地 名 の 歴 史

常陸国[国] ひたちのくに
初 見-
常陸国
筑波郡、河内郡、信太郡、行方郡、鹿島郡、真壁郡、新治郡、茨木郡、那珂郡、久慈郡、多賀郡
荘 園-
中 世 高-
近 世 領 主-
近 世 石 高-
鎮 守-
神 社鹿島神宮
寺 院-
城 郭常陸国の城郭
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
常陸国[国] 年表
建武4年 1337年 2月24日 
富岡(常陸国)にて小田治久と佐竹義篤が戦う。
出典:『桜雲記』巻之中

暦応3年・興国1年 1340年 2月-日 
北畠親房が小田城(常陸国)にて職原抄を執筆する。
出典:『桜雲記』巻之中

永禄2年 1559年 8月1日 
結城政勝が死去する。
出典:-

元亀2年 1571年 8月-日 
土浦(常陸国)にて北条氏政佐竹義重が対陣する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義重」の項

元亀2年 1571年 10月3日 
北条氏康が死去する。
出典:『早雲寺過去帳』

天正18年 1590年 8月1日 
豊臣秀吉が常陸国の旗頭に佐竹義重を指名する。しかし、義重は隠居の身であるため固辞し、子・義宣にその任を与えるよう請い、秀吉は義宣を常陸国旗頭とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

天正19年 1591年 9月8日 
太田資正が片野(常陸国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第253「太田資正」の項

文禄3年 1594年 10月-日 
佐竹義宣の所領の検地が行われ、常陸国久慈郡・筑波郡・多賀郡・茨城郡・鹿島郡・行方郡・新治郡・真壁郡・信太郡・河内郡・江戸崎領、陸奥国南郷、下野国武茂・松野・茂木等で総石高545760石とされる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

慶長6年 1601年 2月-日 
徳川家康松平信一に常陸国土浦35000石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第7「松平信一」の項

慶長7年 1602年 5月8日 
徳川家康佐竹義宣榊原康政花房職之を上使として遣わし、義宣の常陸国・下野国・陸奥国の全所領を没収し出羽国にて所領を宛行う旨を伝える。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義宣」の項

慶長7年 1602年 5月12日 
佐竹家の国替えについて、常陸国に在国中の佐竹義重のもとへ徳川家康が使者を遣わす。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 5月14日 
佐竹義宣水戸城(常陸国)を徳川家康に明け渡す。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 5月21日 
徳川家康佐竹義宣の知行をすべて没収するとの噂が流れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 5月-日 
佐竹義宣が水戸(常陸国)から秋田(出羽国)に移封となる。父・義重は六郷(出羽国)に居住する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義重」の項

慶長7年 1602年 7月27日 
徳川家康佐竹義宣に出羽国秋田郡・仙北郡を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

慶長8年 1603年 9月11日 
武田信吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月条

慶長8年 1603年 12月5日 
徳川家康が、子・徳川五郎太郎に甲斐国を、子・徳川長福丸に水戸(常陸国)200000石を、子・松平忠輝に川中島(信濃国)を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長16年 1611年 4月7日 
浅野長政が死去する。
出典:-

寛永10年 1633年 4月21日 
徳川家光が板倉重宗に12000石を給付し、総じて50000石を領す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

正保4年 1647年 7月5日 
幕府が松平信綱に常陸国新治郡、武蔵国埼玉郡内で15000石を給付し、信綱は総じて75000石を領す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項

寛文1年 1661年 7月29日 
徳川頼房が死去する。
出典:-

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