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総年表


明応5年 1496年 閏2月13日
長谷寺への奉加として禁裏より金香合と銀盆が贈られる。
出典:『御湯殿上の日記』同年月日条、『実隆公記』同年同月15日条

明応5年 1496年 閏2月15日
細川政元が17日に摂津国に下向すると噂される。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 3月3日
信貴山の勧進聖が、興福寺大乗院尋尊に信貴山は根来山奥院であることを語る。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 3月7日
長谷寺鐘鋳のことについて唐金500貫文目とする。鑢1丁方に100貫文目としあわせて5丁とする。大工は5人でそれぞれの大工に10名の手下がいるという。大工の構成は三輪荘内より器用の者2人、下田より1人、河内国我孫子丹南より1人、伊賀施主から1人という。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 3月8日
長谷寺にいる番匠41名について、それを6番に編成する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 3月17日
長谷寺観音像眉間の玉眼について、建保の例は2寸周尺、弘安の例は2寸1分金尺で小面は9分という。今回は弘安の例を採用することに定める。鐘鋳については三輪荘の衛門三郎を加えることにし、他国の鋳物師は採用せず、大和国の鋳物師のみで行うことにする。ちなみに三輪荘・下田の鋳物師は大乗院門跡の寄人である。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 3月18日
長谷寺より使節が尋尊のもとを訪れ観音像差図の御礼として樽2荷1種を贈る。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 3月19日
長谷寺番匠について両座結番とする。一番は奈良方大工職・権大工職に奈良大工15名の内から3名を付ける。二番?は長谷寺大工職・権大工職に長谷寺大工41人から5人を付ける。仏師については京都の覚蔵と南都の春慶が棟梁職を望む。御衣木加治の導師については上乗院僧正とし、尋尊から依頼し、長谷寺としてはそれを了解するようにと尋尊が伝える。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 3月27日
長谷寺縁起が三条西実隆のもとに送られ、実隆はそれを禁裏に進上する。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応5年 1496年 4月5日
長谷寺鐘鋳が行われる。鐘の高さは5尺、口径は3尺3寸という。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 4月11日
4月5日に鋳造した長谷寺の鐘を初めて打つ。とても良い音色であったという。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 4月21日
長谷寺奉行に泰弘を加える。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 4月25日
赤松政則が死去する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年4月29日条

明応5年 1496年 4月28日
長谷寺造営が遅延していることについて尋尊が叱咤する。遅延の理由は近江よりやってくるはずの御衣木が到着していないこと、また仏師が定まっていないためという。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 5月7日
長谷寺縁起を三条西実隆が校合する。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応5年 1496年 5月13日
細川政元に腫物ができたと噂される。尋尊は遊佐弥六と木幡の争いにより宇治橋が落ち往来ができなくなったことをうけて、政元の天下成敗について疑義を記禄に残す。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 5月30日
長谷寺十三重塔の勧進聖が尋尊と一乗院の御判を請う。また、長谷寺勧進聖の玄空・行善が勧進をするにあたり綸旨を請う。これは長谷寺満山の意思でもあるという。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応5年 1496年 6月1日
大内義興が上洛のため12日に周防国を発つと奈良(大和国)で噂される。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 6月1日
長谷寺勧進聖(玄空・行善カ)が京上する。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応5年 1496年 7月3日
長谷寺より使節として東勝院・経蔵坊が尋尊のもとを訪れる。趣は仏師について初瀬住の仏所1名、七条仏所(西)1名、椿井 舜覚法眼の以上3人のうちから棟梁にしたき旨を願い出る。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応5年 1496年 7月4日
長谷寺の仏師につい、て尋尊により、初瀬住の仏所1名、七条仏所(西)1名、椿井舜覚法眼のうち舜覚を棟梁とすることが決まる。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応5年 1496年 7月21日
御衣木の校合が24日に行われることになり、それ以前に仏師・春慶を向かわせるようにと尋尊が長谷寺に命じる。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応5年 1496年 7月24日
長谷寺の御衣木校合が行われる。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応5年 1496年 7月25日
長谷寺造営につき玄空・行順の諸国勧進を認める長谷寺検校宛の綸旨が尋尊のもとに到来する。尋尊はこの綸旨を長谷寺に送る。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応5年 1496年 8月4日
長谷寺の御衣木加治につき上乗院僧正に導師を依頼するが、上乗院僧正に不相応であるとして断られる。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応5年 1496年 9月24日
蓮如が摂津国東成郡生玉荘内の大坂の地に御坊の建立を開始する。
出典:明応6年11月25日付蓮如御文、明応7年11月21日蓮如御文、『拾塵記』

明応5年 1496年 9月29日
蓮如が28日に大坂御坊建立の鍬初めを予定していたが、日が悪いという理由でこの日に始まる。
出典:『拾塵記』

明応5年 1496年 10月8日
大坂御坊の草坊がなる。
出典:『拾塵記』

明応5年 1496年 10月-日
蓮如が上洛し、金宝寺(山城国洛中四条)の仏事にてお勤めをする。
出典:『紫雲殿由縁起』(『真宗全書』本p145)

明応5年 1496年 12月3日
蓮如が金宝寺(山城国洛中四条)より大坂に向かう。
出典:『紫雲殿由縁起』(『真宗全書』本p145)

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