人 物 史

大舘晴光 おおだち はるみつ
生 没 年?-永禄8年(1565)4/28
出 身-幼 名-
別 称-
法 名-
戒 名-
大舘尚氏-
兄 弟 姉 妹大舘光重、大舘高信、大舘晴光、大舘藤安、娘(足利義晴の妻)、娘(玄秀の妻)
配 偶 者-
大舘輝光
官 位左衛門佐、上総介、陸奥守
役 職室町幕府 内談衆
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
大舘晴光 年表
- -年 -月-日 
大舘晴光が生まれる。
出典:-

天文3年 1534年 9月3日 
足利義晴が軍勢2000を率い坂本(近江国)より上洛する。南禅寺に入る。先駆けは蜷川、大舘晴光・上野与三郎・佐々木治部少輔・一色式部少輔・力阿弥、伊勢貞孝六角義賢が随従する。義賢は若王子に寄宿する。
出典:『北野社家日記』同年月日条、『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』154号)

天文5年 1536年 1月1日 
山科言継が、大舘尚氏大舘晴光、大舘兵庫頭、大舘治部大輔、大舘弥三郎、上野与三郎、千秋将監、彦部又四郎、朝日孫右衛門、荒川氏隆本郷光泰、本郷三郎、小笠原民部少輔、一色式部少輔、海老名高助、海老名二郎、細川高久、細川刑部少輔、飯川彦九郎のもとに礼に赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文5年 1536年 9月2日 
足利義晴が隠居を表明し、子・菊童丸に家督を譲る。政務について、奉行衆として大舘常興大舘晴光摂津元造細川高久海老名高助本郷光泰荒川氏隆朽木稙綱を指名する。
出典:『巌助往年記』同年月日条

天文6年 1537年 1月1日 
細川晴元、外様衆の細川元常、細川陸奥守、細川二郎四郎、摂津元造、二階堂左衛門尉、御供衆の大舘常興大舘晴光、大舘兵庫頭、畠山民部大輔、上野与三郎、大舘治部大輔、朽木稙綱、伊勢兵庫助が出仕する。足利義晴足利菊童丸への取次は荒川氏隆
出典:『言継卿記』同年月日条

天文7年 1538年 1月10日 
巳刻(9-11時)、足利義晴が参内する。大舘晴光細川晴経、歳阿を初めて供に加える。申刻(15-17時)、戻る。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 4月7日 
大舘晴光が越前国に下向する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 4月25日 
足利義晴が庭田邸を訪問する。供は大舘晴光、上野与三郎、伊勢貞孝
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 閏6月16日 
足利菊童丸、母・慶寿院が八瀬(山城国)へ赴く。供は大舘晴光朽木稙綱伊勢貞孝
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 11月5日 
足利菊童丸が東山城(山城国)に赴く。供は大舘晴光、佐々木民部少輔、伊勢貞孝、万阿弥。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 11月13日 
六角定頼義賢父子が伊勢貞孝邸を訪れる。貞孝は観世能にてもてなす。藤宰相、大舘晴光、上野与三郎、細川高久海老名高助、永田景弘、飯川彦九郎、祐乗坊、蜷川親俊、青地、下笠、三雲、蒲生定秀が相伴する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 11月17日 
足利義晴・慶寿院・菊童丸千歳丸近衛稙家のもとを訪れる。菊童丸の供は大舘晴光、畠山上野介、上野与三郎、細川晴経伊勢貞孝、歳阿。義晴の供は細川晴賢、佐々木民部少輔、孝阿。堤、三上、野依、河村民部、淵田、鈴木、開藤、河田弥三郎、林源二郎が随従する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 12月3日 
足利義晴菊童丸父子が細川晴元のもとを訪れる。義晴の供は細川右馬頭、佐々木民部少輔、春阿。菊童丸の供は大舘晴光、上野与三郎、細川晴経、大舘晴忠、伊勢貞孝、祐阿。能が催される。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月4日 
大舘晴光が若狭国松永荘の半分を知行する。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月10日 
畠山稙長に稙長出陣の旨を賞する御内書の発給につき、大舘晴光が父・常興に案文を求め、案文を得る。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月28日 
足利義晴菊童丸父子が坂本(近江国)より大津(近江国)を経由し上洛する。義晴の供は細川右馬頭、上野与三郎、万阿、藤中納言。菊童丸の供は大舘晴光、佐々木、小原、大舘治部大夫、佐々木民部少輔、伊勢貞孝、孝阿。義晴は相国寺法住院に入り、御殿の作事を命じる。
細川晴元は坂本(近江国)より上洛する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条

天文11年 1542年 閏3月25日 
結城国縁、杉原晴盛をもって、御供衆の大舘常興、上野与三郎、大舘晴光、吉見右馬頭、大舘兵庫頭、伊勢因幡守、大舘治部大輔、細川晴経朽木稙綱に、26日の御殿普請につき侍・中間を問わず小者3名を鋤を持たせて提供するようにと足利義晴が命じる。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 閏3月28日 
大舘晴光邸(万松軒)に近衛稙家細川晴元伊勢貞孝が訪れる。酒宴あり。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 4月14日 
足利義晴の使者として大舘晴光が醍醐寺三宝院門跡のもとに赴く。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 4月16日 
大舘晴光が自身の宿所である「ししう院」に父・常興の来訪を促す。常興より19日が吉日であるので当日に赴くとの返答がある。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 4月19日 
大舘晴光の宿所「ししう院」に父・常興が訪れる。
出典:『大舘常興日記』同年月日・16日条

天文11年 1542年 5月1日 
倶利伽羅明王院(加賀国)住持職について本願寺証如より当地門徒中へ受け入れるようにとの命が下ったことについて、証如へ珍重の旨を大舘常興より伝えるよう言い渡される。
大舘晴光が父・常興のもとに礼に訪れる。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 5月21日 
足利菊童丸が感神院新宮に参詣する。供は大舘晴光朽木稙綱伊勢貞孝
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文12年 1543年 5月16日 
大舘晴光が大慈光院(岡御所)に寄進した今出川北小路西南頬の敷地について、大慈光院雑掌に敷地の領有を認める室町幕府奉行人連署奉書が発給される。
出典:天文12年5月16日付室町幕府奉行人連署奉書(「曇花院殿古文書」『室摩幕府文書集成 奉行人奉書篇 下』3527号)

天文15年 1546年 1月10日 
足利菊童丸が参内する。大舘晴光朽木稙綱伊勢貞孝、縁阿弥、杉原七郎、石谷光政、本郷与三郎、安威藤備、沼田光兼、飯川彦九郎が供奉し、薬師寺与一、柳本又二郎が辻固めをする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文16年 1547年 3月晦日 
足利義晴義藤父子が北白川城(山城国)に900余騎にて籠城する。随従者は近衛稙家聖護院道増、大覚寺義尭、烏丸光康日野晴光、高倉永家、日野資将、賀茂在留、大舘晴光、細川輝経、大舘晴忠、細川隆是、伊勢貞教、摂津元造、摂津晴門、三淵晴員、小笠原備前守、武田信実和田惟政
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」

天文16年 1547年 4月1日 
細川晴元三好長慶ら淡路・四国衆30000をもって足利義晴義藤父子が籠城する北白川城(山城国)を攻める。
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」

天文16年 1547年 4月10日 
足利義晴義藤父子が籠城する北白川城(山城国)を攻めていた三好長慶ら淡路・四国衆30000が摂津国国衆の制圧を優先した細川晴元の命により摂津国に引き上げる。
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」

天文16年 1547年 7月12日 
細川晴元の要請を受けた六角定頼義賢が、足利義晴義藤が籠城する北白川城(山城国)を包囲する。
出典:『足利季世記』巻4「公方東坂本御出奔ノ事」

天文16年 1547年 7月19日 
細川晴元六角定頼の包囲を受け耐えられず足利義晴義藤父子が籠城していた北白川城(山城国)を自焼し東坂本(近江国)に逃れる。
出典:『足利季世記』巻4「公方東坂本御出奔ノ事」、『陰徳太平記』巻15「将軍北白川御籠城之事」

天文19年 1550年 5月1日 
足利義晴は自身の病が悪化したため、上野信孝伊勢貞孝三淵晴員飯川信堅大舘晴光摂津元造を召し、怨敵である三好長慶を退治し子・義藤を上洛させるようにと遺言を残す。
出典:『足利季世記』巻4「前将軍薨逝ノ事」

天文19年 1550年 5月4日 
辰刻(7-9時)、足利義晴が死去する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 1月28日 
足利義藤が比叡辻の宝泉寺より、未下刻(14:00頃)、入洛する。伊勢貞孝被官の蜷川弥三郎・堤三郎兵衛を先頭に三宝院、奉公衆、同朋衆、大舘晴光上野信孝、大舘晴忠、朽木稙綱、細川中務大輔、伊勢貞孝、縁阿弥、高倉永家、慶寿院(義輝正室)、遊佐勘解由左衛門、近衛稙家、大覚寺義俊が付き従う。細川聡明丸も上洛する。
義藤、聡明丸の上洛につき、三好長慶が麾下の国衆を辻固めに動員し、三好長逸松永久秀を遣わして逢坂にて出迎える。
六角義賢の軍勢に守られた聡明丸が、戌刻(19-21時)に東寺に到着する。三好千熊丸が聡明丸を出迎える。
細川晴元足利義藤の帰洛に随行せず若狭に向かうため堅田から葛川に向かったとされる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『足利季世記』巻5「公方三好和談之事」

天文22年 1553年 7月29日 
足利義藤が西院(山城国)に野伏せりを仕掛ける。細川晴元の家臣・内藤彦七、香西元成三好政勝、十河左介、宇津二郎左衛門が談合のため義藤の陣所を訪れる。義藤は彼らに酒を振舞う。大舘晴光上野信孝、上野与三郎、杉原晴盛も談合に参加。同朋衆に酌をさせる。
下京に1町につき結橋2つを賦課する。
出典:『言継卿記』同年月日・7月30日条条

永禄8年 1565年 4月28日 
大舘晴光が死去する。
出典:-

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