人 物 史

天海 てんかい
生 没 年天文5年(1536)-寛永19年(1642)10/2
出 身陸奥国
俗 姓(氏)-俗 名-
別 称-
院 号 坊 号南光坊、智楽院
--
兄 弟 姉 妹-
所 属 寺 社延暦寺
喜多院
寛永寺
僧 位 僧 官僧正
諡 号慈眼大師
師 匠-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ天海の関連文化財
史料にみえる天海の呼称
天海 年表
天文5年 1536年 -月-日 1歳
天海が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 20歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
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弘治4年 1558年 2月28日 23歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
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元亀1年 1570年 4月23日 35歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
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天正1年 1573年 7月28日 38歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
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文禄1年 1592年 12月8日 57歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
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慶長1年 1596年 10月27日 61歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
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慶長16年 1611年 11月1日 76歳
徳川家康が鷹狩をする。南光坊天海、仙波北院が家康に謁す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 4月19日 77歳
南光坊天海駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れる。家康は天海が住持を務める喜多院(武蔵国)に300石を寄進する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 7月6日 78歳
延暦寺より南光坊天海が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月11日 78歳
南光坊天海が暇乞いのため駿府城(駿河国)に登城する。徳川家康が天海に論義を望む。家康は天海に薬を遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月3日 78歳
江戸城(武蔵国)にて南光坊天海が論義する。題は「現世安穏後世善所」。徳川家康秀忠父子、諸大名、廓山、江戸誓願寺が聴聞する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月9日 78歳
南光坊天海江戸城(武蔵国)にて論議を行う。徳川家康秀忠父子が聴聞する。持戒、毀戒、威儀、具足、正見、邪見、利根、鈍根、等雨、法雨、煩悩、不断成仏、五逆罪滅について論じる。精義は天海、講師は法輪寺。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月29日 78歳
巳刻(9-11時)、仙波にて南光坊天海が論議をする。2-zinbutu-20-tokugawa-ieyasu.htmlが参詣する。申刻(15-17時)、論義が終わり、家康は川越(武蔵国)の旅館に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月1日 78歳
江戸城(武蔵国)南御殿にて徳川家康徳川秀忠が対面する。諸大名が家康に礼をする。午刻(11-13時)、南光坊天海と仙波中院が家康の前で仏法について雑談する。その際、天海に仙波(武蔵国)近辺で500石を寄進することと中院に黄金10枚を贈ることを伝える。天海の退出後、源誉存応が家康のもとに出仕し、仏法について雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月20日 79歳
天台論議が行われる。精義は南光坊天海、講師は法輪寺。
徳川家康細川忠興に鷹2連を、鍋島勝茂に鷹1連を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月23日 79歳
藤堂高虎が江戸(武蔵国)の自邸にて能を催す。南光坊天海、慈性、細川忠興毛利秀就毛利秀元立花宗茂金地院崇伝等が見物する。
出典:『慈性日記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月25日 79歳
南光坊天海が上洛すべく江戸(武蔵国)を出立する。
出典:『慈性日記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月12日 79歳
浅間にて能が催される。徳川家康が見物に赴き、徳川義利徳川頼宣徳川頼房、近習衆が供奉する。一乗院、北院、南光坊天海、月山寺、薬樹院、宝亀院、大楽院、明王院、五山衆が見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月14日 79歳
駿府城(駿河国)にて法相宗論議、真言論議が行われる。広橋兼勝、三条実條、広橋兼賢、藪宰相、高倉少将、南光坊天海、月山寺、薬樹院、浄土宗僧、五山衆が聴聞する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月17日 79歳
駿府城(駿河国)にて法相宗論議が行われる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月18日 79歳
南光坊天海が東本願寺にいる本願寺教如のもとを訪れる。
出典:『御堂日記』(略抜)同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)

慶長19年 1614年 5月20日 79歳
駿府城(駿河国)にて徳川家康片桐且元が暇を下す。家康は豊臣秀頼に鷹を、且元に鷹・馬を賜う。
申刻(15-17時)、延暦寺(山城国)の正覚院、南光坊天海、五智院、泉福寺、恵光坊、西楽院、仏眼院、竹林坊、恵心院、行光坊、日増院、叡光院、東光院、学林坊が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月21日 79歳
徳川家康延暦寺(山城国)の正覚院、南光坊天海、五智院、泉福寺、恵光坊、西楽院、仏眼院、竹林坊、恵心院、行光坊、日増院、叡光院、東光院、学林坊と駿府城(駿河国)にて対面する。仏法について雑談をする。天台宗僧の退出後、奥ノ間にて南光坊天海が家康に血脈を相伝する。
家康が池田備後守の知行を没収する。
尼崎(摂津国)代官の池田越前守が家康に礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月22日 79歳
天台宗僧が駿府城(駿河国)に登城する。南殿において、南光坊天海日吉大社の八王子・三宮で起こった珍事を語る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月24日 79歳
南光坊天海駿府城(駿河国)に出仕し、徳川家康に日光山麓にて銅が産出したことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月8日 79歳
南光坊天海徳川家康方廣寺(山城国)の大仏開眼供養のことについて、仁和寺門跡が出仕することへの異論を訴える。家康は以心崇伝を介し片桐且元に、近年の事例ではなく聖武天皇や源頼朝の時代の例を調べるよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月26日 79歳
南光坊天海徳川家康に天台血脈を伝授する。
片桐且元板倉勝重の書状が家康のもとに届く。内容は方廣寺大仏供養は8月3日、開眼供養は8月18日にするようにとの家康の指示だが、18日は豊国臨時祭のため3日に開眼供養を開催したいと豊臣秀頼が述べていたことを伝える。家康はこの返事として、大仏供養のことについて棟札の記載と鐘の銘文に立腹していることを伝え、頼朝時代には大仏開眼と堂供養は分けて実施しているので先例に倣うようにと本多正純金地院崇伝をして伝えさせる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月27日 79歳
南光坊天海駿府城(駿河国)数寄屋にて徳川家康に天台法問の伝授をする。
成瀬正武が江戸(武蔵国)に帰るべく駿府(駿河国)を発つ。
家康が『晋書』、『玉海』、『朱子大全』、『大学衍義補』、『二程全書』、『文章弁礼』、『文章正宗』、『李白詩集』、『東莱南軒集』等の書籍30冊を江戸に送る。いずれも江戸の文庫に無い書籍で、林羅山が移送を担当する。
家康が佐野信吉の所領を改易する。信吉の兄・富田信高が勘気を蒙り所領改易となったことの連座とされる。信吉の身柄は小笠原秀政が預かる。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「小笠原秀政」の項

慶長19年 1614年 8月1日 79歳
駿府城(駿河国)にいる徳川家康が、南光坊天海、以心伝心、東大寺衆、日野唯心、飛鳥井雅庸、冷泉為満、唐橋と雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月9日 79歳
駿府城(駿河国)にて天台論義が行われる。題は「法華入実者、阿含之但空歟、方等之弾呵による歟」。精義は南光坊天海、月山寺、真光寺、法輪寺、日増院、実泉院。
徳川家康が尊応・栄雅の奥書がある『定家古今集』、逍遥院・称名院筆の『三代集』を冷泉為満等の公家衆に見せる。為満は『定家古今集』をみて不審の念を持つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月11日 79歳
南光坊天海徳川家康に天台仏法の奥儀を述べる。
畔柳寿学が家康に4尺ある鯛に似た大魚を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月18日 79歳
板倉重昌が京都より駿府城(駿河国)の徳川家康のもとに戻る。方廣寺大仏殿梵鐘の銘文について五山碩学の長老7人の批判文を持参する。家康はその批判文を読んだうえで、南光坊天海以心崇伝林羅山を呼び、批判文より英叟清韓の文書の難点を指摘するよう命じる。
片桐且元が丸子寺に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月27日 79歳
駿府城(駿河国)にて天台論義が行われる。題は「法華ノ弥陀、観経弥陀と同体か別体か」。精義は南光坊天海、講師は月山寺、薬樹院、真光寺、法輪寺、日増院、東光坊、法泉院。
飛鳥井雅庸が江戸(武蔵国)に赴くべく駿府(駿河国)を発つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月8日 79歳
徳川家康南光坊天海以心崇伝、宝性院、飛鳥井雅庸、冷泉為満に重陽の御服2領ずつを賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月15日 79歳
駿府城(駿河国)数寄屋にて徳川家康南光坊天海と仏法の雑談をする。
諸侍が家康に出仕する。
幸若小八郎が江戸(武蔵国)より駿府(駿河国)に到着する。家康の前で舞曲を舞う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月8日 79歳
南光坊天海二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。薬樹院・竹林坊が家康に出仕する。日野唯心金地院崇伝、公家衆が家康のもとに出仕する。
家康が園城寺(近江国)寺僧、法泉院、光浄院を召し出し、崇伝をもって、本覚坊から訴えのあった照高院道勝による関東調伏の件を尋ねる。園城寺僧は本覚坊は不義僧で、最近は大徳寺(山城国)を徘徊しており、照高院道勝と園城寺僧と関係が悪く、ゆえにこの訴えのような虚説を述べているという。以前、園城寺は聖護院・実相院・円満院の三門跡で管理していたが、豊臣秀吉の命により聖護院一人による管理となったため、近年は照高院道勝と園城寺の関係は悪い。したがって照高院道勝と園城寺が一体となって関東調伏をすることはありえないと回答する。この回答をうけ、本覚坊を呼び出し反論がないか確かめるようにと家康は指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月9日 79歳
徳川家康南光坊天海金地院崇伝を召し出し雑談する。諸家記録の写本を作成する件で、『日本後紀』、『弘仁貞観格式』、『類聚国史』、『類聚三代格』は仙洞御所に所蔵されているのか家康が問う。天海は仙洞御所所蔵h本の書写してもよいとの許可を得たことをを報告する。林羅山は『扶桑略記』を閲覧し、平将門・藤原純友の謀反が詳しく記載されていたことを話す。
達磨寺(摂津国)に制札を下付する。担当は本多正純
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月10日 79歳
後陽成上皇が徳川家康に『類聚三代格』6巻、聖武天皇より後一条天皇までの年代略11巻、『類聚国史』2巻、『古語拾遺』、『名法要集』、『神皇系図』を南光坊天海を院使として渡す。夜、家康はそれらの書物を林羅山に読ませる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月12日 79歳
夜、天海以心崇伝徳川家康に出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月条

慶長19年 1614年 12月7日 79歳
南光坊天海、薬樹院が徳川家康と対面する。6日に安藤重信が目にした蛙合戦について、蛙が北と南に分かれて戦っており、北の蛙が多く死傷していたのを受け、北は大坂城(摂津国)、南は家康・秀忠の本陣であるので、豊臣方が負けるだろうと雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月9日 79歳
後陽成上皇が徳川家康に薫物1包を贈る。南光坊天海が持参する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第108「島津島津家久(忠恒)」の項

慶長19年 1614年 12月16日 79歳
徳川家康南光坊天海金地院崇伝と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月19日 79歳
徳川家康徳川秀忠父子と豊臣秀頼の間で和睦がなる。
家康が藤堂高虎仙石忠政と対面する。
家康が松平忠良前田利光松平忠直加藤明成福島忠勝、松平河内守と対面する。
家康が南光坊天海と対面する。
家康が落馬して負傷した子・頼宣の祖父・正木観斎に摩沙円を送る。興安が担当する。
黒田忠長が家康・秀忠父子に対面する。忠長は病が癒えていなかった、それで死すことがあっても城攻めに加わることを述べる。忠長は家康に煙硝5000斤を献じる。井上之房、小河玄蕃允が忠長に供奉する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『黒田家譜』巻14「長政記」、『菅氏世譜

慶長19年 1614年 12月24日 79歳
日の出前、茶臼山(摂津国)の徳川家康の本陣の小姓衆小屋5、6軒が焼失する。松平正久板倉重昌、加賀爪忠澄が本陣の門を堅守し、人の出入りを止める。
徳川秀忠は家康と対面し相談する。秀忠が退去後、本多正信土井利勝が家康のもとに残る。
織田有楽大野治長が人質の大野治徳、織田尚長を連れ家康に対面する。京極忠高も家康のもとに参上する。有楽・治長は服3領を、治徳・尚長は服2領を家康に献上する。有楽は十徳、治長は羽織袴を着する。その場に藤堂高虎本多正信が列席する。家康は有楽、治長に大坂城(摂津国)城中の堀・櫓の破却を早々に着手するように伝える。
巳刻(9-11時)、家康が諸大名を引見する。前田利光福島忠勝浅野長晟鍋島勝茂細川忠利寺沢広高池田利隆池田忠継池田忠雄森忠政有馬豊氏稲葉典通京極高知山内忠義堀尾忠晴加藤明成南部利直毛利秀就毛利秀元吉川広家福原広俊松平忠直、松平忠昌、松平信吉、榊原康勝本多忠朝本多忠政松平清正本多康紀松平忠利、水野勝成と対面する。
家康が南光坊天海金地院崇伝と対面し雑談する。
家康が天海の執り成しにより鷹匠・小栗忠蔵を赦免する。
秀忠が佐和山(近江国)を井伊直孝に給付する。その旨を秀忠が利勝を介し家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月29日 79歳
徳川家康以心崇伝南光坊天海、信乗院、知恩院八宮、大覚寺門跡、一乗院、広橋大納言、三条大納言と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 6月30日 80歳
徳川家康二条城(山城国)の前殿に出座する。金地院崇伝南光坊天海、智積院、勧学院が侍る。林羅山が駿府(駿河国)より持参した新板大蔵経を見物する。文字の鮮明さを皆が称える。印刷した125部の1部ずつを諸寺に配布するよう家康が命じる。
天海が天台宗以外の僧が紫衣を着するのを禁じ、僧正にも任じないようにすべきと家康に進言する。これを聞き多聞院が、家康にそのようなことを進言するのは控えるべきとし、すでに空海が紫衣を着しており、また高野山、東寺、醍醐寺の僧は僧正に任じられた僧がすでにおり、昔からそれが続いていると反論する。天海がその反論に口を閉ざす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月15日 80歳
南光坊天海金地院崇伝、その他の天台宗僧、真言宗僧が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
法隆寺阿弥陀院の遺物である唯識論、諸疏等の書籍1箱を中井正清が崇伝を介し家康に見せる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月18日 80歳
金地院崇伝天海、竹林坊が、二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れ、仏法について雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月25日 80歳
二条城(山城国)にて天台論議が行われる。題は「戒定恵三学備て即身成仏歟、戒法はかりにて成仏歟」。講師は実報院、精義は恵心院。
東寺宝護院が『果宝無尽蔵』を家康のもとに持参する。以心崇伝が取り次ぐ。
南光坊天海が家康に天台法問を伝授する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月2日 80歳
南光坊天海二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに出仕し、天台之法問を家康に伝授する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月4日 80歳
二条城(山城国)にて天台論議が行われる。題は「三葉示同」。講師は月山寺。正覚院、南光坊天海、陽成院、恵心院、竹林房、法輪寺、恵光坊等。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月9日 80歳
徳川家康二条城(山城国)前殿に出座する。家康は南光坊天海以心崇伝を召し、豊国神社(山城国)について破却したいところであるが、祭神である豊臣秀吉方廣寺大仏(山城国)の鎮守であるので、大仏殿の回廊裏に遷座を考えているが、どうかと尋ねる。天海・崇伝いずでも、家康の意図でしかるべしと返答する。そこで家康は、板倉勝重を召し寄せ、妙法院門跡を方廣寺住持とし1000石を加増する旨を伝える。照高院興意については、家康・秀忠父子の調伏祈祷をしていたので思うところはあるが、ひとまず聖護院に移すこととする。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日 80歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月23日 80歳
二条城(山城国)にて天台論議が行われる。題は「人天小善」。精義は南光坊天海、講師は恵心院。薬樹院、真光寺、喜見坊、月山寺、竹林坊、法輪寺、日増院、恵光院、法泉院が参加する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月2日 80歳
二条城(山城国)の数寄屋にて徳川家康が中院通勝に『源氏物語』箒木巻を読ませる。
家康が大徳寺(山城国)の長老・天叔、松岳、玉室を召し出し、仏教のことをひとりずつ問う。南光坊天海金地院崇伝が同席する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月23日 80歳
南光坊天海駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面し、数刻、仏法について雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月25日 80歳
南光坊天海駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面し、雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 81歳
徳川家康が死去する。
出典:-

元和3年 1617年 2月21日 82歳
禁裏が徳川家康に東照大権現の神号を与える。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

元和3年 1617年 4月8日 82歳
久能山に安置されていた徳川家康の棺を日光東照社の廟塔に移す。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

元和3年 1617年 4月16日 82歳
久能山に安置されていた徳川家康の神体を日光東照社に移す。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

寛永1年 1624年 2月30日 89歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-

寛永20年 1643年 10月2日 108歳
天海が死去する。
出典:-

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