和暦 |
西暦 |
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年齢 |
事項 |
出典 |
永正1年 | 1504 | - | - | 1 | 畠山稙長が生まれる。 | - |
大永6年 | 1526 | 2 | 16 | 23 | 足利義晴が石清水八幡宮に参詣する。細川高国が男山山上を、畠山稙長が義晴の宿院・善法寺を警固する。義晴の参詣にあたり、聖護院道増、広橋守光、烏丸光康、高倉永家、日野内光、賀茂在富、白川雅業、土御門有春、細川澄賢、畠山稙成、朽木稙綱、伊勢貞孝、伊勢備中守、結城左近将監、飯川能登守、蜷川式部少輔、能勢弥太郎、西郡四郎、上野民部大輔、小林五郎、三上大蔵、松田丹後守が供奉する。 | 『陰徳太平記』巻6「石清水八幡宮造営付義晴将軍御社参之事」 |
天文11年 | 1542 | 2 | 20 | 39 | 畠山稙長、丹下備後より畠山弥九郎との和睦は難しいこと、御内書の発給を忝く思うことを伝える書状が大舘常興に届く。 | 『大舘常興日記』同年月日条 |
天文11年 | 1542 | 3 | 8 | 39 | 遊佐長教が高屋(河内国)にて長政の弟・中務の父である斎藤山城守を殺害する。 13日に畠山稙長が紀伊国より熊野衆の龍神・山本・玉木・湯川・アイソ・一瀬、根来寺衆、高野山、粉河寺衆の計30000を率いて河内国に入国するとの噂が京都、奈良にて流れる。 | 『多聞院日記』同年月日条、『大舘常興日記』同年月日条 |
天文11年 | 1542 | 3 | 9 | 39 | 遊佐長教が斎藤山城守を殺害したことが幕府に伝わる。 | 『蜷川親俊日記』同年月21日条 |
天文11年 | 1542 | 3 | 10 | 39 | 畠山稙長に稙長出陣の旨を賞する御内書の発給につき、大舘晴光が父・常興に案文を求め、案文を得る。 | 『大舘常興日記』同年月日条 |
天文11年 | 1542 | 閏3 | 18 | 39 | 畠山稙長より礼として遊佐蔵人が伊勢貞孝のもとを訪れる。 | 『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文14年 | 1545 | 5 | 15 | 42 | 畠山稙長が死去する。 | 『厳助往年記』同年月条 |