人 物 史

小早川秀秋 こばやかわ ひであき
生 没 年天正10年(1582)-慶長7年(1602)10/18
出 身-幼 名-
別 称秀俊
法 名-
戒 名-
木下家定
小早川隆景[養父]
-
兄 弟 姉 妹木下勝俊、木下利房、木下延俊、木下俊定、小早川秀秋、木下俊忠、木下秀規、周南紹叔
配 偶 者毛利輝元の養女(宍戸元秀の娘)
-
官 位左衛門佐、参議、中納言
役 職-
城 郭名島城(筑前国)、北之庄城(越前国)、岡山城(備前国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ小早川秀秋の関連文化財
小早川秀秋の家臣
小早川秀秋 年表
天正10年 1582年 -月-日 1歳
小早川秀秋が生まれる。
出典:-

天正13年 1585年 7月11日 4歳
叔父・秀吉への関白宣下が行われる。施薬院全宗のもとに赴く。その後、秀吉がその礼として参内する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

文禄1年 1592年 12月8日 11歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄4年 1595年 7月8日 14歳
豊臣秀吉が、謀叛の疑惑につき豊臣秀次高野山清巌寺に配流する。申刻(15-17時)、秀次が伏見城(山城国)を出立する。木下吉隆、羽田長門守、応其が秀次の供をする。秀次一行は玉水(山城国)に宿泊する。
夜、秀次の妻子が徳永寿昌邸に移され、前田玄以田中吉政が監視する。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」、『当代記』巻3同年月日条

文禄4年 1595年 7月9日 14歳
豊臣秀次が玉水(山城国)を出立し、奈良(大和国)の中院の井上源五郎邸に宿泊する。秀次のもとに見舞いの使者が多く訪れたが、不要である旨の触れを出すよう駒井重勝、益田照従に命じる。
出典:『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」

文禄4年 1595年 7月13日 14歳
豊臣秀次謀叛事件につき、連座した秀次家臣の処刑が行われる。秀次家臣の切腹に石田三成前田玄以増田長盛が検使として立ち会う。秀次謀叛事件に連座した服部一忠上杉景勝に、一柳直秀は徳川家康に、船越景直は遠流の刑に処される。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月15日 14歳
豊臣秀次高野山青巌寺にて切腹する。秀次家臣・木村重茲が秀次に連座し大門寺(摂津国)にて切腹する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条

慶長1年 1596年 10月27日 15歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 5月21日 16歳
朝鮮攻めにつき、小早川秀秋伏見城(摂津国)より出陣し、大坂城(摂津国)に到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 5月22日 16歳
小早川秀秋が、大坂(摂津国)より出航し、兵庫(摂津国)に到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 5月23日 16歳
小早川秀秋が、兵庫(摂津国)より出航し、室津(摂津国)に到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 5月24日 16歳
小早川秀秋が、鞆津(備後国)に到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 5月25日 16歳
小早川秀秋が、上関(周防国)に到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 5月26日 16歳
小早川秀秋が、下関(長門国)に到着する。
太田一吉、熊谷直盛、早川長政、垣見一直、福原長堯、毛利高政竹中重利が佐賀関に到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 5月27日 16歳
小早川秀秋が、名島城(筑前国)に到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 6月12日 16歳
養父・隆景三原城(備後国)にて死去する。
出典:『陰徳太平記』巻79「太閤秀吉公御遊楽付黄門隆景卿逝去之事」、『黒田家譜』巻8「長政記」

慶長2年 1597年 6月29日 16歳
小早川秀秋が名護屋城(肥前国)にて諸大名に朝鮮国への渡海を命じ、諸勢が風本(壱岐国)を目指す。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 7月1日 16歳
小早川秀秋率いる日本勢が風本(壱岐国)に到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 7月2日 16歳
小早川秀秋率いる日本勢が風本(壱岐国)を出航するも暴風による風本に帰航する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 7月4日 16歳
亥刻(21-23時)、小早川秀秋率いる日本勢が風本(壱岐国)を出航する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 7月5日 16歳
戌刻(19-21時)、小早川秀秋率いる日本勢が鴨瀬(対馬国)に到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 7月6日 16歳
申刻(15-17時)、小早川秀秋率いる日本勢が豊崎浦(対馬国)に到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 7月-日 16歳
朝鮮国攻めにつき、諸将の攻め口を定める。船手は熊谷直盛・早川長政を奉行に、毛利秀元九鬼守隆寺沢広高長宗我部元親、池田秀氏、小川祐滋、中川秀成伊東祐兵立花宗茂脇坂安治、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、宍戸元続安国寺恵瓊を宛て、陸路北方は太田一吉を奉行に加藤清正を宛て、陸路中方は竹中重利を奉行に、加藤嘉明蜂須賀家政生駒親正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長高橋元種、相良頼房を宛て、陸路南方は毛利高政を奉行に、宇喜多秀家小西行長藤堂高虎島津義弘を宛てる。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 8月12日 16歳
宇喜多秀家太田一吉藤堂高虎脇坂安治小西行長竹中重利加藤嘉明島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政毛利高政生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長高橋元種、相良頼房、伊東祐兵が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を包囲する。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、宇喜多詮家[宇喜多秀家勢]、戸川達安[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 8月13日 16歳
宇喜多秀家太田一吉藤堂高虎脇坂安治小西行長竹中重利加藤嘉明島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政毛利高政生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長高橋元種、相良頼房、伊東祐兵が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を攻める。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、宇喜多詮家[宇喜多秀家勢]、戸川達安[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 8月14日 16歳
宇喜多秀家太田一吉藤堂高虎脇坂安治小西行長竹中重利加藤嘉明島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政毛利高政生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長高橋元種、相良頼房、伊東祐兵が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を攻める。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、宇喜多詮家[宇喜多秀家勢]、戸川達安[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 8月15日 16歳
宇喜多秀家太田一吉藤堂高虎脇坂安治小西行長竹中重利加藤嘉明島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政毛利高政生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長高橋元種、相良頼房、伊東祐兵が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を攻め、この城を落とす。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、宇喜多詮家[宇喜多秀家勢]、戸川達安[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『相国考記』同年9月16日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)、『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 8月17日 16歳
南原城を破却する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 10月18日 16歳
小早川秀秋の命で順天(朝鮮国)に城普請を始める。奉行は垣見一直・熊谷直盛で鍋島勝茂寺沢広高、松浦鎮信の軍勢が普請にあたる。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 11月-日 16歳
蔚山城が完成する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長3年 1598年 1月1日 17歳
蔚山城に籠る加藤清正浅野長慶が、蔚山城の普請が未完のまま、兵粮も少ない中で明軍の攻撃を受けているが、例え援軍がなくても戦い抜くので、その旨を豊臣秀吉に報告してほしいと小早川秀秋毛利秀元蜂須賀家政竹中重利、早川長政、熊谷直盛、垣見家純、毛利高政、福原長堯に伝える。
出典:同年月日付加藤清正・浅野幸長連署状(『浅野家文書』87号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長3年 1598年 2月-日 17歳
小早川秀秋が諸城の城主を定める。蔚山城は加藤清正を、西生海城は毛利吉成を、釜山城は寺沢広高を、竹島城は鍋島勝茂を、リヤク山城は黒田長政を、コチャウ城は立花宗茂を、泗川城は島津義弘を、南海城は柳川調信を、順天城は小西行長を城主とする。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長3年 1598年 2月6日 17歳
小早川秀秋加藤嘉明太田一吉、熊谷直盛、早川長政、垣見一直、福原長堯、毛利高政竹中重利と同列の奉行に抜擢する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長3年 1598年 3月17日 17歳
小早川秀秋が日本に帰国すべく釜山を出航する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長3年 1598年 4月4日 17歳
小早川秀秋大坂城(摂津国)に到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長3年 1598年 4月4日 17歳
早朝、小早川秀秋大坂城(摂津国)を出立し、伏見城(山城国)に到着する。太田一吉、熊谷直盛、早川長政、垣見一直、福原長堯、毛利高政竹中重利が秀秋に供奉する。豊臣秀吉をはじめ徳川家康福島正則前田利家前田利長、青木一矩、京極高次伊達政宗上杉景勝最上義光細川忠興結城秀康が秀秋を迎える。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長3年 1598年 8月18日 17歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 8月1日 19歳
石田三成等が伏見城(山城国)が攻め落とす。鳥居元忠松平近正松平家忠内藤家長、岩間兵庫、上林竹庵が討死する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史研究』)、『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

慶長5年 1600年 8月16日 19歳
石田三成が居城・佐和山城(近江国)を出陣し、大垣城(美濃国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻10「長政記」

慶長5年 1600年 8月23日 19歳
福島正則池田輝政細川忠興加藤嘉明浅野幸長山内一豊井伊直政本多忠勝等が織田秀信の籠る岐阜城(美濃国)を攻め、同城を落とす。
攻衆:井伊直政[惣奉行][瑞龍寺出丸]、本多忠勝[総奉行][瑞龍寺出丸]、福島正則[大手町口]、加藤嘉明[大手町口]、細川忠興[浄土口]、山内一豊[浄土口]、浅野幸長[瑞龍寺出丸]、池田輝政[長良川の城搦手](一番乗)、細川忠隆[細川忠興勢]、細川興秋[細川忠興勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]。
織田秀信勢:織田秀信[大将]。
出典:『関原始末記』、(慶長5年)8月24日付福島正則書状(『浅野家文書』114号)、『寛政重修諸家譜』巻第105「細川忠隆」、同105「細川興秋」の項、同263「池田利隆」の項、同267「池田長吉」の項、同773「加藤嘉明」の項

慶長5年 1600年 8月28日 19歳
浅野幸長黒田長政が連署状でもって小早川秀秋石田三成方から徳川家康方に与するよう説得する。
出典:(慶長5年)8月28日付浅野幸長・黒田長政連署状(東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号143)

慶長5年 1600年 -月-日 19歳
小早川秀秋が関地蔵(伊勢国)に陣取る。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 -月-日 19歳
小早川秀秋が高宮(近江国)に陣取る。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 -月-日 19歳
大谷吉継が高宮(近江国)に滞在中の小早川秀秋平塚為広、戸田勝成を遣わすが、秀秋は病を理由に対面を拒む。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 -月-日 19歳
小早川秀秋が稲葉佐渡守、平岡頼勝に命じ、黒田長政、岡野江雪斎、山岡道阿弥に使者を送り、徳川家康に通じることを伝える。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 -月-日 19歳
小早川秀秋柏原(近江国)に陣取る。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月14日 19歳
脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠とともに松尾山(美濃国)に陣取る。
宇喜多秀家小西行長長束正家石田三成大谷吉継安国寺恵瓊の連名で、豊臣秀頼が15歳になるまで関白職と天下の進退を秀秋に委ねること、播磨国を給付すること、秀秋家老の稲葉佐渡守・平岡頼勝に近江国内で10万石と金子300枚を給付することを記した誓詞が秀秋に発給される。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月15日 19歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長5年 1600年 9月16日 19歳
徳川家康が石田正継・正澄父子が留守居として籠城していた石田三成の居城・佐和山城(近江国)を攻める。池田輝政福島正則が城を攻囲する中、小早川秀秋が先陣をつとめ二ノ丸を落とす。井伊直政は水の手より攻める。夜、正継は降伏を願い出る。家康は石田一族の自害と引き換えに城兵の命を助けるとし、正継は承諾する。
徳川勢:徳川家康[大将]、小早川秀秋[先陣]、池田輝政、福島正則、脇坂安治。
石田勢:石田正継[大将]、石田正澄。
出典:『関原始末記』、『細川忠興軍功記』、『当代記』巻3同年月日条、『脇坂家伝記

慶長5年 1600年 9月17日 19歳
石田正継・正澄佐和山城(近江国)に火を放ち自害する。
出典:『関原始末記』

慶長7年 1602年 10月18日 21歳
岡山城(備前国)にて小早川秀秋が死去する。
出典:『時慶卿記』同年月21日条、『梵舜日記』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

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