人 物 史

北畠親房 きたばたけ ちかふさ
生 没 年正応6年 (1293)1月-文和3年・正平9年(1354)4/17
出 身-幼 名-
別 称-
法 名宗玄、覚空
戒 名-
北畠師重藤原隆重の娘
兄 弟 姉 妹北畠親房、実助、冷泉持房、北畠通房
配 偶 者-
北畠顕家、北畠顕信、北畠顕能、娘(後村上天皇の妻)、娘(護良親王の妻)、娘(冷泉持定の妻)
官 位大納言、准大臣
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ北畠親房の関連文化財
北畠親房 年表
正応6年 1293年 1月-日 1歳
北畠親房が生まれる。
出典:-

永仁1年 1293年 8月5日 1歳
「正応」より「永仁」に年号が改まる。
出典:-

正安1年 1299年 4月25日 7歳
「永仁」より「正安」に年号が改まる。
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乾元1年 1302年 11月21日 10歳
「正安」より「乾元」に年号が改まる。
出典:-

嘉元1年 1303年 8月5日 11歳
「乾元」より「嘉元」に年号が改まる。
出典:-

徳治1年 1306年 12月14日 14歳
「嘉元」より「徳治」に年号が改まる。
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延慶1年 1308年 10月9日 16歳
「徳治」より「延慶」に年号が改まる。
出典:-

応長1年 1311年 4月28日 19歳
「延慶」より「応長」に年号が改まる。
出典:-

正和1年 1312年 3月20日 20歳
「応長」より「正和」に年号が改まる。
出典:-

文保1年 1317年 2月3日 25歳
「正和」より「文保」に年号が改まる。
出典:-

文保2年 1318年 3月2日 26歳
子・顕家が生まれる。
出典:-

元応1年 1319年 4月28日 27歳
「文保」より「元応」に年号が改まる。
出典:-

元亨1年 1321年 2月23日 29歳
「元応」より「元亨」に年号が改まる。
出典:-

元亨4年 1324年 9月-日 32歳
後醍醐天皇の密勅を受け、土岐頼員、多治見国長がの幕府への謀反を企てるが六波羅探題・北条範貞に露見する。範貞は両名の居所に軍勢を遣わし、頼員・国長を討ち取る。
出典:『桜雲記』巻之上

正中1年 1324年 12月9日 32歳
「元亨」より「正中」に年号が改まる。
出典:-

嘉暦1年 1326年 4月26日 32歳
「正中」より「嘉暦」に年号が改まる。
出典:-

正中2年 1325年 5月-日 33歳
日野資朝・日野俊基が幕府倒幕を企てたとして幕府に捕縛され、鎌倉へ送還される。
出典:『桜雲記』巻之上

正中2年 1325年 7月-日 33歳
御醍醐天皇が万里小路宣房を鎌倉に遣わし、北条高時に詫びを入れる。これにより、日野資朝は佐渡国に流罪に、日野俊基は帰京が許される。
出典:『桜雲記』巻之上

嘉暦3年 1328年 -月-日 36歳
後村上天皇が生まれる。
出典:-

元徳1年 1329年 8月29日 37歳
「嘉暦」より「元徳」に年号が改まる。
出典:-

元徳2年 1330年 5月-日 38歳
御醍醐天皇の勅により幕府調伏の祈祷をしたとして、幕府が円観、文観、忠円を捕らえ鎌倉に送還する。
出典:『桜雲記』巻之上

元徳3年 1331年 4月24日 39歳
後醍醐天皇が笠置城(山城国)に行幸する。
出典:『関城書裏書』

元弘1年 1331年 8月9日 39歳
「元徳」より「元弘」に年号が改まる。
出典:-

元弘1年 1331年 9月27日 39歳
幕府を倒幕するため挙兵した後醍醐天皇の籠る笠置城(山城国)を攻めるため幕府軍が発向する。
出典:『関城書裏書』

元弘2年 1332年 3月7日 40歳
後醍醐天皇が配所・隠岐国に赴くべく、京都を出立する。千葉五郎左衛門・佐々木備中判官が道中を警固する。
出典:『関城書裏書』

正慶1年 1332年 4月28日 40歳
「元弘」より「正慶」に年号が改まる。
出典:『桜雲記』巻之上

正慶1年 1332年 8月-日 40歳
赤松円心が苔縄城(播磨国)にて後醍醐天皇に味方するとして挙兵する。
出典:『桜雲記』巻之上

正慶2年 1333年 閏2月26日 41歳
後醍醐天皇が片見(伯耆国)に移る。後醍醐天皇に供奉していた成田が名和長高の館に赴き、長高に後醍醐天皇に味方するようつたえる詔勅を渡す。長高は詔勅に応じ、後醍醐天皇を船上山まで警固し、船上山にて挙兵する。
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上

正慶2年 1333年 4月27日 41歳
足利高氏が篠村(丹波国)にて幕府方から後醍醐天皇方に寝返る。
出典:『梅松論』、『関城書裏書』

正慶2年 1333年 5月22日 41歳
新田義貞が幕府の拠点である鎌倉(相模国)を制圧する。北条高時北条基時が自害する。
出典:『関城書裏書』

正慶2年 1333年 5月-日 41歳
護良親王が征夷大将軍となる。
出典:『桜雲記』巻之上

元弘3年 1333年 6月7日 41歳
後醍醐天皇が大内裏に還幸する。元号を正慶から元弘に戻す。
出典:『関城書裏書』

元弘3年 1333年 10月-日 41歳
陸奥国司に任じられた北畠顕家が、義良親王とともに陸奥国に下向する。
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上

建武1年 1334年 11月5日 42歳
後醍醐天皇護良親王を謀叛の罪で捕え鎌倉(相模国)に配流する。
出典:『関城書裏書』

建武2年 1335年 7月23日 43歳
護良親王が鎌倉(相模国)の牢獄にて淵辺義博に討たれる。
出典:『桜雲記』巻之上

建武2年 1335年 7月-日 43歳
信濃国で蜂起した北条時行が鎌倉(相模国)に攻め込む。成良親王足利直義は応戦するも支えきれず鎌倉を退く。成良親王は大江時古に抱えらえ帰洛する。
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上

建武2年 1335年 8月19日 43歳
足利尊氏が鎌倉(相模国)に到着する。辻堂・片瀬原の合戦で足利尊氏と北条時行が戦い、尊氏が勝利する。
出典:足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 12月13日 43歳
箱根・竹ノ下の合戦で足利尊氏と尊良親王・新田義貞が戦い、尊氏が勝利する。
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上

建武3年 1336年 1月12日 44歳
北畠顕家が愛知川(近江国)に入り、観音寺城(近江国)を攻め落とす。
出典:『太平記』巻15「奥州勢著坂本事」

建武3年 1336年 1月-日 44歳
北畠顕家日吉社聖真子にて新田義貞らと合流する。
出典:『太平記』巻15「奥州勢著坂本事」

建武3年 1336年 1月30日 44歳
後醍醐天皇が京都に還幸する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

建武3年 1336年 2月13日 44歳
桜山にて足利尊氏足利直義兄弟と新田義貞北畠顕家楠木正成が戦い、新田勢が勝利する。尊氏・直義は九州に逃れる。
出典:『桜雲記』巻之上

延元1年 1336年 2月29日 44歳
「建武」より「延元」に年号を改める。
出典:『桜雲記』巻之上、『大乗院日記目録』同年月条

延元1年 1336年 5月25日 44歳
湊川(摂津国)にて足利尊氏新田義貞が戦い、尊氏が勝利する。楠木正成が戦死する。
出典:-

延元1年 1336年 5月27日 44歳
後醍醐天皇延暦寺に行幸する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

延元1年 1336年 6月-日 44歳
足利尊氏延暦寺に籠る後醍醐天皇を攻める。
出典:『桜雲記』巻之上

延元1年 1336年 10月10日 44歳
後醍醐天皇延暦寺より京都に還幸する。帝位を恒良親王に譲位する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

延元1年 1336年 12月20日 44歳
後醍醐天皇が京都を潜に抜け出し吉野(大和国)に行幸する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

延元2年 1337年 1月8日 45歳
義良親王北畠顕家が国府を陸奥国伊達郡の霊山(陸奥国)に移す。
出典:『桜雲記』巻之中

建武4年 1337年 3月-日 45歳
北朝勢が新田義貞の籠る金ヶ崎城(越前国)を攻め、同城を落とす。新田義顕、尊良親王が自害する。
出典:『桜雲記』巻之中

延元2年 1337年 9月14日 45歳
義良親王北畠顕家結城宗広が陸奥の軍勢を率い上洛すべく、陸奥国を発つ。
出典:『桜雲記』巻之中

延元2年 1337年 12月13日 45歳
利根川(上野国)にて北畠顕家と北朝勢が戦い、顕家が勝利する。
出典:『桜雲記』巻之中

延元2年 1337年 12月16日 45歳
安保原(武蔵国)にて北畠顕家と北朝勢が戦い、顕家が勝利する。
出典:『桜雲記』巻之中

延元2年 1337年 12月24日 45歳
北畠顕家新田義興、北条時行が足利義詮の拠る鎌倉(相模国)を攻め、攻め落とす。義詮は京都に敗走する。
出典:『桜雲記』巻之中

延元3年 1338年 1月-日 46歳
青野原(美濃国)にて北畠顕家と土岐頼遠・上杉憲顕・今川範国・吉良満義・高師兼が戦い、顕家が勝利する。
出典:『桜雲記』巻之中

建武5年 1338年 2月6日 46歳
黒地川にて高師泰・細川頼春と北畠顕家が戦う。
出典:『桜雲記』巻之中

建武5年 1338年 2月14日 46歳
雲津川・墨俣川口にて高師泰・細川頼春と北畠顕家が戦い、顕家が勝利する。
出典:『桜雲記』巻之中

建武5年 1338年 2月28日 46歳
南都にて北畠顕家と北朝勢が戦い、北朝勢が勝利する。義良親王は吉野へ、顕家は河内国に逃れる。
出典:『桜雲記』巻之中

建武5年 1338年 3月8日 46歳
八幡および古市川原にて北朝勢と南朝勢が戦い、北朝勢が勝利する。
出典:『桜雲記』巻之中

延元3年 1338年 5月22日 46歳
石津の合戦で北畠顕家が高師直と戦い、師直が勝利する。顕家は阿倍野にて戦死する。
出典:『桜雲記』巻之中

延元3年 1338年 6月-日 46歳
高師直が南朝勢の籠る八幡(山城国)を攻め、南朝勢を追い払う。
出典:『桜雲記』巻之中

延元3年 1338年 閏7月2日 46歳
藤島(越前国)にて新田義貞斯波高経の軍勢に遭遇し戦死する。
出典:『桜雲記』巻之中

延元3年 1338年 閏7月25日 46歳
義良親王、宗良親王、北畠親房・顕信父子、結城宗広が東国に下るべく伊勢国に赴く。
出典:『桜雲記』巻之中

暦応2年・延元4年 1339年 8月15日 47歳
後醍醐天皇義良親王に譲位する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

暦応2年・延元4年 1339年 8月16日 47歳
後醍醐天皇が崩御する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

暦応2年・延元4年 1339年 10月15日 47歳
後村上天皇が即位する。
出典:『大乗院日記目録』

暦応3年・興国1年 1340年 2月-日 48歳
北畠親房が小田城(常陸国)にて職原抄を執筆する。
出典:『桜雲記』巻之中

暦応4年・興国2年 1341年 8月26日 49歳
高師秋が南朝勢の籠る田丸城(伊勢国)を攻め、同城を落とす。
出典:『桜雲記』巻之中

貞和5年・正平4年 1349年 8月24日 57歳
足利直義が高師直により出家・隠居させられる。直義は恵源と名乗る。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

観応1年 1350年 12月9日 58歳
足利直義が南朝に降伏する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

観応2年・正平6年 1351年 1月7日 59歳
足利直義が八幡(山城国)に出陣する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

観応2年・正平6年 1351年 7月30日 59歳
足利直義が京を抜け北陸に落ちる。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

観応2年・正平6年 1351年 10月8日 59歳
足利直義が鎌倉(相模国)に着く。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

観応2年・正平6年 1351年 12月15日 59歳
薩唾山の合戦で足利尊氏足利直義が戦い尊氏が勝利する。直義は尊氏に降伏する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

観応3年・正平7年 1352年 2月26日 60歳
足利直義が死去する。毒殺が噂される。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

観応3年・正平7年 1352年 閏2月20日 60歳
四条大宮(山城国)にて細川頼春と楠木正儀・和田正武・千種顕経・北畠顕能が戦い、頼春が戦死する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川頼春」の項

文和3年・正平9年 1354年 4月17日 62歳
北畠親房が死去する。
出典:-

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