寺 院 史

清水寺(山城国) きよみずでら
本 尊十一面四十手観音菩薩像
創 建延暦17年 798年
開 基延鎮・坂上田村麻呂
山 号-
宗 派-
別 称-
関連宗教施設-
現 所 在 地〒605-0862
京都府京都市東山区清水1丁目294

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旧 所 在 地-
史 料 地 名-
イ メ ー ジ-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
リ ン ク-
清水寺(山城国) 年表
延暦17年 798年 7月2日 
延鎮が坂上田村麻呂とともに十一面四十手観音菩薩像を造り、その尊体を納める宝殿として清水寺を造営する。
出典:藤原明衡著『清水寺縁起暦』(『大日本仏教全書』寺誌叢書第一)

延暦20年 801年 10月-日 
朝廷が坂上田村麻呂に清水山寺の寺地を賜う。
出典:『清水寺縁起』

天延3年 976年 6月-日 
地震により山城国の宮城諸司の庁舎、東寺、西寺、極楽寺、清水寺、円覚寺等の堂舎が倒壊する。
出典:『日本紀略』天延4年6月条

宝治1年 1247年 8月-日 
清水坂、六波羅蜜寺の門・鎮守社、建仁寺が焼失する。
出典:『歴代編年集成』同年月条

正元1年 1259年 4月27日 
清水寺の本願堂、地蔵堂、小神二社、塔2基、検非違使宿、中門上下向刻階廊、車寄、僧房等が焼失する。観音堂、阿弥陀堂、釈迦堂、地主神社、大門、車宿等は焼失を免れる。
出典:「清水寺文書」

文永11年 1274年 12月-日 
清水寺の本願堂、車宿、西門廊、大門、塔2基が焼失する。観音堂、阿弥陀堂、地主神社は焼失を免れる。
出典:「清水寺文書」

正安2年 1300年 3月6日 
清水寺の塔供養が執り行われる。導師は隆遍。
出典:「清水寺文書」

貞和5年・正平4年 1349年 2月27日 
午刻(11-13時)、清水寺が火災により焼失。本尊は難を逃れる。
出典:『園太暦』同年月日条

応永13年 1406年 9月12日 
清水寺西門が炎上する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

応永32年 1425年 -月-日 
清水寺 塔婆の勧進聖が死去する。
出典:『薩戒記』同年11月14日条、『師郷記』同年11月14日条

文明11年 1479年 8月18日 
願阿弥が清水寺の造営を開始する。
出典:『長興宿禰記』同年月日条

文明11年 1479年 8月22日 
清水寺本堂の立柱・棟上が行われる。
出典:『長興宿禰記』同年月日条

文明11年 1479年 12月27日 
室町幕府が島津家守護分国である大隅・薩摩・日向国内での願阿弥による清水寺建立のための勧進活動を保障する奉行人奉書を発給する。
出典:同年月日付室町幕府奉行人連署奉書「島津家文書」『室町幕府文書集成』1214号

文明14年 1482年 9月13日 
清水寺の勧進に尽力する願阿弥の働きを称える勅裁を下すよう甘露寺親長が奏聞。勅許がおりる。
出典:『親長卿記』同年月日条

文明14年 1482年 9月15日 
清水寺勧進聖 願阿弥が甘露寺親長のもとを訪れる。
出典:『親長卿記』同年月日条

文明16年 1484年 6月19日 
甘露寺親長が清水寺に参詣する。本尊遷座につき勅使参着の場所について勧進を差配する願阿弥に対応を依頼する。親長の参詣に、寺僧は応対せず親長は「寺僧は「無力」で、寺にいるといってもいないと同然である」と述べる。また、親長は、本尊遷座にあたり、寺僧が本尊厨子を担ぐことに難色を示していることを聞く。
出典:『親長卿記』同年月日条

文明16年 1484年 6月27日 
新しく造営した清水寺に本尊が遷座する。勅使 頭弁元朝が清水寺に遣わされる。勧進を担当した願阿弥が3年の歳月をかけて建立したという。なお造営事業について、寺僧は一切関知していなかったという。朝廷へ5000疋(50貫文)が願阿より納められる。
出典:『親長卿記』同年月日条、『後法興院政家記』同年月日条

文明16年 1484年 9月18日 
清水寺にて9月17日より燈明勧進を実施。日に3銭を奉加すると燈明がともされる。蔭涼軒が清水寺に参詣し7・8・9月分の奉加を渡す。しかし、主人(願阿弥カ)が越前に赴いていて留守のため、留守居の蓮成法師・三阿弥に会う。
出典:『蔭涼軒日録』同年月日条

文明18年 1486年 5月13日 
清水寺の勧進聖 願阿弥が五条橋にて死去する。弟子の「伊勢者」が願阿弥の勧進事業を継承するか噂になるが、辞退を願い出ている旨も噂される。
出典:『後法興院政家記』同年5月15日条、『大乗院寺社雑事記』同年5月16日条

延徳1年 1489年 12月26日 
幕府が成阿に清水寺七堂の造営を命じる。
出典:延徳1年12月26日付室町幕府奉行人奉書「清水寺文書」

延徳2年 1490年 12月13日 
幕府が成就院住持に清水寺の造営を命じる。
出典:延徳2年12月13日付室町幕府奉行人奉書「清水寺文書」

明応8年 1499年 9月6日 
畠山尚順が清水寺に畠山勢による乱暴狼藉を禁止する禁制を発給する。
出典:明応8年9月6日付畠山尚順禁制(「成就院文書」)

永正5年 1508年 4月1日 
細川高国清水寺に細川勢の乱暴狼藉、山林伐採、課役賦課を禁じる禁制を発給する。
出典:永正5年4月1日付細川高国禁制(「成就院文書」)

永正5年 1508年 5月1日 
大内義興清水寺に大内勢の乱暴狼藉を禁じる禁制を発給する。
出典:永正5年4月1日付細川高国禁制(「成就院文書」)

永正7年 1510年 11月5日 
禁裏が清水寺内の法華三昧堂(朝倉貞景造進)への本尊安置を願阿に許可する。
出典:『清水寺旧記写』

享禄5年 1532年 1月14日 
清水寺執行円場院が山科言継のもとを訪れ牛玉と香水を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

享禄5年 1532年 6月27日 
落雷により清水寺内の滝への廊と廊の前の腰掛所、巡礼堂が破壊する。
出典:『言継卿記』同年6月28日条

享禄5年 1532年 6月29日 
山科言継清水寺に参詣する。路次に人々が群集し、市ができているが、これは「近来」のことであるという。言継は落雷により破損したところ見物し、「怪異之事」と嘆じる。滝へと向かう廊は浅井亮政が建立したものであり、落雷による怪異が亮政に災いをもたらすのか、清水寺にもたらすのか、はたまた天下にもたらすのかと噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文1年 1532年 9月21日 
青蓮院尊鎮、曼殊院慈運、三条公頼清水寺に参詣する。
出典:『二水記』同年月日条

天文3年 1534年 1月17日 
吉田兼右清水寺に参詣する。
出典:『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』153号)

天文5年 1536年 8月19日 
足利義晴が五山に命じた水陸会が清水寺にて修される。
出典:『相国考記』同年月日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

天文5年 1536年 -月-日 
清水寺にて大施餓鬼が行われる。
出典:『鹿苑日録』慶長2年9月28日条

天文7年 1538年 2月29日 
蜷川親俊が清水寺に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 4月8日 
蜷川親俊が清水寺に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 5月22日 
蜷川親俊が清水寺に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 6月29日 
蜷川親俊が清水寺に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 9月24日 
蜷川親俊が清水寺に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 1月30日 
蜷川親俊が清水寺に10疋を納める。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 閏6月16日 
三好利長(長慶)が摂津国上郡に出陣する。
利長が清水寺・同門前に軍勢の乱暴狼藉、矢銭・兵糧の賦課、山林竹木の伐採、一揆乱入、課役の賦課を禁じる禁制を発給する。
出典:『天文日記』同年月日条、天文8年閏6月16日付三好利長禁制(『戦国遺文』三好氏編第1巻-120号「成就院文書」)

天文8年 1539年 閏6月26日 
伊勢貞孝清水寺に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 9月25日 
蜷川親俊が清水寺に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 閏3月18日 
蜷川親俊が清水寺に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 4月24日 
蜷川親俊が清水寺に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 5月24日 
蜷川親俊が清水寺に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 7月28日 
蜷川親俊が清水寺に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文13年 1544年 -月-日 
武田晴信清水寺本願 成就院に信濃国平定を祈願する願文を納める。
出典:天文22年12月18日付武田晴信書状(「成就院文書」)

天文17年 1548年 4月19日 
清水寺で千部経が実施される(29日迄)。山科言継の老母が参詣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文17年 1548年 4月25日 
山科言継・上冷泉が清水寺の千部経へ参詣する。貴賤群集し商売の市が立ち、往還することが困難だったという。それにより言継は、読経僧が見えなかったため清水寺の本願に局へ案内させる。法華経一巻を聴聞の後、僧衆による音楽演奏がある。
出典:『後法興院政家記』同年月日条

天文18年 1549年 7月-日 
三好長慶清水寺成就院に軍勢の乱妨、無理な要求をすること、矢銭・兵糧米の徴収を禁止する禁制を発給する。
出典:天文18年7月日付三好長慶禁制(「成就院文書」『清水寺史』3巻)

天文18年 1549年 -月-日 
清水寺本願が千部経法会の実施を細川晴元に確認したところ、晴元は三千部・四千部を用意し、万部経法会を実施すると宣伝するように答える。そのため、万部経法会の開催を知らせる高札をかかげる。
出典:『清水寺別当記』同年2月24日条

天文22年 1553年 4・5月-日 
清水寺本願成就院は武田晴信が信濃国を平定したのを聞きつけ勧進に赴く。しかし、晴信の陣所を訪れた時には、村上義清が信濃国小県郡を武田家より奪還していたため、晴信は再度平定した後に奉加を納めると約す。
出典:天文22年12月18日付武田晴信書状(「成就院文書」)

天文22年 1553年 12月18日 
武田晴信清水寺の祈祷のおかげで川中島の合戦に勝利できたとして黄金10両を清水寺本願 成就院に奉納する。
出典:天文22年12月18日付武田晴信書状(「成就院文書」)

弘治2年 1556年 2月4日 
清水寺本願 清金(6代目本願)が死去する。「随分器用之者」であったという。
出典:『清水寺別当記』同年2月17日条

弘治2年 1556年 2月20日 
清水寺別当が東山の清水寺領山林の管理権を賢周房に預け置く。
出典:『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)

弘治2年 1556年 2月21日 
賢周房を清水寺本願職に補任する。
出典:『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)

永禄1年 1558年 9月-日 
三好長慶清水寺に軍勢の乱妨、山林竹木の伐採、伽藍に向けての鉄砲発砲を禁止する禁制を発給する。
出典:永禄1年9月日付三好長慶禁制(「成就院文書」『清水寺史』3巻)

永禄9年 1566年 7月27日 
清水寺本願より代理使者として大蔵房が奈良(大和国)の清水寺別当のもとを訪れる。ただし、大蔵房は大峰入峰のため大蔵房が抱えている者が使者となる。
出典:『清水寺別当記』同年月日条

永禄10年 1567年 5月19日 
葉室が清水寺祇園社に参詣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 4月18日 
観行房景盛を清水寺本願職に補任する。
出典:『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)

永禄11年 1568年 9月25日 
織田信長清水寺に入る。足利義昭大津(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月26日 
織田信長が山科郷(山城国)の南を通り東寺に布陣する。また信長は北白川を経由し軍勢を入京させる。足利義昭清水寺に移す。
久我にて織田信長三好長逸が戦う。
信長が勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月27日 
織田信長足利義昭清水寺から東寺に移し、さらに西岡(山城国)まで移す。
信長勢が西岡の所々・吉祥院・淀・鳥羽(以上、山城国)・樟葉(河内国)を放火する。義昭を西岡寺土の寂勝院に布陣させる。織田勢を山崎(山城国)から天神之馬場までに展開する。
勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通と和睦交渉を進める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 2月8日 
山科言継清水寺に参詣する。越前国の松尾兵部大輔に嫁いだ言継の娘が2月に出産するので祈念のため子安観音に詣でる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月20日 
興福寺の多聞院英俊が清水寺に参詣する。堂舎の様子に目を見張る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 4月27日 
山科言継、左兵衛督、中御門宣政、白川、雲松軒、戒光院が清水寺千部経の聴聞に赴く。貴賤男女が群集する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正2年 1574年 閏11月10日 
玉円房を清水寺本願職に補任する。あわせて東山にある清水寺領山林の管理権を玉円房に預け置く。
出典:『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)

天正3年 1575年 10月19日 
伊達輝宗織田信長に進物として送ったがんぜき馬、白石鹿毛、鷹2足が届く。信長が清水寺に参詣する
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正4年 1576年 4月19日 
清水寺で千部経会を開始する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月26日条

天正4年 1576年 4月22日 
梶井宮門跡が清水寺に参詣し千部経会を聴聞する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月26日 
清水寺千部経会に吉田兼見が聴聞に訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月27日 
吉田兼見の妻が清水寺に参詣する。千部経聴聞のため山科言経葉室長教薄以継、雲松軒が参詣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 9月22日 
山科言経清水寺に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 1月30日 
山科言経、大炊御門経頼が清水寺に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 2月27日 
山科言経冷泉為満清水寺に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 5月26日 
山科言経清水寺に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 2月18日 
山科言経冷泉為満清水寺に参詣する。清水茶屋、祇園茶屋にて為満の振る舞いを受ける。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 7月5日 
池田恒興が摂津国より上洛し、清水寺に陣取る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正11年 1583年 2月18日 
本願寺顕如が京都見物をする。なお、見物先は清水寺北野社、石清水八幡宮、清凉寺、泉涌寺、祇園社、松尾神社。
出典:『宇野主水記』附録同年月日条

天正13年 1585年 2月21日 
清水寺にて千部経会を開始する。
出典:『兼見卿記』同年月26日条

天正20年 1592年 7月14日 
豊臣秀吉の母・なか(大政所)重病のため、清水寺愛宕山鞍馬寺、石清水八幡宮、北野社、伊勢内宮、伊勢下宮、多賀社春日社、稲荷社、住吉社、祇園社、下鴨神社、上賀茂神社、金剛峯寺に平癒祈祷を命じるとともに、回復した際には奉加として1000貫を寄附することを伝える。
出典:天正20年7月14日付豊臣秀次朱印状(和歌山県立博物館編『没後四〇〇年 木食応其 ―秀吉から高野山を救った僧―』2008年10月)

慶長4年 1599年 2月17日 
山科言経室・阿茶丸・御伊茶・茶々が清水寺東山新八幡神社に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

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