寺 院 史

清凉寺(山城国) せいりょうじ
本 尊-
創 建-
開 基-
山 号-
宗 派浄土宗
別 称嵯峨釈迦堂
関連宗教施設-
現 所 在 地〒616-8447
京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46

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旧 所 在 地-
史 料 地 名-
イ メ ー ジ-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
リ ン ク清凉寺の関連文化財
清凉寺(山城国) 年表
永享11年 1439年 7月8日 
清凉寺が倒壊する。
出典:『師郷記』同年月日条

長禄2年 1458年 2月19日 
清凉寺の釈迦堂、阿弥陀堂が炎上する。
出典:『師郷記』同年月日条

永正5年 1508年 7月14日 
三条西実隆が清凉寺釈迦堂に参詣する。
出典:『実隆公記』同年月日条

永正6年 1509年 2月10日 
清凉寺の本尊・釈迦如来像を釈迦堂造営勧進として六波羅蜜寺で開帳する。
出典:『永正年中得生院記』同年月日条

大永2年 1522年 3月14日 
清凉寺で本尊釈迦如来像を開帳する。厳助が清凉寺に参詣する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

天文7年 1538年 3月24日 
清凉寺にて万部経法会が行われる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 3月25日 
清凉寺にて万部経法会が行われる。蜷川親俊、祐乗坊が参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 11月18日 
清凉寺十穀が蜷川親俊に30疋(300文)を贈る。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 12月17日 
清凉寺の十穀が蜷川親俊の斎に訪れる。
出典:『天文日記』同年月日条

天文8年 1539年 3月29日 
清凉寺十穀堯淳が釈迦堂、栖霞寺、五大堂の常燈料所、奉加・寄進・祠堂帖の管理をするよう幕府より命じられる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 6月5日 
三好政長清凉寺に軍勢の乱暴・狼藉、寺内竹木の伐採、盗賊の禁止、臨時課役の賦課、喧嘩の禁止を保障する禁制を発給する。
出典:天文8年6月5日付三好宗三禁制(『戦国遺文』三好氏編第1巻-116号「清凉寺文書」)

天文17年 1548年 9月-日 
三好長慶清凉寺釈迦堂に三好勢の乱暴狼藉、山林伐採、無理を言う輩、放火の停止を記した禁制を発給する。
出典:天文17年9月日付三好長慶禁制(『戦国遺文三好氏編』第1巻-214号「清凉寺文書」)

天文22年 1553年 3月25日 
山科言継清凉寺千部経法会に赴く。清凉寺には3000人の読経僧がおり、釈迦堂の東西に仮屋を建てる。参詣者が群参していたが、その多くが「田舎衆」であるという。坤(南東)の塔では念仏が行われているという。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 3月26日 
山科言継清凉寺千部経法会に赴く。朝の読経の後、清凉寺にて二尊院所蔵の足引の御影とその他の霊宝を言継は見物する。三条西公条が参詣も参詣しており、言継と公条が斎をともにする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 3月27日 
山科言継清凉寺千部経に訪れる。三好長慶が馬上50-60騎を含め700-800人を率い清凉寺に参詣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 3月1日 
清凉寺にて千部経会を開始する。
出典:『言継卿記』同年月5日条

天正3年 1575年 2月13日 
織田信長清凉寺に、千部経期間中、国質・所質、喧嘩・口論、押買を停止する禁制を発給する。署名は村井貞勝明智光秀
出典:同年月日付村井貞勝・明智光秀連署禁制(「清凉寺文書」『増訂織田信長文書の研究 下巻』497号)

天正3年 1575年 4月19日 
清凉寺にて祭礼が行われ、丹波の日吉大夫が釈迦堂内にて能を興行する。
出典:『中書家久公御上京日記』同年月日条

天正11年 1583年 2月18日 
本願寺顕如が京都見物をする。なお、見物先は清水寺北野社、石清水八幡宮、清凉寺、泉涌寺、祇園社、松尾神社。
出典:『宇野主水記』附録同年月日条

慶長3年 1598年 4月11日 
醍醐寺金堂の作事が延期となったため、清凉寺釈迦堂の歪みを直しに当寺へ赴く。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長8年 1603年 3月19日 
舟橋秀賢清凉寺釈迦堂に参詣する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長16年 1611年 10月14日 
釈迦堂本願上人に清凉寺本尊の開帳を幕府が認める。
出典:慶長16年10月14日付金地院崇伝・円光寺元佶・板倉勝重連署状写(『本光国師日記』)

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