人 物 史

天野隆重 あまの たかしげ
生 没 年文亀3年(1503)-天正12年(1584)3/7
出 身-幼 名-
別 称-
法 名-
戒 名-
天野元貞-
兄 弟 姉 妹天野隆重、天野隆良、女(桂元澄の妻)
配 偶 者井原元師の娘、福原広俊の娘
天野元明、天野武弘、天野元祐、天野元友、天野元嘉、天野元信
官 位中務少輔、紀伊守
役 職-
城 郭月山富田城(出雲国)
参 考 文 献天野隆重に関する参考文献
関 連 デ ー タ-
天野隆重 年表
文亀3年 1503年 -月-日 1歳
天野隆重が生まれる。
出典:-

永正1年 1504年 2月30日 2歳
「文亀」より「永正」に年号が改まる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

大永1年 1521年 8月23日 19歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-

享禄1年 1528年 8月20日 26歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

享禄1年 1528年 12月20日 26歳
大内義興が死去する。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 30歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文3年 1534年 3月-日 32歳
毛利元就熊谷信直天野隆重香川光景・元忠兄弟が宮下野入道の籠る宮城(備後国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻9「備後国宮城合戦ノ事」

天文4年 1535年 3月-日 33歳
毛利元就熊谷信直天野隆重、阿曽沼広秀、山田重任、飯田義武、香川光景・元忠兄弟、遠藤、山県が高野山城(備後国)を攻める。毛利家家臣の福原上総介、桂元澄、桂上総守、児玉就忠、児玉就方、志道広良、井上、粟屋、赤川、渡辺が城攻めに参加する。
出典:『陰徳太平記』巻9「備後国高野山降参付桂元澄弓精之事」

天文8年 1539年 -月-日 37歳
子・元明が生まれる。
*『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」に厳島合戦時に「当年十七歳」とみえることから生年を逆算した。
出典:『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」

天文19年 1550年 9月27日 48歳
毛利元就吉川興経のもとに熊谷信直天野隆重を遣わし、興経・千法師父子を殺害する。
出典:-

天文24年 1555年 9月3日 53歳
陶晴賢が安芸国を攻めるべく、軍勢27000を率い山口(周防国)を発つ。
出典:『陰徳太平記』巻25「陶入道厳島渡海之評定之事」

天文24年 1555年 9月7日 53歳
陶晴賢率いる大内勢が岩国(周防国)の永興寺(周防国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻25「陶入道厳島渡海之評定之事」

天文24年 1555年 9月26日 53歳
乃美宗勝が村上通康の来島海賊衆500艘を伴い厳島(安芸国)に上陸する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文24年 1555年 9月28日 53歳
陶晴賢勢が攻撃中の宮尾城(安芸国)に熊谷信直・高直・直清・広真・三須隆経が入る。
出典:『陰徳太平記』巻26「能島久留島与力元就付弘中隆包軍議事」

天文24年 1555年 9月30日 53歳
毛利元就が廿日市(安芸国)より軍勢を率いて出航し、厳島(安芸国)に上陸する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」

天文24年 1555年 10月1日 53歳
厳島(安芸国)に滞在中の陶晴賢毛利元就が急襲し、晴賢は自害する。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年)、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」、同巻28「陶全羨最後之事」

弘治1年 1555年 10月23日 53歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 56歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 4月晦日日 56歳
吉川元春益田藤兼、佐波秀連、杉原盛重福屋隆兼小笠原長雄の所領・温湯(石見国)の在所を放火する。その火が、長雄館にも引火する。元春は長雄勢を攻め、長雄は温湯城(石見国)に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 5月20日 56歳
毛利元就毛利隆元小早川隆景率いる毛利勢7000が小笠原長雄の籠る温湯城(石見国)を攻めるべく出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 5月24日 56歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景益田藤兼、佐波秀連、杉原盛重福屋隆兼、宍戸隆家、熊谷信直天野隆重、出羽元祐率いる毛利勢12000が小笠原長雄の籠る温湯城(石見国)を包囲する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 5月29日 56歳
小笠原長雄の籠る温湯城(石見国)を攻めるにあたり、毛利隆元が笠取山に、吉川元春が温湯城・赤城間に、小早川隆景が小栖山に陣取る。
温湯城(石見国)-赤城間に陣取る吉川元春が、赤城の小笠原勢を攻めると思いこんだ小笠原長雄が、加勢として旗谷に勢を出す。元春は応戦し、小笠原勢を破る。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 6月1日 56歳
吉川元春が、赤城に陣取る小笠原勢を攻める。小笠原勢は温湯城(石見国)に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄6年 1563年 7月-日 61歳
毛利元就尼子義久を志路村(安芸国)に置く。月山富田城(出雲国)に天野隆重を置き、南条城(伯耆国)に杉原盛重を置く。
出典:『毛利元就記』

永禄6年 1563年 8月4日 61歳
毛利隆元が佐々部(安芸国)にて死去する。
出典:『桂岌円覚書』

永禄9年 1566年 11月21日 64歳
尼子義久毛利元就に降伏する。
出典:-

永禄9年 1566年 11月28日 64歳
尼子義久月山富田城(出雲国)より退城する。
出典:-

永禄12年 1569年 6月23日 67歳
尼子勝久が忠山(出雲国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻43「尼子勝久入雲州付松永霜台事」

永禄12年 1569年 8月3日 67歳
藤井道晧、大江田隼人佑が所原肥後守の守る杉原盛重の居城・神辺城(備後国)を攻め、同城を落とす。盛重の子・景盛は城より脱出する。
出典:『陰徳太平記』巻44「備後国神辺城合戦並防州関所城合戦之事」

永禄12年 1569年 9月11日 67歳
大内輝弘が軍勢を率い秋穂(周防国)に入る。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 9月13日 67歳
大内輝弘が軍勢を率い山口(周防国)に入る。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 9月14日 67歳
山口(周防国)に陣取る大内輝弘のもとに諸勢が集まる。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 10月15日 67歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、福原貞俊桂元澄、志道広好、吉見正頼、三沢為清、三刀屋久扶、益田藤兼杉原盛重熊谷信直等からなる毛利勢が、立花山城(筑前国)からの撤退を開始する。
出典:『陰徳太平記』巻45「元春隆景立花退陣之事」

永禄12年 1569年 10月24日 67歳
山口(周防国)に在陣中の大内輝弘に向けて毛利元就吉川元春熊谷信直率いる軍勢10000を長府(長門国)より差し向ける。
出典:『陰徳太平記』巻45「輝弘山口落付最後並防州徳地一揆退治之事」

永禄12年 1569年 10月25日 67歳
茶臼山にて大内輝弘が自害する。
出典:『陰徳太平記』巻45「輝弘山口落付最後並防州徳地一揆退治之事」

永禄13年 1570年 1月16日 68歳
毛利元就尼子勝久を攻めるべく、吉田郡山城(安芸国)より毛利輝元吉川元春吉川元長小早川隆景を出陣させる。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

永禄13年 1570年 2月8日 68歳
毛利輝元小早川隆景が津賀(石見国)に陣取る。先陣の吉川元春吉川元長吉川経言が赤穴(出雲国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

永禄13年 1570年 2月9日 68歳
吉川元春元長経言父子が福山次郎左衛門・遠藤甚九郎・川副右京亮率いる尼子勝久勢の籠る多久和城を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

永禄13年 1570年 2月14日 68歳
布部山(出雲国)にて毛利輝元吉川元春小早川隆景率いる毛利勢と山中幸盛・立原久綱率いる尼子勢が戦い、毛利勢が勝利する。毛利勢は細迫左京亮、児玉弥七郎、粟屋元光、田門右衛門尉が、尼子勢は真木与一、隠岐清実、寺本四郎三郎、東藤八、金尾半四郎、飛石孫太夫、横道正光が戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

永禄13年 1570年 2月24日 68歳
末次城(出雲国)に籠る尼子勝久を攻めるべく、吉川元春元長経言が同城の向かいの山に陣取る。。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

元亀1年 1570年 4月23日 68歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 10月3日 68歳
尼子勝久が末次城(出雲国)を攻める。
勝久の末次城攻撃を月山富田城(出雲国)で聞いた吉川元春が末次城救援のため月山富田城を発つ。途中、杉原盛重、南条元清、三刀屋久扶、三沢為清、益田藤兼、山田重直が元春に合流し、末次城近くに陣取る。元春は元清・重直を新山攻めを命じる。勝久・幸盛・久綱は元春が後詰にやってきたことを受け、新山に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻47「勝久攻末次付後詰並米原降参之事」

元亀1年 1570年 10月10日 68歳
吉川元春尼子勝久山中幸盛、立原久綱等が籠る新山城(出雲国)より撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻47「勝久攻末次付後詰並米原降参之事」

元亀2年 1571年 6月14日 69歳
毛利元就が死去する。
出典:『陰徳太平記』巻48「毛利元就朝臣逝去並鹿助披擒事」

元亀2年 1571年 -月-日 69歳
末吉城に籠っていた山中幸盛が宍戸隆家・口羽通良を介し吉川元春に降伏を申し出る。元春は幸盛の処刑を主張するが、隆家・通良が助命を主張し、結果、幸盛を毛利家で召し抱えることになる。
出典:『陰徳太平記』巻48「毛利元就朝臣逝去並鹿助披擒事」

元亀2年 1571年 8月25日 69歳
吉川元春、宍戸隆家、口羽通良、杉原盛重、南条元清、三沢為清、三刀屋久扶等の軍勢7000が、尼子勝久の籠る新山城(出雲国)を攻める。勝久は城より脱出し、隠岐国に逃れる。
出典:『陰徳太平記』巻48「山中鹿助出奔付尼子勝久逃走於隠州之事」

天正1年 1573年 7月28日 71歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正10年 1582年 6月4日 80歳
高松城(備中国)に籠城していた清水宗治、清水宗知、難波宗忠、末近信賀が、毛利・羽柴両軍が見守る中で切腹する。
出典:-

天正12年 1584年 3月7日 82歳
天野隆重が死去する。
出典:-

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