人 物 史

花房職秀 はなぶさ もとひで
生 没 年天文18年(1549)-元和3年(1617)2/11
出 身-幼 名-
別 称助兵衛、職之
法 名道恵
戒 名-
花房職勝-
兄 弟 姉 妹花房職澄、花房職秀、花房勝元
配 偶 者額田三河守の娘
花房職則、榊原職直
官 位若狭守
役 職-
城 郭-
参 考 文 献○『寛政重修諸家譜』巻89「花房職之」の項
関 連 デ ー タ-
花房職秀 年表
天文18年 1549年 -月-日 1歳
花房職秀が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻89「花房職之」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻89「花房職之」の項

弘治1年 1555年 10月23日 7歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 10歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 22歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 25歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 -月-日 25歳
宇喜多直家が沼城(備前国)より岡山城(備前国)に居城を移す。
出典:『備前軍記』4「宇喜多直家岡山の城へ移る事」

天正2年 1574年 4月18日 26歳
鯉山(備前国)にて浦上宗景宇喜多直家が戦う。
出典:同年月22日付宇喜多直家感状写(『吉備温故』)

天正2年 1574年 6月3日 26歳
鳥取高尾山にて浦上宗景宇喜多直家が戦う。
出典:同年月5日付宇喜多直家感状(「河口文書」)

天正2年 1574年 7月8日 26歳
小松城にて浦上宗景宇喜多直家が戦う。
出典:同年月11日付宇喜多直家感状(「沼元文書」)

天正5年 1577年 11月27日 29歳
羽柴秀吉が上月城(播磨国)を攻める。黒田孝高竹中重治が城攻めに加わる。上月城の後詰にやってきた宇喜多直家勢を破る。
出典:『信長公記』巻10(12)但馬播磨羽柴被申付事

天正7年 1579年 2月-日 31歳
毛利輝元吉川元春吉川元長吉川広家小早川隆景率いる毛利勢40000が宇喜多直家領の美作国に向けて出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻第61「毛利三家作州発向付処々城没落之事」

天正7年 1579年 9月4日 31歳
羽柴秀吉が播磨国より安土城(近江国)にいる織田信長のもとに赴き、宇喜多直家の赦免を請う。信長は、秀吉が事前に相談することなしに、直家の赦免を約束したことに怒り、秀吉を播磨国に追い返す。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月12日 31歳
毛利輝元吉川元春吉川元長吉川広家小早川隆景率いる毛利勢が宇喜多家の小寺畑城(美作国)を攻め落とす。
出典:『陰徳太平記』巻第61「毛利三家作州発向付処々城没落之事」

天正7年 1579年 9月16日 31歳
毛利輝元吉川元春吉川元長吉川広家小早川隆景率いる毛利勢が宇喜多家の大寺畑城(美作国)を包囲する。
出典:『陰徳太平記』巻第61「毛利三家作州発向付処々城没落之事」

天正7年 1579年 10月30日 31歳
宇喜多直家織田信長に赦免してもらうため、宇喜多基家を昆陽(摂津国)に在陣中の織田信忠のもとに遣わし、この日、基家が昆陽に到着する。基家は羽柴秀吉の執り成しにより、信忠に礼をする。
出典:『信長公記』巻12(14)「氏政甲州表へ働の事」

天正9年 1581年 2月14日 34歳
宇喜多直家が死去する。
出典:-

天正10年 1582年 1月21日 34歳
父・直家の死去につき、重臣が織田信長のいる安土城(近江国)に赴き、秀家への家督相続を認めてもらう。
出典:『信長公記』巻15(2)「御爆竹の事」

天正13年 1585年 3月21日 37歳
羽柴秀吉根来寺・雑賀衆を攻めるため出陣する。
羽柴勢として宇喜多秀家等が根来寺衆の籠る千石堀城を攻め、悉く討ち果たし放火する。
出典:『宇野主水記』同年月日条、『戸川記』上(近藤瓶城編『改定史籍集覧 第25冊』近藤出版部、1902年)

天正13年 1585年 4月9日 37歳
羽柴秀吉が太田左近の籠る太田城(紀伊国)を水攻めにしている最中、酉刻(17-19時)、宇喜多秀家持ち場の堤防が切れる。
出典:『太田水責記』

天正13年 1585年 4月1月23日日 37歳
羽柴秀吉の命により長宗我部元親を討伐すべく讃岐国に向かう宇喜多秀家の軍勢15000、蜂須賀正勝黒田孝高仙石秀久・尾藤知宣・杉原家次・小西行長の軍勢8000が屋島(讃岐国)に着陣する。
出典:『南海通紀』巻17「備前播磨軍将出陣讃州記」

天正15年 1587年 1月25日 39歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 39歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 39歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 39歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 39歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 39歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 39歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 39歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 39歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 39歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 39歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 39歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 39歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 39歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 39歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 39歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 39歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 39歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 39歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 39歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 39歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 39歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 39歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

文禄1年 1592年 12月8日 44歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 48歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 2月21日 49歳
豊臣秀吉が朝鮮攻めの陣立を定める。
1・2番 加藤清正(軍勢10000)、小西行長(軍勢7000)、宗義智(軍勢1000)、松浦鎮信(軍勢3000)、有馬晴信(軍勢2000)、大村喜前(軍勢1000)、五島純玄(軍勢700)
3番 黒田長政(軍勢5000)、毛利吉成・勝永(軍勢2000)、島津豊久(軍勢800)、高橋元種(軍勢600)、秋月種長(軍勢300)、伊東祐兵(軍勢500)、相良長毎(軍勢800)
4番 鍋島直茂勝茂(軍勢12000)
5番 島津義弘(軍勢10000)
6番 長宗我部元親(軍勢3000)、藤堂高虎(軍勢2800)、池田秀氏(軍勢2800)、加藤嘉明(軍勢2400)、来島通総(軍勢600)、中川秀成(軍勢1500)、菅達長(軍勢200)
7番 蜂須賀家政(軍勢7200)、生駒親正(軍勢2700)、脇坂安治(軍勢1200)
8番 毛利秀元(軍勢30000)、宇喜多秀家(軍勢10000)
釜山かい城在番 小早川秀秋(軍勢10000)
あんこうらいの城在番 立花宗茂(軍勢5000)
加徳城在番 高橋直次(軍勢500)、筑紫広門(軍勢500)
竹島城在番 毛利秀包(軍勢1000)
西生浦城在番 浅野幸長(軍勢3000)
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』271号)

慶長2年 1597年 7月-日 49歳
朝鮮国攻めにつき、諸将の攻め口を定める。船手は熊谷直盛・早川長政を奉行に、毛利秀元九鬼守隆寺沢広高長宗我部元親、池田秀氏、小川祐滋、中川秀成伊東祐兵立花宗茂脇坂安治、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、宍戸元続安国寺恵瓊を宛て、陸路北方は太田一吉を奉行に加藤清正を宛て、陸路中方は竹中重利を奉行に、加藤嘉明蜂須賀家政生駒親正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長高橋元種、相良頼房を宛て、陸路南方は毛利高政を奉行に、宇喜多秀家小西行長藤堂高虎島津義弘を宛てる。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 8月12日 49歳
宇喜多秀家太田一吉藤堂高虎脇坂安治小西行長竹中重利加藤嘉明島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政毛利高政生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長高橋元種、相良頼房、伊東祐兵が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を包囲する。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、宇喜多詮家[宇喜多秀家勢]、戸川達安[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 8月13日 49歳
宇喜多秀家太田一吉藤堂高虎脇坂安治小西行長竹中重利加藤嘉明島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政毛利高政生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長高橋元種、相良頼房、伊東祐兵が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を攻める。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、宇喜多詮家[宇喜多秀家勢]、戸川達安[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 8月14日 49歳
宇喜多秀家太田一吉藤堂高虎脇坂安治小西行長竹中重利加藤嘉明島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政毛利高政生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長高橋元種、相良頼房、伊東祐兵が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を攻める。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、宇喜多詮家[宇喜多秀家勢]、戸川達安[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 8月15日 49歳
宇喜多秀家太田一吉藤堂高虎脇坂安治小西行長竹中重利加藤嘉明島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政毛利高政生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長高橋元種、相良頼房、伊東祐兵が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を攻め、この城を落とす。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、宇喜多詮家[宇喜多秀家勢]、戸川達安[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『相国考記』同年9月16日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)、『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 9月15日 49歳
宇喜多秀家脇坂安治藤堂高虎九鬼嘉隆、来島通総、加藤嘉明、菅達長が明軍が籠る泗門城(朝鮮国)を攻める。
出典:『脇坂家伝記

慶長3年 1598年 8月18日 50歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 1月10日 52歳
宇喜多秀家が家臣を磔刑に処す。
出典:『時慶卿記』同年月日条

慶長5年 1600年 9月15日 52歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長7年 1602年 5月8日 54歳
徳川家康佐竹義宣榊原康政花房職之を上使として遣わし、義宣の常陸国・下野国・陸奥国の全所領を没収し出羽国にて所領を宛行う旨を伝える。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義宣」の項

慶長8年 1603年 2月12日 55歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 8月-日 55歳
薩摩国にて匿われていた宇喜多秀家が、大島(伊豆国)に配流となる。
出典:『当代記』巻3同年月条

慶長10年 1605年 4月16日 57歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

元和1年 1615年 7月13日 67歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和3年 1617年 2月11日 69歳
花房職秀が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第89「花房職之」の項

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