神 社 史

北野天満宮(山城国) きたのてんまんぐう
祭 神菅原道真
創 建天暦1年 947年
別 称北野社
関連宗教施設-
現 所 在 地〒602-8386
京都府京都市上京区馬喰町

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旧 所 在 地-
史 料 地 名-
イ メ ー ジ-
参 考 文 献北野天満宮(山城国)に関する参考文献
リ ン ク-
北野天満宮(山城国) 年表
貞治6年・正平22年 1367年 3月3日 
北野社が炎上する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

永享5年 1433年 2月11日 
足利義教北野社に参籠し一万句連歌会を催す。会所20ヶ所を設ける。奉行は山名常煕。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

文安1年 1444年 4月13日 
北野社が神人籠居のため焼失する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

康正3年 1457年 2月25日 
足利義政が三条坊門小八幡、祇園社北野社に参詣する。
出典:『北野天満宮史料 古記録』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

文明7年 1475年 6月5日 
三条西実隆が今宮神社と北野社に参詣する。
出典:『実隆公記』同年月日条

延徳2年 1490年 3月17日 
土一揆が蜂起し北野社に立て籠もる。
出典:『実隆公記』同年月日条

延徳2年 1490年 3月21日 
幕府が北野社に立て籠もった土一揆を鎮圧。その戦火で北野社が焼失する。
出典:『実隆公記』同年月日条

延徳3年 1491年 4月7日 
辰刻(7-8時)、北野社の梵鐘の鋳造が白大夫殿の後背地にて行われる。
出典:『北野社家日記』同年月日条、『山科家礼記』同年月日条

永正15年 1518年 4月3日 
将軍 足利義稙北野社に参詣する。細川尹賢、一色政具、畠山順高、伊勢貞忠、高倉永家、伊勢貞陸、香阿弥、細川高国、畠山義聴が御供する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

永正15年 1518年 4月25日 
北野にて醍醐寺の梵鐘を鋳造する。数万人が見物に訪れる。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

永正18年 1521年 2月15日 
北野社勧進につき、将軍 足利義稙が奉加帳に判を据える。
出典:『北野社家日記』同年月日条

永正18年 1521年 4月1日 
六角定頼北野社に馬・太刀を寄進する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

永正18年 1521年 4月5日 
六角定頼の4月1日の北野社への馬・太刀の寄進の返礼として、北野社より太刀が送られる。
出典:『北野社家日記』同年月日条

大永6年 1526年 11月22日 
細川道永が太刀(糸巻)12腰を北野社に奉納する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

大永7年 1527年 2月3日 
柳本賢治が西岡野田城(山城国)を落とし、西岡10ヶ所および西院(山城国)を焼く。細川道永は北野経王堂、北野社松梅院に布陣する。夜、高国は愛宕山に篝火を焚く。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文3年 1534年 7月5日 
足利義晴坂本(近江国)にて、北野社松梅院禅光、御霊社別当、本能寺と対面する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天文3年 1534年 10月13日 
北野社領摂津国芦屋荘領家職について、三好政長の競望を停止し当所百姓中に北野社へ年貢・諸公事物を納入するよう命じる室町幕府奉行人奉書が発給される。
出典:(天文3年)10月13日付室町幕府奉行人奉書(『戦国遺文』第1巻-参考16号『北野社家日記』)

天文7年 1538年 2月25日 
蜷川親俊が北野社に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 5月24日 
蜷川親俊が北野社に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 6月25日 
蜷川親俊が北野社に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 10月25日 
蜷川親俊が北野社に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 11月25日 
蜷川親俊が北野社に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 4月25日 
蜷川親俊が北野社に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 5月18日 
北野社の宮仕能久が蜷川親俊のもとへ巻数を届ける。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 5月25日 
蜷川親俊が代官を北野社に遣わす。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 6月25日 
蜷川親俊が北野社に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 9月25日 
早朝、蜷川親俊が北野社に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 11月3日 
辰刻(7-9時)、北野社の棟上が行われる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 11月28日 
進藤貞治北野社の遷座を取り仕切る。
出典:『巌助往年記 上』同年月日条、『蜷川親俊日記』同年月日条

天文9年 1540年 5月12日 
足利義晴が五山に命じた大施餓鬼会が北野経王堂にて行われる。
出典:『鹿苑日録』慶長2年9月28日条、『相国考記』同年月日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

天文10年 1541年 8月29日 
北野社寺外会所の蔵円が東松崎郷(山城国)内毎阿弥分の3町余の日連歌料所(三淵晴員知行地の5段を除く)の当郷名主百姓による年貢未納を幕府に訴え、幕府が当郷名主百姓に年貢の納入を命じる奉行人奉書を発給する。署名は飯尾盛就治部貞兼
出典:同年月日付室町幕府奉行人連署奉書(『蜷川家文書』3-559号)

天文11年 1542年 4月25日 
蜷川親俊が北野社に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 5月25日 
蜷川親俊が北野社に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 7月25日 
蜷川親俊が北野社に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 9月25日 
蜷川親俊が北野社に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 10月25日 
蜷川親俊が北野社に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 11月25日 
蜷川道運が北野社に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 12月25日 
蜷川親俊が北野社に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文22年 1553年 3月21日 
北野社で千部経法会が始まる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 3月29日 
北野社の千部経法会(21日開始)が結縁を迎える。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 7月22日 
北野社右近馬場にて足利義藤細川晴元を赦免する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 7月28日 
細川晴元が長坂(山城国)に軍勢を遣わす。長坂にいた晴元被官の内藤彦七、香西元成、柳本、三好政勝を、足利義藤が奉公衆・上野民部大輔らが5・6名を遣わし出迎える。北野神社右近馬場にて晴元を赦免する。
西院(山城国)の集落を焼き討ちにするも、同地の三好方の小泉城(山城国)は落ちず。義藤のもとへ挨拶に訪れた人々を送り、自身は北山に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 7月30日 
足利義藤が北山(山城国)より北野社右近馬場を経て西京東南角の松之本に布陣する。西院小泉城(山城国)を内藤彦七らに率いられた細川勢3000-4000とともに包囲する。西七条・鳥羽あたりで火が上がったため西院城への三好の後詰に備えたが、三好勢が来なかったため再度、西院城を包囲し、城の東北に布陣した奉公衆の上野信孝と杉原晴盛に城攻めを命じるが、兵の損耗を嫌った両者は攻撃をせず。夕方、北山に帰陣する。
三好長慶が、申刻(16時)、鳥羽(山城国)に布陣し、東寺にて野伏せりをする。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月4日 
三好長逸三好宗渭岩成友通が蜂起し、足利義昭を攻めるべく塩小路(山城国)まで押し寄せてくる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月5日 
午刻(11-13時)、三好長逸三好宗渭岩成友通足利義昭の居所・本圀寺を攻める。本圀寺の北の中堂寺、南東の不動堂が放火される。足利勢は足軽衆20名が討死するも、長逸等の軍勢を退ける。
三好勢:三好長逸、三好宗渭、岩成友通。
足利義昭勢:足利義昭[大将]、柳沢元政明智光秀
出典:『言継卿記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第965「柳沢元政」の項

永禄12年 1569年 1月6日 
三好長逸三好宗渭岩成友通が軍勢6000にて東寺・浄福寺あたりに陣取る。その後、長逸、宗渭、友通は七条(山城国)に移動する。足利義昭の救援として、池田勝正伊丹親興三好義継が上洛する。七条に陣する長逸等に西から池田勝正・伊丹親興、北から奉公衆(細川藤孝等)、南から三好義継が攻めかかり、長逸等は1000余名の戦死者を出し敗北する。長逸は八幡(山城国)に逃亡し、友通は北野神社松梅院に逃れるが、北野社に追手がきたためさらに逃亡する。
三好勢:三好長逸、三好宗渭、岩成友通、小笠原信定(戦死)。
足利義昭勢:足利義昭[大将]、柳沢元政明智光秀、伊丹親興、池田勝正、三好義継、細川藤孝。
出典:『言継卿記』同年月日・7日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原信定」の項

永禄12年 1569年 4月8日 
清玉が北野経王堂にて東大寺の大仏の螺髪の鋳造を行う。多くの人々が見物に訪れる。
出典:『言継卿記』同年月7日条

元亀3年 1572年 5月25日 
北野社に吉田兼見が参詣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 4月20日 
島津家久北野社に参詣する。
出典:『中書家久公御上京日記』同年月日条

天正4年 1576年 5月16日 
山科言経北野社に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月25日 
山科言経冷泉為純北野社に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 8月5日 
山科言経冷泉為純北野社に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 1月12日 
山科言経・阿茶父子が上御霊社に参詣し、御神楽を見物する。言経、冷泉為満北野社に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 1月14日 
山科言継が内侍所に赴く。その後、上御霊社、北野社に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 2月25日 
山科言経北野社に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 1月13日 
山科言経の妻と山科阿茶丸北野社に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 1月23日 
山科言経北野社に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 2月25日 
山科言経北野社に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 3月23日 
山科言経北野社に参詣する。千本引接寺に花見に赴くが桜は咲いておらず。聖天に参詣し、妻の安産祈願をする。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 3月24日 
山科言経北野社、聖天に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 3月25日 
山科言経北野社、聖天に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 3月27日 
山科言経が妻の安産祈願のため北野社に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正11年 1583年 2月18日 
本願寺顕如が京都見物をする。なお、見物先は清水寺北野社、石清水八幡宮、清凉寺、泉涌寺、祇園社、松尾神社。
出典:『宇野主水記』附録同年月日条

天正16年 1588年 3月12日 
北野社の檜皮葺の費用として、里村紹巴が黄金2枚を、孝蔵主・勧修寺晴豊・帥局が黄金1枚を、直江兼続が米100石を、薄田若狭守が銀子2枚を、中大が銀子1枚を、曲直瀬道三が銭500疋を、心前・庵叱が銭300疋を、紹府・楚仙が銭200疋を、了喜・玄仍・正祐・小梅が銭100疋を、一欧軒が米1石、文閑が銀5文目を寄進する。
出典:天正16年3月12日付北野檜皮葺奉加帳(『北野天満宮史料 古記録』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正16年 1588年 12月1日 
仙石秀久北野社に参詣する。
出典:『北野日記』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正17年 1589年 4月14日 
仙石秀久北野社に参詣する。
出典:『北野日記』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正17年 1589年 6月28日 
仙石秀久東寺に参詣する。その後、大坂(摂津国)に赴き天満(摂津国)にて宿泊する。
出典:『北野日記』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正17年 1589年 8月22日 
北野社の千部経法会が今日より行われる。淀殿の命により行われることになり、養命坊に命じられる。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正17年 1589年 9月11日 
仙石秀久北野社に参詣する。
出典:『北野日記』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正17年 1589年 11月5日 
北野社東門の材木が大津(近江国)より北野社におおよそ到着する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正17年 1589年 11月6日 
北野社東門の材木が少し到着する。「せん四郎」の取次によるという。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正17年 1589年 12月5日 
北野社境内地の地子等免許を認める豊臣秀吉朱印状が浅野長政より松梅院禅永に渡される。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正17年 1589年 12月25日 
豊臣秀長北野社法楽院に初穂として金2枚を寄進する。
出典:『北野日記』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正17年 1589年 12月26日 
北野社法楽院が金2枚を120貫文に替える。
出典:『北野日記』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正18年 1590年 3月4日 
金森長近女房衆が松梅院禅永に紙1竿、鐚銭200疋、鰤2つを贈る。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正18年 1590年 4月22日 
佐世元嘉北野社に参詣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正18年 1590年 6月5日 
北野社の新たな東門が竣工する。古東門は松梅院に移築される。東門建立を担当した本大工・新四郎は朝廷にその旨を報告に行ったため、北野社には顔を出さず、他の棟梁・三衛門らが北野社に竣工の旨を報告する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正18年 1590年 8月-日 
北野社の観音堂が造立される。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正18年 1590年 9月16日 
北野社の鰐口を兵主(近江国)にて鋳る。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正19年 1591年 3月11日 
宇喜多秀隆、秀隆の母・豪が北野社に参詣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正20年 1592年 1月7日 
仙石秀久の祈祷のため某が北野社にて御百度詣りをする。
出典:『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正20年 1592年 1月19日 
結城秀康北野社にて立願の連歌200韻を興行する。
出典:『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正20年 1592年 1月30日 
豊臣秀次が北野社に参詣する。
出典:『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正20年 1592年 2月14日 
結城秀康の祈念のため某が北野社にて御百度詣りをする。
出典:『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正20年 1592年 3月21日 
仙石秀久の祈念のため某が北野社にて御百度詣りをする。
出典:『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正20年 1592年 4月8日 
結城秀康の祈念のため某が北野社にて御百度詣りをする。
出典:『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正20年 1592年 5月16日 
仙石秀久の祈念のため某が北野社にて御百度詣りをする。
出典:『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正20年 1592年 7月14日 
豊臣秀吉の母・なか(大政所)重病のため、清水寺愛宕山鞍馬寺、石清水八幡宮、北野社、伊勢内宮、伊勢下宮、多賀社春日社、稲荷社、住吉社、祇園社、下鴨神社、上賀茂神社、金剛峯寺に平癒祈祷を命じるとともに、回復した際には奉加として1000貫を寄附することを伝える。
出典:天正20年7月14日付豊臣秀次朱印状(和歌山県立博物館編『没後四〇〇年 木食応其 ―秀吉から高野山を救った僧―』2008年10月)

文禄3年 1594年 4月6日 
豊臣秀吉北野社に参詣する。
その後、秀吉は前田利家邸を訪れ宿泊する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 5月16日 
仙石秀久北野社に参詣する。初穂500疋を同社法楽院に寄進する。
出典:『北野日記』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

文禄4年 1595年 1月25日 
仙石秀久北野社に参詣する。初穂を同社法楽院に寄進する。
出典:『北野日記』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

慶長6年 1601年 10月1日 
毛利輝元北野社に参詣する。初穂200疋を納める。
出典:『北野社家日記』同年月日条

慶長8年 1603年 1月25日 
舟橋秀賢北野社に参詣する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長12年 1607年 2月20日 
北野社(山城国)の松梅院より板倉勝重を介して高台院に依頼した北野社の造営について、高台院は豊臣秀頼淀殿に支援を求めると松梅院に返答したうえで、大坂(摂津国)に赴く。
出典:『北野社家日記』同年月日条

慶長12年 1607年 2月21日 
高台院北野社(山城国)の松梅院より依頼を受けた北野社造営への豊臣秀頼淀殿の支援要請について、秀頼・淀殿の承諾が得られたことが松梅院にもたらされる。
出典:『北野社家日記』同年月20日条

慶長12年 1607年 7月26日 
北野社の造営につき、能長・能閑・能運・能金・随伝・能円・能専・能範が豊臣秀頼に礼をすべく、北野社を出立し、鳥羽(山城国)にて船に乗り淀川を下る。
出典:『慶長十二年造宮遷宮記録』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

慶長12年 1607年 7月28日 
北野社の造営につき、能長・能閑・能運・能金・随伝・能円・能専・能範が片桐且元貞隆兄弟に礼をする。
出典:『慶長十二年造宮遷宮記録』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

慶長12年 1607年 8月1日 
北野社の造営につき、松梅院・能長・能閑・能運・能金・随伝・能円・能専・能範が豊臣秀頼に礼をする。
出典:『慶長十二年造宮遷宮記録』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

慶長12年 1607年 8月2日 
北野社の手斧始が大坂(摂津国)河崎にて執り行われる。
出典:『慶長十二年造宮遷宮記録』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

慶長12年 1607年 8月12日 
北野社造営につき片桐貞隆が北野社に赴く。縄張りを見分する。
出典:『慶長十二年造宮遷宮記録』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

慶長12年 1607年 9月5日 
豊臣秀頼の支援による北野社(山城国)の造営が始まる。
*『当代記』には秀頼による寺社造営について、「秀頼公幼稚にまします、御袋(淀殿)の発願歟」と記す。
出典:『当代記』同年月日条

慶長12年 1607年 10月9日 
北野社の柱立が行われる。柱立につき、片桐貞隆の名代として伏屋飛騨守・新庄東玉斎が参列する。
出典:『慶長十二年造宮遷宮記録』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

慶長12年 1607年 12月13日 
北野社の棟上が行われる。槌打ちは、中井五郎左衛門と弁慶とで相論となり決着がつかなかったため、豊臣秀頼の大工である和泉がつとめる。
遷宮も執り行われる。秀頼の名代として大野治房山崎家盛が法事の際に花籠の役者を勤める。片桐且元が樽2つ・折1を、板倉勝重が洗米樽2つを北野社に贈る。
出典:『慶長十二年造宮遷宮記録』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

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