承安3年 1173年 4月1日 |
親鸞が生まれる。 |
出典:『大谷本願寺通紀』巻第1「歴世宗主伝第一」 |
安元1年 1175年 7月28日 |
「承安」より「安元」に年号が改まる。 |
出典:- |
安元2年 1176年 -月-日 |
畠山義純が生まれる。 『寛政重修諸家譜』巻第98「清和源氏 義家流 足利支流 畠山」「畠山義純」の項の没年および享年より逆算。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第98「清和源氏 義家流 足利支流 畠山」「畠山義純」の項 |
安元2年 1176年 -月-日 |
朝比奈義秀が生まれる。 |
出典:- |
治承1年 1177年 8月4日 |
「安元」より「治承」に年号が改まる。 |
出典:- |
治承2年 1178年 -月-日 |
宇都宮頼綱が生まれる。 |
出典:- |
治承3年 1179年 -月-日 |
島津忠久が摂津国住吉にて生まれる。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津忠久」の項 |
治承3年 1179年 閏7月29日 |
平重盛が死去する。 |
出典:- |
治承3年 1179年 10月19日 |
平知盛・平経盛が延暦寺堂衆を討つ。 |
出典:『玉海』同年月日条 |
治承4年 1180年 3月17日 |
園城寺僧徒が延暦寺・興福寺とともに鳥羽法皇、高倉上皇をさらうとの風聞があったため、平宗盛・平通盛・平経正が鳥羽殿を平知盛が高倉上皇の御所を警固する。 |
出典:『玉海』同年月日条 |
治承4年 1180年 4月9日 |
源頼政が、平清盛を討つため、子・源仲綱を以仁王のもとに遣わし、平家討滅の企てに誘う。以仁王はその企てにのり令旨を源氏に下す。源頼朝への令旨は源行家に託し遣わす。 |
出典:『吾妻鏡』同年月日条 |
治承4年 1180年 4月27日 |
以仁王の令旨が北条館(伊豆国)にいる源頼朝のもとに届く。 |
出典:『吾妻鏡』同年月日条 |
治承4年 1180年 5月8日 |
平知盛が病を患う。 |
出典:『玉海』同年月9日条 |
治承4年 1180年 5月10日 |
下川辺庄司行平が源頼朝のもとに源頼政挙兵のことを告げる。 |
出典:『吾妻鏡』同年月日条 |
治承4年 1180年 5月12日 |
平知盛の病が平癒する。 |
出典:『玉海』同年月日条 |
治承4年 1180年 5月15日 |
以仁王の平家追討の令旨が平氏に露見。以仁王を土佐国に配流する宣旨が下る。検非違使の源兼綱・源光長が以仁王のいる高倉御所に派遣される。事前に追捕の動きを知った源頼政は以仁王にその旨を伝える。以仁王は高倉御所から逃れ三井寺に向かう。高倉御所では長谷部信連が検非違使と交戦し光長の郎党5、6名が負傷する。 |
出典:『吾妻鏡』同年月日条・5月19日条 |
治承4年 1180年 5月16日 |
以仁王のいた高倉御所が検非違使によって包囲される。検非違使の勢は建物の天井を破り、板敷を外すなどして以仁王を捜索するが見当たらず。以仁王の子息が八条院にいたので平頼盛が精兵を率い八条御所に向かい以仁王子息を生捕り六波羅に帰還する。 |
出典:『吾妻鏡』同年月日条 |
治承4年 1180年 5月19日 |
以仁王は三井寺衆徒の援助を受け、同寺法輪院に御所を構える。 源頼政が近衛河原の自邸を自焼し、一族郎党を引き連れ三井寺に向かい以仁王と合流する。 |
出典:『吾妻鏡』同年月日条 |
治承4年 1180年 5月21日 |
5月23日に平宗盛・平頼盛・平教盛・平知盛・平維盛・平資盛・平清経・平重衡を大将として園城寺を攻めることが勅定により決定する。 |
出典:『玉海』同年月日条 |
治承4年 1180年 5月23日 |
三井寺衆徒が城を構え、堀を深くするなど防備を固める。また平家追討について以仁王と三井寺衆徒が詮議する。 |
出典:『吾妻鏡』同年月日条 |
治承4年 1180年 5月24日 |
源頼政が中山堂と山庄を焼く。 |
出典:『吾妻鏡』同年月日条 |
治承4年 1180年 5月26日 |
以仁王、源頼政が籠る三井寺に兵が集まらなかったため、両人は南都を頼むべく三井寺を出る。平知盛、平維盛が以仁王・源頼政を追撃し、宇治(山城国)にて合戦となり、光明山鳥居前にて以仁王、源頼政が戦死する。頼政の首はさらされるが、本人ではないとの噂が流れる。 |
出典:『吾妻鏡』同年月日条 |
治承4年 1180年 6月19日 |
三善康信が源頼朝のいる北条館(伊豆国)を訪れ、5/26に以仁王が追討された旨を伝える。また、康信は頼朝追討の命がおりるであろうから奥羽へ逃れるよう勧める。康信の母が頼朝の乳母であったことから、康信は頼朝の伊豆配流後も頼朝と誼を通じ、3ヶ月に一度は洛中の様子を伝える使者を送っていたという。 |
出典:『吾妻鏡』同年月日条 |
治承4年 1180年 6月24日 |
源頼朝が平家追討の策を練るべく累代の御家人を招集するため、安達盛長と中原光家を遣わす。 |
出典:『吾妻鏡』同年月日条 |
治承4年 1180年 6月27日 |
三浦義澄と千葉胤頼が源頼朝のいる北条館(伊豆国)のもとを訪れ、平家追討について議す。 |
出典:『吾妻鏡』同年月日条 |
治承4年 1180年 12月11日 |
平清盛の命により、平重衡が園城寺を焼き討ちする。 |
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治承4年 1180年 12月28日 |
平重衡が奈良(大和国)を放火し、興福寺、東大寺が類火に遭い、東大寺大仏殿および大仏も焼失する。 |
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治承5年 1181年 閏2月4日 |
平清盛が死去する。 |
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治承5年 1181年 4月1日 |
親鸞が青蓮院慈円のもとで剃髪する。範宴と号す。 |
出典:『大谷本願寺通紀』巻第1「歴世宗主伝第一」 |
養和1年 1181年 7月14日 |
「治承」より「養和」に年号が改まる。 |
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