人 物 史

宇喜多直家 うきた なおいえ
生 没 年享禄2年(1529)-天正9年(1581)1/9
出 身-幼 名-
別 称八郎、三郎右衛門尉
法 名-
戒 名涼雲星友
宇喜多興家-
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者中山信正の娘、円融院
宇喜多秀家、娘(江原親次の妻)、娘(浦上宗辰の妻)、娘(松田元賢の妻)、娘(後藤勝基の妻)、娘(斎村政広の妻)、娘(明石全登の妻)
官 位和泉守
役 職-
城 郭乙子城(備前国)、砥石城(備前国)、沼城(備前国)、岡山城(備前国)
参 考 文 献宇喜多直家に関する参考文献
関 連 デ ー タ宇喜多直家の関連文化財
宇喜多直家の家臣
宇喜多直家 年表
享禄2年 1529年 -月-日 1歳
宇喜多直家が生まれる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 4歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 27歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 30歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄9年 1566年 2月5日 38歳
興善寺(美作国)にて遠藤秀清・俊通兄弟が三村家親を鉄砲にて狙撃し、家親は死亡する。
出典:『陰徳太平記』巻40「三村家親事」

永禄12年 1569年 8月10日 41歳
立花山城尾(筑前国)に在陣していた香川春継が、八木城(安芸国)・仁保島城に残していた香川勢を引き連れ高田城(美作国)に赴き、同城を包囲していた三浦・蘆田・玉串・市の美作国国人衆の軍勢と長船紀伊守・岡家利・岡剛助・沼本新右衛門等が率いる宇喜多勢を破って入城する。
出典:『陰徳太平記』巻44「作州高田城合戦之事」

永禄12年 1569年 10月5日 41歳
玉串昭則、牧清冬の美作国衆勢1000が香川光景・広景・春継の籠る高田城(美作国)を攻める。香川勢が美作国衆勢を退ける。
出典:『陰徳太平記』巻44「作州高田城合戦之事」

永禄12年 1569年 10月6日 41歳
玉串昭則、牧清冬、長船紀伊守・岡家利・岡剛助・沼本新右衛門等が率いる宇喜多勢が香川光景・広景・春継の籠る高田城(美作国)を攻める。春継が昭則を討ち取り、美作国衆勢・宇喜多勢は引き上げる。
出典:『陰徳太平記』巻44「作州高田城合戦之事」

永禄13年 1570年 3月16日 42歳
三好義長松永久秀大友宗麟の使僧、太田垣氏の使者、宇喜多直家の使者、和泉国衆、河内国衆の20人程が織田信長のもとに礼に訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月23日 42歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀2年 1571年 6月14日 43歳
毛利元就が死去する。
出典:『陰徳太平記』巻48「毛利元就朝臣逝去並鹿助披擒事」

天正1年 1573年 7月28日 45歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 -月-日 45歳
宇喜多直家が沼城(備前国)より岡山城(備前国)に居城を移す。
出典:『備前軍記』4「宇喜多直家岡山の城へ移る事」

天正1年 1573年 12月12日 45歳
安国寺恵瓊が岡山(備前国)に到着する。恵瓊は岡山城(備前国)にて宇喜多直家と面会し、広瀬城(播磨国)攻めについて談合する。
出典:(天文1年)12月12日付安国寺恵瓊書状(吉川家文書)

天正2年 1574年 3月13日 46歳
浦上宗景と手切れとなった宇喜多直家が盟を結んだ原田佐高に起請文を提出する。
出典:同年月日付宇喜多直家血判起請文(「肥後原田文書」)

天正2年 1574年 4月18日 46歳
鯉山(備前国)にて浦上宗景宇喜多直家が戦う。
出典:同年月22日付宇喜多直家感状写(『吉備温故』)

天正2年 1574年 6月3日 46歳
鳥取高尾山にて浦上宗景宇喜多直家が戦う。
出典:同年月5日付宇喜多直家感状(「河口文書」)

天正2年 1574年 7月8日 46歳
小松城にて浦上宗景宇喜多直家が戦う。
出典:同年月11日付宇喜多直家感状(「沼元文書」)

天正5年 1577年 11月27日 49歳
羽柴秀吉が上月城(播磨国)を攻める。黒田孝高竹中重治が城攻めに加わる。上月城の後詰にやってきた宇喜多直家勢を破る。
出典:『信長公記』巻10(12)但馬播磨羽柴被申付事

天正6年 1578年 4月-日 50歳
吉川元春小早川隆景宇喜多忠家尼子勝久山中幸盛の籠る上月城(播磨国)に攻め寄せる。羽柴秀吉荒木村重が救援に赴くが、城が落城する。
出典:『信長公記』巻11(6)「高倉山西国陣之事」

天正7年 1579年 2月-日 51歳
毛利輝元吉川元春吉川元長吉川広家小早川隆景率いる毛利勢40000が宇喜多直家領の美作国に向けて出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻第61「毛利三家作州発向付処々城没落之事」

天正7年 1579年 9月4日 51歳
羽柴秀吉が播磨国より安土城(近江国)にいる織田信長のもとに赴き、宇喜多直家の赦免を請う。信長は、秀吉が事前に相談することなしに、直家の赦免を約束したことに怒り、秀吉を播磨国に追い返す。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月12日 51歳
毛利輝元吉川元春吉川元長吉川広家小早川隆景率いる毛利勢が宇喜多家の小寺畑城(美作国)を攻め落とす。
出典:『陰徳太平記』巻第61「毛利三家作州発向付処々城没落之事」

天正7年 1579年 9月16日 51歳
毛利輝元吉川元春吉川元長吉川広家小早川隆景率いる毛利勢が宇喜多家の大寺畑城(美作国)を包囲する。
出典:『陰徳太平記』巻第61「毛利三家作州発向付処々城没落之事」

天正7年 1579年 10月30日 51歳
宇喜多直家織田信長に赦免してもらうため、宇喜多基家を昆陽(摂津国)に在陣中の織田信忠のもとに遣わし、この日、基家が昆陽に到着する。基家は羽柴秀吉の執り成しにより、信忠に礼をする。
出典:『信長公記』巻12(14)「氏政甲州表へ働の事」

天正8年 1580年 1月17日 52歳
申刻(15-17時)、三木城(播磨国)にて別所長治別所友之が切腹する。三木城が羽柴秀吉の手に落ちる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」、『天正記』「播磨別所記」、『豊臣記』

天正8年 1580年 11月17日 52歳
織田信長のもとに、羽柴秀吉の使者が到着し、宇喜多直家の織田家にへの降伏を報告する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正9年 1581年 2月14日 54歳
宇喜多直家が死去する。
出典:-

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