寛永19年 1642年 8月3日 |
徳川竹千代の1歳の誕生日を祝し、松平信綱が江戸城(武蔵国)二ノ丸にて御膳を献じる。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項 |
寛永19年 1642年 9月6日 |
徳川家光が崇源院の17回忌法会を行う。松平信綱が奉行する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項 |
寛永19年 1642年 9月29日 |
日光山に相輪堂建立につき、松平信綱が地形の選定を行う。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項 |
寛永19年 1642年 閏9月29日 |
有馬豊氏が死去する。 |
出典:- |
寛永19年 1642年 10月23日 |
秋元泰朝が死去する。 |
出典:- |
寛永19年 1642年 10月26日 |
下曽根信由が使番となる。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第149「下曽根信由」の項 |
寛永19年 1642年 11月1日 |
能勢頼隆が御使番となる。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第273「能勢頼隆」の項 |
寛永19年 1642年 11月8日 |
松平信綱が体調を崩しやすくなったため、隔日で出仕するように徳川家光が命じる。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項 |
寛永19年 1642年 11月25日 |
立花宗茂が死去する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」 |
寛永19年 1642年 12月11日 |
石川康長が死去する。 |
出典:- |
寛永19年 1642年 -月-日 |
延暦寺造営の造営がなる。戒壇院を修復する。天正13年に再興された根本中堂は南山の明王堂に移される。 |
出典:『東塔五谷堂舎並各坊世譜』「根本中堂」「文殊楼」「大講堂」「鐘堂」「戒壇院」の項(『天台宗全書』) |
寛永20年 1643年 4月4日 |
一柳直家の死去により、直家の所領収公につき、下曽根信由が播磨国・伊予国に赴く。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第149「下曽根信由」の項 |
寛永20年 1643年 4月15日 |
青山忠俊が死去する。 |
出典:- |
寛永20年 1643年 5月3日 |
加藤明成が病を理由に会津(陸奥国)400000石の所領返上を幕府に申し出る。幕府は明成の申し出を受けるが、明成の父・嘉明の功績をふまえ、子・明友に吉永(石見国)にて10000石を給付し、明成に同地にて養生するよう言い渡す。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤明成」の項 |
寛永20年 1643年 5月24日 |
日光東照宮の相輪堂供養につき、徳川家光の名代として酒井忠勝が日光東照宮に赴く。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第61「酒井忠勝」の項 |
寛永20年 1643年 10月1日 |
後光明天皇の即位につき、徳川家綱の使者として松平信綱が東福門院御所に赴く。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項 |
寛永20年 1643年 10月2日 |
天海が死去する。 |
出典:- |
寛永20年 1643年 10月3日 |
明正上皇が御所に行幸する。明正上皇の命により、同上皇の鳳輦に酒井忠勝・松平信綱・板倉重宗が扈従する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項 |
寛永20年 1643年 10月21日 |
参内し後光明天皇の即位を賀す使者として酒井忠勝が参内する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第61「酒井忠勝」の項 |
寛永20年 1643年 10月27日 |
松平信綱が参内し、後光明天皇に謁し、天皇より天盃を賜う。その後、天皇即位を賀すべく明正上皇のもとに赴く。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項 |
寛永20年 1643年 10月27日 |
後光明天皇が酒井忠勝に天盃・太刀(銘 備前兼光)を下賜する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第61「酒井忠勝」の項 |
寛永20年 1643年 11月1日 |
後光明天皇が松平信綱に太刀(銘 大原真光)、折枝を下賜する。明正上皇が仙洞御所にて信綱に饗を給い、太刀(銘 吉岡一文字)、百和香を下賜する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項 |
寛永20年 1643年 11月4日 |
明正上皇が松平信綱に時服10領、百和香を下賜する。信綱が侍従に任官する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項 |
寛永20年 1643年 11月4日 |
酒井忠勝が従四位上・左近衛権少将に叙位・任官。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第61「酒井忠勝」の項 |
寛永20年 1643年 12月21日 |
奥村易英が死去する。 |
出典:- |
寛永21年 1644年 3月25日 |
松平忠明が死去する。 |
出典:- |
寛永21年 1644年 7月10日 |
土井利勝が死去する。 |
出典:- |
寛永21年 1644年 11月26日 |
姫路藩主・松平鶴松丸が幼少につき、幕府が目付として多賀常長・能勢頼之を遣わす。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第274「能勢頼之」の項 |
正保1年 1644年 12月16日 |
「寛永」より「正保」に年号が改まる。 |
出典:- |
正保1年 1644年 -月-日 |
本照院守澄親王が青蓮院で学んだ際、実俊が侍読を勤める。 |
出典:『東塔五谷堂舎並各坊世譜』「実蔵坊」の項(『天台宗全書』) |