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出典 :   


天文2年 1533年 8月11日
三好長直が本願寺証如と和睦し細川晴元に叛旗を翻す。
出典:『足利季世記』巻四 三好伊賀守合戦之事

天文2年 1533年 8月11日
山科言継のもとに織田光清が訪れる。
言継のもとに織田信秀、織田丹波守、織田信吉が訪れる。
言継のもとに織田監物、赤林対馬守が訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月12日
飛鳥井雅綱の発熱が続く。
雅綱が織田達勝に馬を贈る。
織田光清、織田丹波守が雅綱の面倒をみる。毛利敦元、織田監物、坂井摂津守が雅綱のもとを訪れ、興福寺北院の越中が脈を三度診る。
夜、近所の寺の僧侶 眼朝が雅綱の病気平癒の祈祷する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月12日
平手政秀山科言継のもとを訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月13日
飛鳥井雅綱のもとに織田信秀が使者として内藤を遣わす。
雅綱のもとへ織田光清が訪れる。
病状が落ち着く。
織田達勝が見舞いに訪れ雑談する。山科言継、蔵人、達勝とともに朝飯を食す。坂井摂津守、赤林が訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月13日
飛鳥井雅綱のもとに使者として内藤を遣わす。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月13日
飛鳥井雅綱の見舞いに訪れた織田達勝と朝飯をともにする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月14日
飛鳥井雅綱のもとに織田光清、赤林対馬守が訪れる。織田達勝が見舞いに訪れる。坂井摂津守、毛利敦元が訪れる。
8時分、善哉を食す。
織田信秀平手政秀が訪れる。雅綱の上洛について山科言継と話し合う。
信秀の命により雅綱の病気平癒のため近所の庵にて大般若経の転読が行われる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月14日
織田信秀平手政秀飛鳥井雅綱山科言継のもとを訪れる。雅綱の上洛について言継と話し合う。
信秀の命により雅綱の病気平癒のため近所の庵にて大般若経の転読が行われる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月14日
山科言継のもとに織田光清、赤林対馬守が訪れる。織田達勝が飛鳥井雅綱の見舞いに訪れる。坂井摂津守、毛利敦元が訪れる。
8時分、善哉を食す。
織田信秀平手政秀が訪れる。雅綱の上洛について話し合う。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月15日
織田信秀に槍を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月15日
山科言継のもとを訪れる。飛鳥井雅綱より槍を貰う。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月15日
織田信秀、織田光清が数度訪れる。織田達勝、織田広孝、織田丹波守、織田勘解由左衛門、滝川勝景、毛利敦元が訪れる。織田丹波守より夕食の案内を受けるが辞去する。戌刻(19-21時)、丹波守が赤粥を持参したので一口食す。
山科大宅郷地頭職・諸散在椥辻等についていまだ世上不安定といって百姓が年貢を納めないことについて、年貢の納入を当所名主沙汰人中および山科七郷中のそれぞれに命じる室町幕府奉行人奉書が発給される。
出典:『言継卿記』同年月日・30日条

天文2年 1533年 8月16日
飛鳥井雅綱のもとに織田達勝、織田丹波守、織田勘解由左衛門、赤林対馬守、矢野勝倫、坂井摂津守が見舞いに訪れる。
病状が回復する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月16日
織田光清が数度訪れる。
山科言継が宿泊している本養寺の坊主が白粥を言継に振る舞う。
織田達勝、織田丹波守、織田勘解由左衛門、赤林対馬守、矢野寛倫、坂井摂津守が見舞いに訪れる。斯波義達の使者として山本大隅守が訪れる。毛利敦元が訪れる。織田達種に葛袴を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月17日
飛鳥井雅綱のもとへ織田光清、織田丹波守、毛利敦元、矢野勝倫、名古屋教久が訪れる。
この日、上洛の出発日としていたが、雨のため20日に延引する。織田達勝が暇乞いに訪れる。太刀1腰、馬1疋(栗毛印雀目結)、5000疋が贈られる。毛利敦元より餞として200疋が進上される。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月17日
飛鳥井雅綱山科言継のもとを訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月17日
織田光清、織田丹波守、毛利敦元、矢野寛倫、名古屋教久、平手政秀が訪れる。
この日、上洛の出発日としていたが、雨のため20日に延引する。織田達勝が暇乞いに訪れる。太刀、馬1疋(代300疋)が贈られる。
織田信秀より折紙銭200疋が到来する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月18日
織田光清が餞として300疋を、光清の子・織田達種が100疋を雅孝に進上する。織田丹波守の子・竹満丸(8歳)に八境図、鴨沓の免状を発給する。ただし八境図そのものは渡さず。
斯波義統に鴨沓、葛袴、八境図とそれらの免状を速水親忠をもって遣わす。
勘解由小路治部大輔が訪れ、雅孝の蹴鞠の門弟となる。
織田丹波守の子・竹満丸が礼に訪れる。
織田広孝が雅綱の蹴鞠の門弟となる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月18日
山科言継のもとを訪れる。言継より世話をしてらったことへの御礼として子・助次郎に葛袴が贈られる。その返礼として言継に200疋を進上する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月18日
平手政秀が訪れる。言継一行の世話をしてもらったことへの御礼として政秀の子・助次郎に葛袴を贈る。政秀より200疋が進上される。
毛利敦元に毛抜6個を贈る。
織田丹波守の子・竹満丸が礼に訪れる。
赤林対馬守、坂井摂津守、矢野寛倫が訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月19日
織田広孝、名古屋教久が雅綱の門弟となるため訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月19日
早朝、矢野勝倫が訪れる。父・寛倫が病のため所領に帰るためという。後花園院勅筆書1通を贈る。
織田達勝が訪れる。扇の指し方を尋ねられる。
毛利敦元、織田光清が訪れる。
坂井摂津守が折紙にて礼を述べる。
矢野勝倫が所望していた制詞和歌、小点詞、天徳歌合を書写し毛利敦元に預ける。
織田光清に青蓮院門跡筆の三社託宣を遣わす。光清より餞として30疋が贈られる。
斯波義敦より四辻への返書が到来する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月20日
清須(尾張国)を発ち墨俣(美濃国)を越え光明寺に宿泊する(山科言継と同道しているため)。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月20日
田中にて三好長直と三好政長、伊丹氏、池田氏が戦い、長直が勝利する。
出典:『足利季世記』巻四 三好伊賀守合戦之事

天文2年 1533年 8月20日
織田兵部丞女房より毛抜が贈られる。
清須(尾張国)を発ち、夜に入り4時分に墨俣に到着する。光明寺に宿泊する。
織田達勝が暇乞いに訪れる。達勝が清須からの20町の道程を付き添う。織田丹波守は1里を付き添う。織田光清は墨俣まで付き添う。毛利敦元、名古屋教久、織田信秀、織田定信、滝川勝景が道にて暇乞いに訪れる。平手政秀より濃州紙1束、毛抜5が贈られる。坂井摂津守が暇乞いに訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月21日
雨のため墨俣(美濃国)に滞在する。雅綱の被官 速水左京亮が礼に訪れ太刀を進上する。左京進に太刀、肩衣、袴を遣わす。
山科言継、織田光清と歌を詠む。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月21日
雨のため墨俣(美濃国)に逗留する。言継一行の朝夕の食事は美濃国守護代 斎藤勘解由左衛門が留守のためその子息・毘沙徳が世話をする。
飛鳥井雅綱、織田光清と歌を詠む。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月22日
飛鳥井雅綱山科言継が墨俣(美濃国)を発ち、垂井(美濃国)に到着する。墨俣より和田弥九郎が迎えにやってくる。垂井に速水左京亮、織田光清が訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 8月23日
速水左京亮、織田光清、和田弥九郎が垂井(美濃国)より帰る。長井が迎えとして山科言継と言継と同道している飛鳥井雅綱のもとを訪れ、朝妻(近江国)まで赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

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