に赴くよう命じる。家康も
岡崎城
(三河国)より西尾に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 8月11日
松平家忠
が
深溝城
(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 8月17日
松平家忠
のもとに京都の茶湯者 宗音が訪れる。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 8月18日
松平家忠
が
深溝城
(三河国)より出陣し、竹谷(三河国)に着いたところで、
酒井忠次
より出陣延期の折紙が到来したため、深溝城に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 9月2日
松平家忠
が
牧野城
(遠江国)在番交替につき、
深溝城
(三河国)を発ち、
浜松城
(遠江国)に入る。
徳川家康
は病のため家忠は登城せず。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 11月21日
松平家忠
が
深溝城
(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 11月25日
岡崎城
(三河国)に詰めていた天野康景が
松平家忠
に敵出張につき出陣を促す。家忠は
深溝城
(三河国)を発ち、新居(遠江国)に至る。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 11月26日
松平家忠
が
浜松城
(遠江国)に到着し登城する。浜松城に
武田勝頼
勢が
高天神城
(遠江国)に移ったとの報が入る。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 12月1日
松平家忠
が帰陣につき、見付(遠江国)より浜名(遠江国)に至る。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 12月2日
松平家忠
が
深溝城
(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 12月10日
松平家忠
が永良に赴き鷹狩をする。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 12月12日
鷹狩のため永良に赴いていた
松平家忠
が
深溝城
(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 12月25日
松平家忠
が
岡崎城
(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 12月26日
松平家忠
が
岡崎
(三河国)に居る
平岩親吉
・
石川数正
のもとに赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 12月29日
松平家忠
が
浜松城
(遠江国)に向かうべく出立し、浜名(遠江国)にて宿泊する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正7年 1579年 12月30日
松平家忠
が
浜松城
(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正8年 1580年 1月3日
松平家忠
が
浜松城
(遠江国)を出立し、
吉田城
(三河国)に居る
酒井忠次
に礼をする。その後、
深溝城
(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正8年 1580年 2月14日
酒井忠次
が
松平家忠
に22日までに
浜松城
(遠江国)まで出陣するよう陣触れをする。家忠は
岡崎
(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正8年 1580年 2月15日
松平家忠
が
岡崎
(三河国)に居る
平岩親吉
、
石川数正
のもとに赴く。家忠は
深溝城
(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正8年 1580年 3月13日
酒井忠次
が
松平家忠
に高天神砦(遠江国)に16日までに出陣するよう陣触れをする。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正8年 1580年 3月16日
松平家忠
が
深溝城
(三河国)を発ち、
浜松城
(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正8年 1580年 閏3月10日
松平家忠
が
深溝城
(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正8年 1580年 4月16日
松平家忠
に
牧野城
(遠江国)在番のため、
深溝城
(三河国)を発ち、
浜松城
(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正8年 1580年 4月17日
松平家忠
に
牧野城
(遠江国)在番のため、
浜松城
(遠江国)を発ち、益田(遠江国)・掛川(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正8年 1580年 5月17日
戸田康長が
牧野城
(遠江国)の在番を
松平家忠
と交替する。家忠は
深溝城
(三河国)に帰城すべく、
浜松城
(遠江国)まで戻る。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項
天正8年 1580年 5月18日
松平家忠
が
深溝城
(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項
天正8年 1580年 6月8日
松平家忠
が
深溝城
(三河国)より出陣し
吉田城
(三河国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項
天正8年 1580年 6月19日
松平家忠
が
深溝城
(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正8年 1580年 6月17日
高天神城
(遠江国)攻めにつき、
松平家忠
が普請にあたっていた鹿鼻砦の終了する。家忠が同城の根小屋を放火する。板倉定重が戦死する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項
天正8年 1580年 6月18日
高天神城
(遠江国)を攻めていた
徳川家康
勢が青田刈をする。徳川勢の三河衆は
浜松城
(遠江国)まで帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正8年 1580年 7月17日
高天神城
(遠江国)攻めにつき、
松平家忠
が
深溝城
(三河国)より出陣し、二川に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正8年 1580年 7月29日
松平家忠
が
深溝城
(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条
天正12年 1584年 4月9日
池田勝入斎
・
池田元助
・
森長可
が
丹羽氏重
の籠る
岩崎城
(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、
織田信雄
・
徳川家康
が
羽柴秀次
・勝入斎・元助・長可・
堀秀政
を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:
榊原康政
、
大須賀康高
、本多康重、
丹羽氏次
、
酒井重忠
、
永井直勝
(池田勝入斎討取)、
渥美友重
(首級2)、
駒井昌長
、
折井次昌
[岡本彦次郎討取]、
野呂守景
、秋鹿朝矩(戦死)、
加藤正次
、
酒井忠次
[小牧山本陣留守居衆]、
石川数正
[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、
豊臣秀吉
は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項
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