人 物 史

毛利隆元 もうり たかもと
生 没 年大永3年(1523)-永禄6年(1563)8/4
出 身-幼 名-
別 称少輔太郎
法 名-
戒 名常栄寺殿光禄大夫華渓栄公大禅定門
毛利元就妙玖(吉川国経の娘)
兄 弟 姉 妹毛利隆元五龍(宍戸隆家の妻)、吉川元春小早川隆景二宮就辰穂井田元清毛利元秋出羽元倶天野元政末次元康毛利秀包
配 偶 者尾崎局(内藤興盛の娘)
毛利輝元、毛利徳鶴丸、娘(吉見広頼の娘)
官 位備中守、大膳大夫
役 職室町幕府 相伴衆
安芸国守護、備中国守護、備後国守護、長門国守護、周防国守護
城 郭吉田郡山城(安芸国)
参 考 文 献毛利隆元に関する参考文献
関 連 デ ー タ毛利隆元の関連文化財
毛利隆元の家臣
毛利隆元 年表
大永3年 1523年 -月-日 1歳
毛利隆元が生まれる。
出典:-

享禄1年 1528年 8月20日 6歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
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享禄2年 1529年 -月-日 7歳
妹・五龍が生まれる。
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享禄3年 1530年 -月-日 8歳
弟・吉川元春が生まれる。
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天文1年 1532年 7月29日 10歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文2年 1533年 -月-日 11歳
弟・小早川隆景が生まれる。
出典:-

天文9年 1540年 8月10日 18歳
尼子詮久吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を攻めるべく、月山富田城(出雲国)を出陣する。一門衆として尼子久幸、尼子経貞、尼子国久尼子誠久尼子豊久尼子敬久が、国衆として小鴨氏、庄氏、三村氏、石川氏、細川氏、伊勢氏、山内氏、高野山氏、木梨氏、池上氏、三吉氏、宮氏、杉原氏、三沢為幸、三刀屋久祐、浅山、宍道、佐波隆連、本城常光、羽根氏、福屋隆兼、岡本正長、小笠原長徳、周布氏、祖式氏、吉川興経武田信実、尼子家家臣として亀井安綱、佐世清宗、河本隆任、牛尾幸清、湯原宗綱、川副常重、川副久盛、宇山久信、秋上綱平、中井久包、中井平蔵兵衛、高尾久友、黒正久澄、立原久光、三刀屋蔵人、森脇勝正、森脇清平、横道清高、多胡辰敬、古志吉信、熊野久家、熊野次郎、米原広綱、湯惟宗、湯家経、馬田慶信、山中氏、神西氏、広田氏、桜井氏、原氏、吉岡氏、疋田氏、遠藤氏、池田氏、相良氏、大西氏、本田氏、平野氏、津森氏、松田氏等が出陣する。総勢48000とされる。
出典:『陰徳太平記』巻10「尼子晴久吉田発向之事」

天文9年 1540年 9月4日 18歳
尼子詮久が多治比に陣取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月5日 18歳
尼子詮久が吉田上村(安芸国)に出勢し、家を放火する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月6日 18歳
尼子詮久毛利元就の居城・吉田郡山城(安芸国)の太郎丸および町屋等を放火する。
太郎丸にて尼子勢の川副常重、黒正兵衛、湯信濃守、広田宗意、桜井左衛門尉、馬田長兵衛、黒田采女等の軍勢4500と毛利勢の福原貞俊桂元澄、児玉就忠、粟屋元信、口羽通良、国司元相、坂新五郎左衛門、渡辺通、内藤、三戸、佐藤、飯田、麻原、桜井が戦い、毛利勢が勝利する。
坂にて尼子勢の湯原宗綱と毛利勢の援軍としてやってきた梨羽景盛・赤川左京亮、南方宮内少輔、秋山隼人、羽二藤兵衛、中村豊後守、波多野源兵衛、井上源五郎、井上源三郎、井上右衛門太夫、井上与三右衛門、山県弥三郎が戦い、弥三郎が宗綱を討ち取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」、『陰徳太平記』巻10「太郎丸並池内合戦付湯原弥次郎討死之事」

天文9年 1540年 9月12日 18歳
尼子詮久毛利元就の居城・吉田郡山城(安芸国)の大田口・広修寺縄手口・祇園縄手口を攻める。元就は応戦する。大田口にで大合戦が行われる。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」

天文9年 1540年 9月23日 18歳
尼子詮久が青山三塚山に陣替えする。毛利元就は尼子本陣の風越山を急襲する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月26日 18歳
尼子詮久が坂に陣取っていた杉元相・小早川興景を攻める。毛利元就は坂に赴き、尼子勢と闘う。尼子方の湯原宗綱が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 10月11日 18歳
尼子詮久が郷内にいつものごとく軍勢を遣わしたところ、毛利元就が出撃し、尼子勢を青山構まで追い払う。尼子方の三沢為幸が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 12月3日 18歳
陶隆房尼子詮久の攻撃を受けている吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を救援すべく、軍勢10000をもって山田中山に陣取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文9年 1540年 12月11日 18歳
宮崎・長尾(安芸国)にて尼子詮久方の南条・小鴨・吉川・高橋と毛利元就・宍戸勢が戦う。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 11月26日 18歳
尼子晴久の攻撃を受けている吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を救援するため、陶隆房を大将とする大内勢が山口(周防国)を出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文10年 1541年 1月3日 19歳
尼子詮久吉田郡山城(安芸国)を攻める。相合口にて尼子勢と毛利元就が戦う。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文10年 1541年 1月11日 19歳
陶隆房が天神山に陣替えする。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」、『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文10年 1541年 1月13日 19歳
吉田郡山城(安芸国)に籠る毛利元就が、城攻めのため宮崎・長尾(安芸国)に陣を張る尼子詮久を攻める。元就の攻撃に、陶隆房も呼応し、詮久は敗れて出雲国に撤退する。この戦いで、隆房被官の深野興房・宮川興広が、尼子方は尼子久幸・三沢為幸・高尾豊前守が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」

天文15年 1546年 -月-日 24歳
弟・二宮就辰が生まれる。父・毛利元就が虎法丸と名付ける。
出典:-

天文17年 1548年 3月-日 26歳
毛利元春が吉川家相続につき、小倉山城(出雲国)に入城する。
出典:『陰徳太平記』巻16「元春吉川家相続之事」

天文17年 1548年 6月20日 26歳
陶隆房毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景、宍戸元源、宍戸隆家、平賀隆宗、香川光景、己斐豊後守の軍勢10000が山名理興神辺城(備後国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻第17「備後国神辺ノ城合戦之事」

天文17年 1548年 6月23日 26歳
吉川元春神辺城(備後国)より討って出た山名理興が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻第17「備後国神辺ノ城合戦之事」

天文17年 1548年 8月3日 26歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景熊谷信直香川光景、飯田義武等が、山口(周防国)に居る大内義隆のもとに礼に赴く。
出典:『陰徳太平記』巻第17「毛利元就父子防州山口下向之事」

天文17年 1548年 -月-日 26歳
甥・吉川元長が生まれる。
出典:『陰徳太平記』巻16「元春吉川家相続之事」

天文18年 1549年 3月-日 27歳
毛利元就吉川元春小早川隆景が山口(周防国)より吉田郡山城(安芸国)に帰城する。毛利隆元は山口に残る。
出典:『陰徳太平記』巻第17「毛利元就父子防州山口下向之事」

天文20年 1551年 9月1日 29歳
大内義隆陶隆房の謀叛にあい大寧寺にて自害する。
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『厳助大僧正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻19「義隆卿自害並大寧寺炎焼之事」

天文20年 1551年 9月8日 29歳
毛利隆元吉川元春小早川隆景が西条飯田(安芸国)に出陣する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文20年 1551年 9月11日 29歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景が槌山を攻める。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文20年 1551年 -月-日 29歳
弟・穂井田元清が生まれる。
出典:-

天文21年 1552年 3月3日 30歳
大内義長が山口(周防国)に到着する。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻20「大内義長山口入之事」

天文21年 1552年 5月-日 30歳
泉(備後国)にて毛利元就尼子晴久が戦う。この戦いに毛利勢として参加する。
出典:『陰徳太平記』巻21「備後国泉合戦之事」

天文21年 1552年 9月8日 30歳
毛利隆元吉川元春を大将とし、福原貞俊、志道、児玉、粟屋、井上、赤川元保、口羽通良、熊谷信直、天野、香川、飯田、入江等からなる毛利勢4000が、平賀隆保の籠る槌山城に向けて吉田郡山城(安芸国)を出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻20「安芸国頭崎城明退事並西条槌山落城之事」

天文21年 1552年 9月11日 30歳
毛利隆元吉川元春を大将とし、福原貞俊、志道、児玉、粟屋、井上、赤川元保、口羽通良、熊谷信直、天野、香川、飯田、入江等からなる毛利勢4000が平賀隆保の籠る槌山城近くに陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻20「安芸国頭崎城明退事並西条槌山落城之事」

天文21年 1552年 9月29日 30歳
平賀隆保が自身の命と引き換えに槌山城に籠る兵の助命を、毛利隆元吉川元春に申し出る。隆元・元春は隆保の申し出を了承し、隆保は自害する。
出典:『陰徳太平記』巻20「安芸国頭崎城明退事並西条槌山落城之事」

天文21年 1552年 -月-日 30歳
弟・毛利元秋が生まれる。
出典:-

天文22年 1553年 1月22日 31歳
子・輝元が生まれる。
出典:-

天文22年 1553年 2月15日 31歳
毛利元就隆元父子が伊未・井原(備中国)に陣取る。吉川元春が猿掛城(備中国)近くに陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻21「三村家親属毛利家付備中国猿掛城合戦之事」

天文23年 1554年 2月18日 32歳
毛利元就隆元父子が江良房栄のもとへ礼に赴く。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文23年 1554年 5月12日 32歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景が神領(安芸国)を放火する。村田入道、杉生彦太郎が五日市(安芸国)に出る。五日市にて元就、熊谷信直、飯田義武と村田・杉生が戦い、元就が勝利する。
出典:『陰徳太平記』巻24「毛利元就被攻芸州所々城事」

天文23年 1554年 5月18日 32歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景が佐東郡に攻め入る。元就は井上就方を佐東銀山城(安芸国)城主の栗田時勝、小城の麻生鎮里のもとに遣わし開城を促す。時勝、鎮里は元就に城を明け渡す。
出典:『陰徳太平記』巻24「毛利元就被攻芸州所々城事」

天文23年 1554年 10月3日 32歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景が佐西郡(安芸国)に攻め入る。
出典:『陰徳太平記』巻24「毛利元就佐西郡働之事」

天文24年 1555年 9月3日 33歳
陶晴賢が安芸国を攻めるべく、軍勢27000を率い山口(周防国)を発つ。
出典:『陰徳太平記』巻25「陶入道厳島渡海之評定之事」

天文24年 1555年 9月7日 33歳
陶晴賢率いる大内勢が岩国(周防国)の永興寺(周防国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻25「陶入道厳島渡海之評定之事」

天文24年 1555年 9月26日 33歳
乃美宗勝が村上通康の来島海賊衆500艘を伴い厳島(安芸国)に上陸する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文24年 1555年 9月28日 33歳
陶晴賢勢が攻撃中の宮尾城(安芸国)に熊谷信直・高直・直清・広真・三須隆経が入る。
出典:『陰徳太平記』巻26「能島久留島与力元就付弘中隆包軍議事」

天文24年 1555年 9月30日 33歳
毛利元就が廿日市(安芸国)より軍勢を率いて出航し、厳島(安芸国)に上陸する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」

天文24年 1555年 10月1日 33歳
厳島(安芸国)に滞在中の陶晴賢毛利元就が急襲し、晴賢は自害する。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年)、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」、同巻28「陶全羨最後之事」

弘治1年 1555年 10月23日 33歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治2年 1556年 10月28日 34歳
毛利隆元熊谷信直に安芸国西条の内上阿土50貫文の地、同国熊野の内50貫文の地、安芸国小方村の内100貫文の地を給付する。奉書発給者は赤川元保、粟屋元親、国司元相。
出典:弘治2年10月28日付毛利家奉行人連署奉書(『大日本古文書』家わけ14「熊谷家文書」132号)

弘治2年 1556年 -月-日 34歳
甥・毛利元氏が生まれる。
出典:-

弘治3年 1557年 3月2日 35歳
毛利元就隆元吉川元春小早川隆景父子が防府(周防国)に陣取る。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年)

弘治3年 1557年 4月3日 35歳
大内義長が死去する。
出典:-

弘治4年 1558年 2月17日 36歳
出羽(石見国)にて本城常光小笠原長雄・牛尾幸清・湯惟宗・宇山久兼吉川元春・出羽元祐・杉原盛重福屋隆兼が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻31「石州出羽合戦之事」

弘治4年 1558年 2月28日 36歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 4月晦日日 36歳
吉川元春益田藤兼、佐波秀連、杉原盛重福屋隆兼小笠原長雄の所領・温湯(石見国)の在所を放火する。その火が、長雄館にも引火する。元春は長雄勢を攻め、長雄は温湯城(石見国)に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 5月20日 36歳
毛利元就毛利隆元小早川隆景率いる毛利勢7000が小笠原長雄の籠る温湯城(石見国)を攻めるべく出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 5月24日 36歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景益田藤兼、佐波秀連、杉原盛重福屋隆兼、宍戸隆家、熊谷信直天野隆重、出羽元祐率いる毛利勢12000が小笠原長雄の籠る温湯城(石見国)を包囲する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 5月29日 36歳
小笠原長雄の籠る温湯城(石見国)を攻めるにあたり、毛利隆元が笠取山に、吉川元春が温湯城・赤城間に、小早川隆景が小栖山に陣取る。
温湯城(石見国)-赤城間に陣取る吉川元春が、赤城の小笠原勢を攻めると思いこんだ小笠原長雄が、加勢として旗谷に勢を出す。元春は応戦し、小笠原勢を破る。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 6月1日 36歳
吉川元春が、赤城に陣取る小笠原勢を攻める。小笠原勢は温湯城(石見国)に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄2年 1559年 -月-日 37歳
弟・天野元政が生まれる。
出典:-

永禄3年 1560年 -月-日 38歳
弟・末次元康が生まれる。
出典:-

永禄4年 1561年 3月26日 39歳
毛利元就隆元父子が小早川隆景の居城・新高山城(安芸国)に赴べく、吉田郡山城(安芸国)を出立し、椋梨(安芸国)にて宿泊する。
出典:毛利元就父子雄高山行向滞留日記写(『小早川家文書』1-123号)

永禄4年 1561年 3月27日 39歳
毛利元就隆元父子が小早川隆景の居城・新高山城(安芸国)に到着する。元就は井上春忠邸に、隆元は巨真寺(安芸国)に宿泊する。
出典:毛利元就父子雄高山行向滞留日記写(『小早川家文書』1-123号)

永禄4年 1561年 11月1日 39歳
甥・吉川広家が生まれる。
出典:-

永禄5年 1562年 4月-日 40歳
足利義輝の調停により毛利元就大友義鎮が和睦する。
出典:『桂岌円覚書』

永禄5年 1562年 9月1日 40歳
毛利元就隆元父子が熊谷信直に山代五ヶ村の内250貫文の地を給付する。
出典:永禄5年9月1日付毛利元就・隆元連署判物(『大日本古文書』家わけ14「熊谷家文書」140号)

永禄5年 1562年 11月10日 40歳
毛利元就隆元父子が熊谷信直に古志400貫文の地を給付する。
出典:永禄5年11月10日付毛利元就・隆元連署判物(『大日本古文書』家わけ14「熊谷家文書」142号)

永禄6年 1563年 7月6日 41歳
毛利隆元が厳島(安芸国)に赴く。聖護院道増に暇乞いをする。
出典:『桂岌円覚書』

永禄6年 1563年 7月7日 41歳
毛利隆元が廿日市(安芸国)に到着する。
出典:『桂岌円覚書』

永禄6年 1563年 7月8日 41歳
毛利隆元が廿日市(安芸国)を発つ。
出典:『桂岌円覚書』

永禄6年 1563年 7月10日 41歳
毛利隆元吉田郡山城(安芸国)の城下・多治比に到着する。
出典:『桂岌円覚書』

永禄6年 1563年 7月11日 41歳
毛利隆元が子・幸鶴丸と会う。
出典:『桂岌円覚書』

永禄6年 1563年 7月12日 41歳
毛利隆元が佐々部(安芸国)に陣を張り、白鹿城(出雲国)を攻めるべく、8月5日までに参集するよう国衆・家中に軍勢催促をする。
出典:『桂岌円覚書』

永禄6年 1563年 8月4日 41歳
毛利隆元が佐々部(安芸国)にて死去する。
出典:『桂岌円覚書』

元亀2年 1571年 6月14日 
父・元就が死去する。
出典:『陰徳太平記』巻48「毛利元就朝臣逝去並鹿助披擒事」

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