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寛政重修諸家譜 索引(製作中)
史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
地 名 の 歴 史
備前国[国]
びぜんのくに
初 見
-
国
備前国
郡
邑久郡、赤坂郡、磐梨郡、和気郡、上道郡、御野郡、津高郡、児島郡
荘 園
-
中 世 高
-
近 世 領 主
-
近 世 石 高
-
鎮 守
-
神 社
-
寺 院
-
城 郭
備前国の城郭
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
備前国[国] 年表
元亀3年 1572年 -月-日
宇喜多秀家
が生まれる。
出典:-
天正8年 1580年 11月17日
織田信長
のもとに、
羽柴秀吉
の使者が到着し、
宇喜多直家
の織田家にへの降伏を報告する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正9年 1581年 2月14日
宇喜多直家
が死去する。
出典:-
慶長7年 1602年 10月18日
岡山城
(備前国)にて
小早川秀秋
が死去する。
出典:『時慶卿記』同年月21日条、『梵舜日記』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条
慶長8年 1603年 8月-日
薩摩国にて匿われていた
宇喜多秀家
が、大島(伊豆国)に配流となる。
出典:『当代記』巻3同年月条
慶長18年 1613年 6月16日
池田輝政
の遺領について
徳川家康
が裁定する。播磨国は
池田玄隆
に、備前国および播磨国宍粟郡・佐用郡・赤穂郡は
池田忠継
に給付することが決まる。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第263「池田利隆」の項、同巻第265「池田忠継」の項
慶長18年 1613年 8月22日
池田輝政
の遺領相続につき、
池田玄隆
・
忠継
兄弟が
駿府城
(駿河国)にいる
徳川家康
に対面する。玄隆は銀300枚・太刀(銘 守家)を、忠継は銀200枚・太刀(銘 長光)を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 3月27日
良正院
が
駿府城
(駿河国)にいる父・
徳川家康
のもとを訪れる。義子の
池田利隆
が播磨国を、実子の
池田忠継
が備前国を領しているが、利隆により備前国が奪われるのではないかと思い、国替えを希望すべく家康のともとに赴く。
出典:『当代記』同年月日条、
慶長20年 1615年 2月23日
池田忠継
が疱瘡を患い岡山(備前国)にて死去する。
*『駿府記』では22日死去となっている。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠継」の項、『駿府記』同年月28日条
慶長20年 1615年 2月28日
池田家の飛脚が
駿府城
(駿河国)にいる
徳川家康
のもとに到着し、22日に
池田忠継
が死去したことを
徳川家康
に伝える。取次は
本多正純
。家康は驚き、愁傷する。家康は忠継の兄・
池田利隆
と忠継の舅・
森忠政
のもとに森可澄を遣わし、備前国の仕置きをするように命じる。
出典:『駿府記』同年月日条
寛永9年 1632年 4月3日
池田忠雄
が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠雄」の項
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