人 物 史

榊原康政 さかきばら やすまさ
生 没 年天文17年(1548)-慶長11年(1606)5/14
出 身三河国上野幼 名亀丸
別 称小平太
法 名-
戒 名-
榊原長政道家氏の娘
兄 弟 姉 妹榊原清政、榊原康政、女(山内玄規の妻)、女(大竹六郎左衛門の妻)、女(小笠原義信の妻)
配 偶 者大須賀康高の娘
大須賀忠政、娘(酒井忠世の妻)、娘(池田利隆の妻)、榊原忠長、榊原康勝、娘(喜連川義親の妻)
官 位式部大輔
役 職江戸幕府 老中
城 郭館林城(上野国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ榊原康政の関連文化財
史料にみえる榊原康政の呼称
榊原康政 年表
天文17年 1548年 -月-日 1歳
榊原康政が三河国上野にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

弘治1年 1555年 10月23日 8歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 11歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄3年 1560年 -月-日 13歳
榊原康政大樹寺にて徳川家康に謁し、以降、家康に近侍するようになる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

永禄6年 1563年 -月-日 16歳
上野(三河国)にて徳川家康と一向一揆が戦う。榊原康政初陣。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

永禄6年 1563年 -月-日 16歳
榊原康政徳川家康より偏諱を受け康政と名乗る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

永禄7年 1564年 -月-日 17歳
榊原康政に与力として伊藤正照、伊奈広質、中島右衛門佐が付される。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

永禄9年 1566年 -月-日 19歳
榊原康政に与力として中根長重が付される。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

永禄11年 1568年 3月-日 21歳
徳川家康掛川城(遠江国)を攻める。先陣を松平一信、榊原康政がつとめる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

永禄12年 1569年 -月-日 22歳
榊原康政が、久能城(遠江国)に赴き、今川氏真に内通した久能宗益を殺害する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

元亀1年 1570年 4月23日 23歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 6月26日 23歳
浅井久政長政父子が大寄山(近江国)に陣取る。織田信長が龍鼻(近江国)に陣取る。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月27日 23歳
徳川家康織田信長の陣取る龍鼻(近江国)に着陣する。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月28日 23歳
巳刻(9-11時)、姉川(近江国)にて織田信長徳川家康浅井長政朝倉義景が戦い信長・家康勢が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、坂井政尚坂井尚恒(戦死)、丹羽氏勝大島光義
徳川家康勢:徳川家康[大将]、酒井忠次[先鋒]、石川数正榊原康政松平信一松平忠正酒井重忠小栗忠政(銘 信国の槍で奮戦)、本多広孝、天野康景、小笠原広重、野々山元政渥美友勝加藤正次
浅井長政勢:浅井長政[大将]、遠藤直経(戦死)、藤堂高虎
朝倉勢:真柄直隆(戦死)、真柄直澄(戦死)、真柄隆基(戦死)。
戦後、信長が小谷城(近江国)の押さえとして木下秀吉を横山城(近江国)に置く。
出典:『言継卿記』同年月29日条、『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同45「小栗忠政」の項、同59「酒井重忠」の項、同65「酒井忠次」の項、同73「大島光義」の項、同85「丹羽氏勝」の項、同110「野々山元政」の項、同120「石川数正」の項、同191「小笠原広重」の項、同100「榊原康政」の項、同777「加藤正次」の項、同961「渥美友勝」の項、『藤堂家覚書

元亀1年 1570年 -月-日 23歳
榊原康政に与力として新谷久兵衛が付される。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

元亀3年 1572年 12月22日 25歳
三方ヶ原(遠江国)にて武田信玄徳川家康が戦い、信玄が勝利する。
武田信玄勢:真田昌幸土屋昌続横手信俊[山県昌景勢]、山高信親(戦死)。
徳川家康勢:酒井忠次酒井正親榊原康政[先鋒]、小栗忠政鳥居忠広(戦死)・野々山元政(戦死)、石川正俊(戦死)、渥美友勝、加藤正信(戦死)、加藤比禰丞(戦死)。
織田勢:平手汎秀(戦死)。
浜松城(遠江国)留守居衆:石川家成、小笠原広重。
出典:『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井忠次」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同118「石川家成」の項、同122「石川正俊」の項、同110「野々山元政」の項、同160「山高信親」の項、同163「柳沢信俊」の項、同191「小笠原広重」の項、同777「加藤比禰丞」の項、同777「加藤正信」の項、同961「渥美友勝」の項

天正1年 1573年 7月28日 26歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 9月10日 26歳
森郷(遠江国)にて武田逍遙軒と榊原康政大須賀康高等が戦い、康政等が勝利する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正3年 1575年 5月20日 28歳
織田信長酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月21日 28歳
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、酒井家次松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠松平清宗小栗忠政[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政大島光義
徳川勢:石川数正大久保忠世大久保忠佐大須賀康高鳥居元忠平岩親吉松平信一松平忠正松平康安松平康元酒井正親榊原康政本多忠勝渥美友勝岩瀬氏定(戦死)、加藤正次
武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊津金胤時(戦死)、跡部久直(戦死)、酒依昌光(戦死)。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項

天正3年 1575年 6月-日 28歳
徳川家康が光明城(遠江国)を攻める。本多忠勝榊原康政が先陣をつとめる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正3年 1575年 7月20日 28歳
徳川家康が諏訪原城(遠江国)を攻める。榊原康政が先陣をつとめる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正3年 1575年 8月24日 28歳
諏訪原城(遠江国)城主・今福丹波守が城を捨てて逃亡する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井正親」の項、同巻第100「榊原康政」の項

天正6年 1578年 3月9日 31歳
徳川家康が山中城(駿河国)を攻める。城攻めに榊原康政が参加する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正6年 1578年 -月-日 31歳
榊原康政に与力として新谷久兵衛が付される。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正7年 1579年 8月7日 32歳
徳川家康岡崎城(三河国)に戻る。岡崎城の本城城番として松平上野・榊原康政を、北端城の城番として松平家忠・松平玄蕃・鵜殿八郎三郎を置く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月9日 32歳
松平信康が大浜(三河国)より堀江城(遠江国)に移る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月10日 32歳
徳川家康が国衆に対して松平信康と音信を交わさないことを誓う起請文の提出を求める。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正9年 1581年 -月-日 34歳
子・大須賀忠政が生まれる。
出典:-

天正10年 1582年 6月18日 35歳
岩窪(甲斐国)にて、武田家旧臣が川尻秀隆を襲撃し、三井弥一郎が秀隆を討ち取る。
出典:-

天正10年 1582年 8月27日 35歳
北条氏直方の豆生田砦を徳川家康勢の榊原康政大須賀康高が攻める。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正10年 1582年 10月29日 35歳
徳川家康北条氏直が和睦する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正12年 1584年 4月9日 37歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正12年 1584年 10月-日 37歳
徳川家康が小牧山城(尾張国)より岡崎城(三河国)に撤退するにあたり、小牧山城の留守居として榊原康政を置く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正12年 1584年 -月-日 37歳
榊原康政に与力として松下源八郎が付される。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正13年 1585年 -月-日 38歳
子・忠長が浜松(遠江国)にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原忠長」の項

天正14年 1586年 4月23
-
徳川家康に嫁ぐことになった羽柴秀吉の妹・旭姫が大坂城(摂津国)を出立する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 5月14日 39歳
徳川家康に嫁ぐことになった羽柴秀吉の妹・旭が浜松城(遠江国)に到着する。旭の乗った輿を酒井重忠が請け取る。家康は旭を榊原康政邸に迎える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第100「榊原康政」の項

天正14年 1586年 5月26日 39歳
徳川家康の使者として榊原康政が上洛し、富田知信邸に入る。康政は同邸を訪れた羽柴秀吉に謁す。秀吉は康政に、小牧・長久手の合戦時に康政が廻文をもって秀吉を蔑んだことを怒り、康政の首を取れと厳命したことを話すとともに、今はその行いが主のための行為であったので遺恨には思っていないことを伝える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正14年 1586年 5月27日 39歳
徳川家康の使者として榊原康政聚楽第(山城国)に赴き、家康の上洛を羽柴秀吉に伝える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正14年 1586年 10月27日 39歳
徳川家康羽柴秀吉のもとを訪れ臣従の礼をする。金100枚、縮100端を贈る。秀吉は家康に近侍している本多忠勝榊原康政の小牧・長久手の合戦時における勇壮を賞す。
出典:『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正14年 1586年 11月9日 39歳
榊原康政が十五位下・式部大輔に叙任される。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正17年 1589年 7月21日 42歳
真田昌幸が領有する沼田城(上野国)を北条氏直に引き渡すべく、榊原康政富田信広、津田信勝が沼田城に赴く。沼田城が氏直に引き渡された後、氏直は上洛し豊臣秀吉に礼をすることになっているという。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正18年 1590年 7月6日 43歳
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月12日 43歳
北条氏政北条氏照・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は榊原康政
出典:『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 -月-日 43歳
子・康勝が小田原(相模国)にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項

天正18年 1590年 8月-日 43歳
徳川家康榊原康政に上野国邑楽郡・勢田郡、下野国簗田郡の100000石を給付し、館林城(上野国)に置く。あわせて康政の与力として、村上弥右衛門、原田種正、竹内広茂、瀧見九郎兵衛、鈴木重則、安松宗光等を付す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」

天正18年 1590年 8月-日 43歳
徳川家康が近習・外様を五組に分け、その長を榊原康政井伊直政本多忠勝平岩親吉石川康通に補任する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

文禄1年 1592年 12月8日 45歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 49歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 51歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 6月16日 53歳
徳川家康大坂城(摂津国)を発し、伏見城(山城国)に到着する。織田有楽斎・長孝父子、山名禅高金森長近可重父子、山岡景友、池田輝政池田長吉福島正則高晴兄弟、浅野幸長黒田長政細川忠興藤堂高虎、有馬則頼・豊氏父子、筒井定次、徳永寿昌・昌重父子、生駒一正、田中吉政蜂須賀至鎮小出吉政、中村一栄、山内一豊堀尾吉晴・忠氏父子、一柳直盛、津田信成、津田小平次、富田信高、古田重勝、稲葉道通、古田重然、市橋長勝、九鬼守隆、桑山相模守、亀井茲矩、寺沢広高石川康長、天野雄光、奥平貞治、河村助左衛門、山城秀宗、佐藤信元、赤井五郎八、岡田助右衛門、丹羽氏次遠藤慶隆、西尾光教、中川忠勝、三好為三、大島光義、長谷川重成、兼松正吉三好房一船越景直、平野長重、池田光重、佐々顕政、平田若狭守、落合顕公、森可政、清水小八郎、松波秋徳、佐久間安政、佐久間勝之、祖父江法斎、鈴木重慶、溝口政一、堀田重国、戸川達安宇喜多詮家、野間秋弘、伊丹忠親、別所孫四郎、本田周防守、松倉重政、村越兵庫頭、神保相茂、秋山右近、野尻彦次郎、仙石式部少輔、分部光嘉、極楽院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理亮、岡田少五郎、箸尾半左衛門が家康に従う。総勢55800。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 6月18日 53歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に向けて伏見城(山城国)を発す。巳刻(9-11時)には醍醐を通過する。大津城(近江国)にて京極高次の饗応を受け、夜、石部(近江国)に到着し宿泊する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長5年 1600年 -月-日 53歳
徳川家康榊原康政に南蛮渡来の漢南の甲冑を下付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

慶長5年 1600年 7月2日 53歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月13日 53歳
徳川家康榊原康政上杉景勝攻めの先陣を命じ、江戸城(武蔵国)を発たせる。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月13日 53歳
夜、細川忠興が太田(武蔵国)に到着する。領主の榊原康政が忠興をもてなす。
出典:『細川忠興軍功記』

慶長5年 1600年 7月14日 53歳
細川忠興が館林(上野国)に到着する。領主の榊原康政が忠興をもてなす。
出典:『細川忠興軍功記』

慶長5年 1600年 7月19日 53歳
徳川秀忠上杉景勝攻めにつき江戸城(武蔵国)を発つ。先陣は榊原康政結城秀康松平忠吉、蒲生秀行、井伊直政本多忠勝松平忠明森忠政、仙石越前守、真田信幸小尾祐光小尾光重津金胤久、成田左衛門尉、石川玄蕃允、皆川広照、日根野徳次郎、多賀谷、山川民部、水谷左京が秀忠に供奉する。この日、宇都宮(下野国)に着陣する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻10「長政記」、『寛政重修諸家譜』巻第172「小尾祐光」の項、同「小尾光重」の項、同173「津金胤久」の項

慶長5年 1600年 7月21日 53歳
徳川家康上杉景勝攻めにつき江戸城(武蔵国)を発つ。鳩谷に宿泊する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』

慶長5年 1600年 8月1日 53歳
池田輝政による石田三成討伐に賛同した浅野幸長池田輝政加藤嘉明黒田長政福島正則細川忠興清須城(尾張国)に向けて江戸城(武蔵国)を発す。井伊直政本多忠勝が目付として同じく江戸城を発つ。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 8月24日 53歳
徳川秀忠石田三成攻めに加わるべく宇都宮(下野国)を発す。榊原康政、酒井忠重、森忠政大久保忠隣、仙石越前守忠俊、上野筑後守、佐野修理大夫、本多正信真田信之石川康長、日根野吉重、牧野貞成等が従軍する。
出典:『関原始末記』、『黒田家記』巻10「長政記」

慶長5年 1600年 8月26日 53歳
徳川秀忠が高崎(上野国)に着陣する。
出典:(慶長5年)8月26日付徳川秀忠書状(東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号116)

慶長5年 1600年 9月1日 53歳
徳川家康が東海道より上方に向け江戸城(武蔵国)を発つ。徳川秀忠が東山道より上方に向け江戸城を発つ。
秀忠勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利、石川康長、牧野貞成、神尾守世青木信安真田信幸仙石秀久、日根野吉重、森忠政折井次忠[大久保忠隣勢]、柳沢信俊[大久保忠隣勢]、山高親重[大久保忠隣勢]、山寺信光、辻久吉、朝倉宣正、斎藤信吉、中山照守、戸田光正、小野忠明、鎮目惟明、太田吉正、跡部久清
江戸城の留守居として松平康元を置く。
出典:『関原始末記』、『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項、同166「折井次忠」の項、同173「跡部久清」、同398「辻久吉」の項

慶長5年 1600年 9月4日 53歳
徳川秀忠の軍勢が小諸城(信濃国)に到着する。
出典:『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」

慶長5年 1600年 9月5日 53歳
徳川秀忠真田昌幸の持ち城である砥石城(信濃国)を占拠し、真田信幸を入れ置く。
出典:(慶長5年)9月5日付徳川秀忠書状(『浅野家文書』112)

慶長5年 1600年 9月7日 53歳
徳川秀忠真田昌幸信繁父子の籠る上田城(信濃国)を攻めも、昌幸・信繁が秀忠勢を退ける。
徳川勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利神尾守世青木信安岩間正時折井次忠[大久保忠隣勢]、柳沢信俊[大久保忠隣勢]、山高親重(大久保忠隣勢)、木内蕃正[本多正信勢]、辻久吉、朝倉宣正、斎藤信吉、中山照守、戸田光正、小野忠明、鎮目惟明、太田吉正、跡部久清
出典:『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第3「松平忠利」の項、同59「酒井忠世」の項、同61「酒井忠利」の項、同61「酒井忠勝」の項、同65「酒井家次」の項、同126「森忠政」の項、同160「山高親重」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同173「跡部久清」の項、同964「岩間正時」の項、同巻第964「木内蕃正」の項、同1043「神尾守世」の項

慶長5年 1600年 9月15日 53歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長5年 1600年 9月20日 53歳
徳川秀忠が草津(近江国)に到着する。夜、大津城(近江国)に陣取っていた父・家康のもとに赴くが、すぐに草津に戻る。
出典:『関原始末記』

慶長7年 1602年 5月8日 55歳
徳川家康佐竹義宣榊原康政花房職之を上使として遣わし、義宣の常陸国・下野国・陸奥国の全所領を没収し出羽国にて所領を宛行う旨を伝える。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義宣」の項

慶長8年 1603年 11月25日 56歳
徳川家康榊原康政に在京料として近江国野洲郡・栗太郡・蒲生郡内で5000石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

慶長9年 1604年 2月15日 57歳
子・忠長が館林(上野国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

慶長10年 1605年 3月21日 58歳
徳川秀忠が伏見城(山城国)に到着する。秀忠上洛の前陣として榊原康政伊達政宗等の諸大名と秀忠勢の鉄砲600・槍400-500・騎馬徒歩立衆200-300が供奉する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長10年 1605年 4月16日 58歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長10年 1605年 4月26日 58歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下につき参内する。榊原康政康勝父子、酒井忠世板倉重宗が供奉する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康政」の項、同「榊原康勝」の項、同巻第59「酒井忠世」の項、同巻第81「板倉重宗」の項

慶長10年 1605年 -月-日 58歳
榊原康政の娘を徳川秀忠の養女とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

慶長10年 1605年 -月-日 58歳
徳川秀忠が榊原康政の娘を養女として池田利隆に嫁がせる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田利隆」の項

慶長11年 1606年 4月-日 59歳
榊原康政館林城(上野国)にて発病する。徳川秀忠が康政を見舞うべく、酒井忠世土井利勝を館林に遣わす。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康政」の項、同巻第59「酒井忠世」の項

慶長11年 1606年 5月14日 59歳
榊原康政館林城(上野国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

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