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石高から軍役算出
軍役から石高算出
人 物 史
天野元明
あまの もとあき
生 没 年
天文8年(1539)-?
出 身
-
幼 名
-
別 称
-
法 名
-
戒 名
-
父
天野隆重
母
-
兄 弟 姉 妹
天野元明
、天野武弘、天野元祐、天野元友、天野元嘉、天野元信
配 偶 者
熊谷信直の娘
子
-
官 位
中務少輔
役 職
-
城 郭
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
天野元明 年表
天文8年 1539年 -月-日 1歳
天野元明
が生まれる。
*『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」に厳島合戦時に「当年十七歳」とみえることから生年を逆算した。
出典:『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」
天文24年 1555年 9月3日 17歳
陶晴賢
が安芸国を攻めるべく、軍勢27000を率い山口(周防国)を発つ。
出典:『陰徳太平記』巻25「陶入道厳島渡海之評定之事」
天文24年 1555年 9月7日 17歳
陶晴賢
率いる大内勢が岩国(周防国)の永興寺(周防国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻25「陶入道厳島渡海之評定之事」
天文24年 1555年 9月26日 17歳
乃美宗勝が
村上通康
の来島海賊衆500艘を伴い厳島(安芸国)に上陸する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)
天文24年 1555年 9月28日 17歳
陶晴賢
勢が攻撃中の宮尾城(安芸国)に
熊谷信直
・高直・直清・広真・三須隆経が入る。
出典:『陰徳太平記』巻26「能島久留島与力元就付弘中隆包軍議事」
天文24年 1555年 9月30日 17歳
毛利元就
が廿日市(安芸国)より軍勢を率いて出航し、厳島(安芸国)に上陸する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」
天文24年 1555年 10月1日 17歳
厳島(安芸国)に滞在中の
陶晴賢
を
毛利元就
が急襲し、晴賢は自害する。この戦いに元就方の
天野隆重
勢として参加し、晴賢家臣の手島清左衛門を討ち取る。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年)、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」、同巻28「陶全羨最後之事」
弘治1年 1555年 10月23日 17歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-
弘治4年 1558年 2月28日 20歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-
永禄6年 1563年 8月4日 25歳
毛利隆元
が佐々部(安芸国)にて死去する。
出典:『桂岌円覚書』
永禄9年 1566年 11月21日 28歳
尼子義久
が
毛利元就
に降伏する。
出典:-
永禄9年 1566年 11月28日 28歳
尼子義久
が
月山富田城
(出雲国)より退城する。
出典:-
永禄11年 1568年 11月5日 30歳
吉川元春
、
小早川隆景
が長野兵部太輔の籠る三ツ嶽城(豊前国)を攻め、同城を落とす。隆景配下として城攻めに参加する。
出典:『陰徳記』巻42「豊前国三ツ嶽没落之事」
永禄12年 1569年 6月23日 31歳
尼子勝久
が忠山(出雲国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻43「尼子勝久入雲州付松永霜台事」
永禄12年 1569年 9月11日 31歳
大内輝弘
が軍勢を率い秋穂(周防国)に入る。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」
永禄12年 1569年 9月13日 31歳
大内輝弘
が軍勢を率い山口(周防国)に入る。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」
永禄12年 1569年 9月14日 31歳
山口(周防国)に陣取る
大内輝弘
のもとに諸勢が集まる。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」
永禄12年 1569年 10月15日 31歳
吉川元春
、
小早川隆景
、宍戸隆家、
福原貞俊
、
桂元澄
、志道広好、
吉見正頼
、三沢為清、三刀屋久扶、
益田藤兼
、
杉原盛重
、
熊谷信直
等からなる毛利勢が、
立花山城
(筑前国)からの撤退を開始する。
出典:『陰徳太平記』巻45「元春隆景立花退陣之事」
永禄12年 1569年 10月24日 31歳
山口(周防国)に在陣中の
大内輝弘
に向けて
毛利元就
が
吉川元春
・
熊谷信直
率いる軍勢10000を長府(長門国)より差し向ける。
出典:『陰徳太平記』巻45「輝弘山口落付最後並防州徳地一揆退治之事」
永禄12年 1569年 10月25日 31歳
茶臼山にて
大内輝弘
が自害する。
出典:『陰徳太平記』巻45「輝弘山口落付最後並防州徳地一揆退治之事」
永禄13年 1570年 1月16日 32歳
毛利元就
が
尼子勝久
を攻めるべく、
吉田郡山城
(安芸国)より
毛利輝元
、
吉川元春
、
吉川元長
、
小早川隆景
を出陣させる。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」
永禄13年 1570年 2月8日 32歳
毛利輝元
、
小早川隆景
が津賀(石見国)に陣取る。先陣の
吉川元春
、
吉川元長
、
吉川経言
が赤穴(出雲国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」
永禄13年 1570年 2月9日 32歳
吉川元春
・
元長
・
経言
父子が福山次郎左衛門・遠藤甚九郎・川副右京亮率いる尼子勝久勢の籠る多久和城を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」
永禄13年 1570年 2月14日 32歳
布部山(出雲国)にて
毛利輝元
・
吉川元春
・
小早川隆景
率いる毛利勢と
山中幸盛
・立原久綱率いる尼子勢が戦い、毛利勢が勝利する。毛利勢は細迫左京亮、児玉弥七郎、粟屋元光、田門右衛門尉が、尼子勢は真木与一、隠岐清実、寺本四郎三郎、東藤八、金尾半四郎、飛石孫太夫、横道正光が戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」
永禄13年 1570年 2月24日 32歳
末次城(出雲国)に籠る
尼子勝久
を攻めるべく、
吉川元春
・
元長
・
経言
が同城の向かいの山に陣取る。。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」
元亀1年 1570年 4月23日 32歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-
元亀1年 1570年 10月3日 32歳
尼子勝久
が末次城(出雲国)を攻める。
勝久の末次城攻撃を
月山富田城
(出雲国)で聞いた
吉川元春
が末次城救援のため月山富田城を発つ。途中、
杉原盛重
、南条元清、三刀屋久扶、三沢為清、
益田藤兼
、山田重直が元春に合流し、末次城近くに陣取る。元春は元清・重直を新山攻めを命じる。勝久・幸盛・久綱は元春が後詰にやってきたことを受け、新山に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻47「勝久攻末次付後詰並米原降参之事」
元亀1年 1570年 10月10日 32歳
吉川元春
が
尼子勝久
、
山中幸盛
、立原久綱等が籠る新山城(出雲国)より撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻47「勝久攻末次付後詰並米原降参之事」
元亀2年 1571年 6月14日 33歳
毛利元就
が死去する。
出典:『陰徳太平記』巻48「毛利元就朝臣逝去並鹿助披擒事」
元亀2年 1571年 -月-日 33歳
末吉城に籠っていた
山中幸盛
が宍戸隆家・口羽通良を介し
吉川元春
に降伏を申し出る。元春は幸盛の処刑を主張するが、隆家・通良が助命を主張し、結果、幸盛を毛利家で召し抱えることになる。
出典:『陰徳太平記』巻48「毛利元就朝臣逝去並鹿助披擒事」
元亀2年 1571年 8月25日 33歳
吉川元春
、宍戸隆家、口羽通良、
杉原盛重
、南条元清、三沢為清、三刀屋久扶等の軍勢7000が、
尼子勝久
の籠る新山城(出雲国)を攻める。勝久は城より脱出し、隠岐国に逃れる。
出典:『陰徳太平記』巻48「山中鹿助出奔付尼子勝久逃走於隠州之事」
天正1年 1573年 7月28日 35歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-
天正12年 1584年 3月7日 46歳
父・
隆重
が死去する。
出典:-
文禄1年 1592年 12月8日 54歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-
慶長1年 1596年 10月27日 58歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-
- -年 -月-日
天野元明
が死去する。
出典:-
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