人 物 史

島津豊久 しまづ とよひさ
生 没 年元亀1年(1570)6/11-慶長5年(1600)9/15
出 身-幼 名豊寿丸
別 称又七郎、忠豊
法 名天岑昌運
戒 名天岑昌運
島津家久樺山善久の娘
兄 弟 姉 妹島津豊久、島津忠仍、娘(禰寝重張の妻)、宗鉄(島津久信の妻、相良頼安の妻)
配 偶 者島津忠長の娘
-
官 位侍従、中務少輔
役 職-
城 郭佐土原城(日向国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ島津豊久の関連文化財
島津豊久 年表
元亀1年 1570年 6月11日 1歳
島津豊久が生まれる。
出典:-

元亀2年 1571年 6月23日 2歳
祖父・貴久が薩摩国にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項

天正1年 1573年 7月28日 4歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正12年 1584年 3月24日 15歳
沖田畷(肥前国)にて、龍造寺隆信島津家久が戦い、隆信は戦死し、家久が勝利する。川上忠堅が隆信を討ち取る。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 1月25日 18歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 18歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 18歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 18歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 18歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 18歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 18歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 18歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 18歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 18歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 18歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 18歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 18歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 18歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 18歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 18歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 18歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 18歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 18歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 18歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 18歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 18歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 18歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正15年 1587年 6月5日 18歳
父・家久が死去する。
出典:-

文禄1年 1592年 12月8日 23歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 27歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 2月21日 28歳
豊臣秀吉が朝鮮攻めの陣立を定める。
1・2番 加藤清正(軍勢10000)、小西行長(軍勢7000)、宗義智(軍勢1000)、松浦鎮信(軍勢3000)、有馬晴信(軍勢2000)、大村喜前(軍勢1000)、五島純玄(軍勢700)
3番 黒田長政(軍勢5000)、毛利吉成・勝永(軍勢2000)、島津豊久(軍勢800)、高橋元種(軍勢600)、秋月種長(軍勢300)、伊東祐兵(軍勢500)、相良長毎(軍勢800)
4番 鍋島直茂勝茂(軍勢12000)
5番 島津義弘(軍勢10000)
6番 長宗我部元親(軍勢3000)、藤堂高虎(軍勢2800)、池田秀氏(軍勢2800)、加藤嘉明(軍勢2400)、来島通総(軍勢600)、中川秀成(軍勢1500)、菅達長(軍勢200)
7番 蜂須賀家政(軍勢7200)、生駒親正(軍勢2700)、脇坂安治(軍勢1200)
8番 毛利秀元(軍勢30000)、宇喜多秀家(軍勢10000)
釜山かい城在番 小早川秀秋(軍勢10000)
あんこうらいの城在番 立花宗茂(軍勢5000)
加徳城在番 高橋直次(軍勢500)、筑紫広門(軍勢500)
竹島城在番 毛利秀包(軍勢1000)
西生浦城在番 浅野幸長(軍勢3000)
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』271号)

慶長2年 1597年 7月-日 28歳
朝鮮国攻めにつき、諸将の攻め口を定める。船手は熊谷直盛・早川長政を奉行に、毛利秀元九鬼守隆寺沢広高長宗我部元親、池田秀氏、小川祐滋、中川秀成伊東祐兵立花宗茂脇坂安治、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、宍戸元続安国寺恵瓊を宛て、陸路北方は太田一吉を奉行に加藤清正を宛て、陸路中方は竹中重利を奉行に、加藤嘉明蜂須賀家政生駒親正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長高橋元種、相良頼房を宛て、陸路南方は毛利高政を奉行に、宇喜多秀家小西行長藤堂高虎島津義弘を宛てる。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 8月12日 28歳
宇喜多秀家太田一吉藤堂高虎脇坂安治小西行長竹中重利加藤嘉明島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政毛利高政生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長高橋元種、相良頼房、伊東祐兵が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を包囲する。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、宇喜多詮家[宇喜多秀家勢]、戸川達安[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 8月13日 28歳
宇喜多秀家太田一吉藤堂高虎脇坂安治小西行長竹中重利加藤嘉明島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政毛利高政生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長高橋元種、相良頼房、伊東祐兵が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を攻める。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、宇喜多詮家[宇喜多秀家勢]、戸川達安[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 8月14日 28歳
宇喜多秀家太田一吉藤堂高虎脇坂安治小西行長竹中重利加藤嘉明島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政毛利高政生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長高橋元種、相良頼房、伊東祐兵が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を攻める。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、宇喜多詮家[宇喜多秀家勢]、戸川達安[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 8月15日 28歳
宇喜多秀家太田一吉藤堂高虎脇坂安治小西行長竹中重利加藤嘉明島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政毛利高政生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長高橋元種、相良頼房、伊東祐兵が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を攻め、この城を落とす。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、宇喜多詮家[宇喜多秀家勢]、戸川達安[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『相国考記』同年9月16日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)、『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 8月17日 28歳
南原城を破却する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長3年 1598年 8月18日 29歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 3月9日 30歳
島津忠恒が重臣・伊集院幸侃を伏見(山城国)の屋敷に呼び寄せ殺害する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項

慶長5年 1600年 8月16日 31歳
石田三成が居城・佐和山城(近江国)を出陣し、大垣城(美濃国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻10「長政記」

慶長5年 1600年 9月15日 31歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

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