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寺 院 史
高野山 金剛峯寺(紀伊国)
こうやさん こんごうぶじ
本 尊
-
創 建
-
開 基
空海
山 号
-
宗 派
真言宗
別 称
-
関連宗教施設
-
現 所 在 地
〒648-0294
和歌山県伊都郡高野町高野山132
旧 所 在 地
-
史 料 地 名
-
イ メ ー ジ
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
リ ン ク
-
高野山 金剛峯寺(紀伊国) 年表
貞応1年 1222年 5月12日
高野山
大塔の修造につき南海道諸国司に対し良印の勧進に協力するよう太政官符が発給される。
出典:貞応1年5月12日付太政官符『高野山文書』巻1-8号
貞応1年 1222年 9月25日
高野山
大塔の修造につき
北条義時
が五畿七道の御家人地頭住人に相応の奉加に応じるよう下知する。
出典:貞応1年9月25日付北条義時下知状『高野山文書』巻1-9号
永享5年 1433年 7月14日
高野山
が炎上する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条
享禄4年 1531年 3月16日
金剛峯寺
畳大工職に奈良又三郎を補任。関銭免除のかわりに准〓会畳1帖を毎年進上することを約させる。
出典:享禄4年3月16日付小集会衆連署畳大工職免状『高野山文書』巻1-61号
天文2年 1533年 3月21日
弘法大師700年忌が
高野山
壇上伽藍にて執行される。
出典:『快元僧都記』同年月日条
天文7年 1538年 8月3日
高野山
成仏院(聖方)が加賀国宮腰にある成仏院末寺5ヶ寺の支配を在地に徹底してもらうように
本願寺証如
に依頼する。
出典:『天文日記』同年月日条
天文7年 1538年 8月9日
8/3の
高野山
成仏院(聖方)の
本願寺証如
への依頼について、不慮のことが起きたため命令を在地に下してはいないが、決しておろそかにしているわけではないという返答を証如がする。
出典:『天文日記』同年月日条
天文11年 1542年 3月8日
遊佐長教
が高屋(河内国)にて長政の弟・中務の父である斎藤山城守を殺害する。
13日に
畠山稙長
が紀伊国より熊野衆の龍神・山本・玉木・湯川・アイソ・一瀬、
根来寺
衆、
高野山
、
粉河寺
衆の計30000を率いて河内国に入国するとの噂が京都、奈良にて流れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『大舘常興日記』同年月日条
天文18年 1549年 9月25日
高野山
大塔勧進が本願 良舜の代理として甲斐国八幡を訪れる。
出典:『王代記』天文18年条
天文18年 1549年 9月30日
高野山
大塔勧進(本願 良舜の代理)が甲斐国八幡を発ち、甲斐国府中に戻る。
出典:『王代記』天文18年条
天文24年 1555年 9月17日
高野山
金堂造営につき御影堂より「大師童形之御守刀」・「御筆理趣経」1巻・「勅筆仁王経」上下2巻・「大師御所持御珠数」1連・「舎利殿」1口を本願・善長が借用する。なお金堂造営が成ったならば、この5種の宝物とともに善長の所持する「大師御髪」・「牛玉」1顆・「御筆法花経」全1帖・「牛玉」1顆・「舎利塔」1基を御影堂に納めることを約束する。
出典:天文24年9月17日付金堂本願善長霊宝預状『高野山文書』巻1-65号
天正2年 1574年 3月11日
上杉謙信
が、越後国の者は
高野山
参詣の際、無量光院を宿坊とすることを同院に誓う。
出典:天正3年3月11日付上杉謙信定書(「無量光院文書」『上越市史』資料編3-891号)
天正9年 1581年 8月17日
織田信長
が
荒木村重
の残党を
高野山
が匿ったうえ、残党請取に赴いた織田家の使者を高野山が殺害したとして、高野聖数百名を殺害する。
出典:『信長公記』巻14(8)「高野聖御成敗の事」
天正9年 1581年 8月19日
佐久間信盛
が十津川にて死去したと聞いた
織田信長
が、信盛の滞在していた
高野山
の宿坊の蔵に保管されていた信盛の所有物を差し押さえすべく使者を遣わす。しかし、使者は殺害されたため、諸国の高野聖を捕縛するという事件が起きる。23日に高野山攻めが行われると噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正10年 1582年 2月9日
織田信長
が信濃国出陣につき、
筒井順慶
を信濃国攻めに同伴すること、河内国衆は烏帽子山・
高野山
・雑賀衆に備えること、和泉国衆は紀伊国に遣わすこと、
三好康長
を四国に遣わすこと、摂津国は
池田恒興
が留守居としての残り、
池田元助
・
輝政
兄弟、
中川清秀
は信濃国攻めに加わること、上山城衆は信濃国攻めに加わること、
羽柴秀吉
は中国地方の抑えとして残ること、
細川藤孝
・
忠興
父子、一色五郎は丹後国に残ること、
明智光秀
は信濃国攻めに加わることを命じる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正20年 1592年 7月14日
豊臣秀吉
の母・なか(大政所)重病のため、
清水寺
、
愛宕山
、
鞍馬寺
、石清水八幡宮、
北野社
、伊勢内宮、伊勢下宮、
多賀社
、
春日社
、稲荷社、住吉社、
祇園社
、下鴨神社、上賀茂神社、
金剛峯寺
に平癒祈祷を命じるとともに、回復した際には奉加として1000貫を寄附することを伝える。
出典:天正20年7月14日付豊臣秀次朱印状(和歌山県立博物館編『没後四〇〇年 木食応其 ―秀吉から高野山を救った僧―』2008年10月)
文禄2年 1593年 11月26日
高野山
では、以後、新造の坊舎について、坊料を付けないことと
応其
・無量光院・北室院・桜池院・遍照光院・龍光院・如意輪寺・宝性院・高室院・正智院・無量寿院の連名をもって定める。
出典:文禄2年11月26日付木食興山上人等連署覚書案『高野山文書』巻1-70号
文禄3年 1594年 3月2日
豊臣秀吉
が
高野山
に参詣するため吉野を発つ。
出典:『駒井日記』同年月日条
文禄3年 1594年 3月3日
朝、
高野山
に到着する。検校に50石、大舎利に100石、平僧100名に100石、新発意100名に200石、行人2000人に2000石、
応其
に1000石、木食内竪に100石を下行する。
出典:『駒井日記』同年月4日条
文禄3年 1594年 3月4日
高野山
内にある母・なかの位牌所にて法事を執り行う。
聖護院道澄
が参列する。
出典:『駒井日記』同年月6日条
文禄3年 1594年 3月5日
豊臣秀吉
が
高野山
にて能を催す。
出典:『駒井日記』同年月6日条
文禄4年 1595年 7月8日
豊臣秀吉
が、謀叛の疑惑につき
豊臣秀次
を
高野山
清巌寺に配流する。申刻(15-17時)、秀次が
伏見城
(山城国)を出立する。木下吉隆、羽田長門守、
応其
が秀次の供をする。秀次一行は玉水(山城国)に宿泊する。
夜、秀次の妻子が徳永寿昌邸に移され、
前田玄以
と
田中吉政
が監視する。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」、『当代記』巻3同年月日条
文禄4年 1595年 7月9日
豊臣秀次
が玉水(山城国)を出立し、奈良(大和国)の中院の井上源五郎邸に宿泊する。秀次のもとに見舞いの使者が多く訪れたが、不要である旨の触れを出すよう駒井重勝、
益田照従
に命じる。
出典:『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」
文禄4年 1595年 7月13日
豊臣秀次
謀叛事件につき、連座した秀次家臣の処刑が行われる。秀次家臣の切腹に
石田三成
・
前田玄以
・
増田長盛
が検使として立ち会う。秀次謀叛事件に連座した
服部一忠
は
上杉景勝
に、一柳直秀は
徳川家康
に、
船越景直
は遠流の刑に処される。
出典:『太閤さま軍記のうち』
文禄4年 1595年 7月15日
豊臣秀次
が
高野山
青巌寺にて切腹する。秀次家臣・
木村重茲
が秀次に連座し大門寺(摂津国)にて切腹する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条
文禄5年 1596年 1月29日
高野山
奥院灯籠堂が炎上する。
出典:『義演准后日記』同年2月25日条
文禄5年 1596年 2月25日
大仏千僧会が行われる。
三宝院義演
等が出仕する。
義演は宿坊にて
応其
に会い
高野山
奥院灯籠堂が炎上したことを聞く。
義演は本尊をはじめ大仏殿を見物し、あまりの広さに驚嘆する。
出典:『義演准后日記』同年月日条
文禄5年 1596年 閏7月13日
大地震が発生するが伽藍の破損はなし。ただし、大塔の九輪の鎖が切れるという。
出典:『義演准后日記』同年月17日条
慶長2年 1597年 1月23日
応其
が
高野山
より上洛する。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長2年 1597年 2月24日
朝、
応其
が
高野山
大塔供養会執行につき、高野山に向かうべく京都を出発する。
出典:『義演准后日記』同年月25日条
慶長2年 1597年 3月10日
11日に執行される
高野山
大塔供養会に参加するため、大塔修造の大檀越である北政所の女房衆が
高野山
に参詣する。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長2年 1597年 3月11日
応其
の差配のもと
高野山
大塔供養会を執行する。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長2年 1597年 3月15日
三宝院義演
が、21日に
高野山
大塔供養会にて導師を勤めるべく醍醐寺を発す。この日、大和郡山(大和国)にある
応其
の宿坊に宿泊する。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長2年 1597年 3月17日
三宝院義演
が、清水(紀伊国)を発ち天野越えで
高野山
に登る。大門の外で下輿し高野山大塔に参詣する。興山寺に宿泊する。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長2年 1597年 3月21日
応其
が差配する
高野山
大塔の供養会を執行する。導師は
三宝院義演
。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長2年 1597年 3月23日
三宝院義演
が
高野山
を下山し清水(紀伊国)に宿泊する。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長2年 1597年 4月1日
応其
が
高野山
より上洛。この日、入洛する。
出典:『義演准后日記』同年3月29日条
慶長2年 1597年 4月2日
応其
が
高野山
大塔供養執行につき、高野衆を伴い
豊臣秀吉
のもとへ礼に赴く。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長3年 1598年 5月19日
未刻(13-15時)、
応其
が醍醐寺に入る。仮柱立てが行われている金堂に向かうそれを指揮する。作事はすべて
高野山
の下法師で応其の配下が担う。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長4年 1599年 2月26日
東寺
五重塔に落雷。心柱が燃える。
応其
と
高野山
法師ら
大仏殿
より駆けつけ鎮火する。
出典:『義演准后日記』同年月日条条
慶長4年 1599年 3月21日
金剛峯寺
奥院経蔵建立につき、
石田三成
が母の菩提のため一切経を奉納する。
出典:慶長4年3月21日付石田三成奉納木額(金剛峯寺蔵)
慶長5年 1600年 9月25日
徳川家康
の裁定により、
増田長盛
は死罪をまぬがれるが、所領を没収され、
高野山
に蟄居する。
出典:『関原始末記』
慶長8年 1603年 3月8日
舟橋秀賢
が
高野山
に参詣する。秀賢は自性院の案内のもと奥院に参詣する。帰りに両院不動を見物する。秀賢は自性院に宿泊する。
出典:『慶長日件録』同年月日条
慶長17年 1612年 2月21日
徳川家康
が府中(駿河国)近辺にて鷹狩をする。
家康が
板倉勝重
、
永井直勝
を召し、
高野山
に隠居している観世黒雪の赦免を伝える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 11月6日
高野山
聖衆大徳院が
徳川家康
に対面する。
本多正純
が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 7月10日
徳川家康
が
以心崇伝
、多聞院を召し出し、
高野山
(紀伊国)に悪僧がおり、宝性院の什物を隠匿しているとの噂があるので捜索するようにと命じる。
出典:『駿府記』同年月日条
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