歴史の目的をめぐって

   地 名 の 歴 史

堺(和泉国) さかい
初 見-
摂津国和泉国
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荘 園堺荘
中 世 高-
近 世 領 主-
近 世 石 高-
鎮 守開口神社
神 社開口神社
寺 院顕本寺、堺御坊(真宗)、経王寺
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
堺(和泉国) 年表
和暦 西暦 事項 出典
延元3年1338522石津の合戦で北畠顕家が高師直と戦い、師直が勝利する。顕家は阿倍野にて戦死する。『桜雲記』巻之中
応永6年14001013大内義弘が堺に到着する。『堺記』
応永6年14001027大内義弘の幕府への謀叛が噂される。『東院毎日雑々記』同年月日条
応永6年14001129堺城にて大内義弘と幕府軍が戦う。応永6年12月日得田章長軍忠状(「得田文書」『加能史料』室町Ⅰp80)
応永6年14001221にて大内義弘と幕府軍が戦い、義弘が戦死する。『五壇法記』・『東院毎日雑々記』同年月日条
永正15年15188-大内義興が周防国に帰るべくを発つ。『厳助大僧正記』同年月条
永正18年152137夜、足利義稙が京都を密かに抜け出し、南荘に赴く。『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」
大永1年15211023足利義稙淡路国よりに移る。『実隆公記』同年月日条
大永6年15261213細川晴元勢の先陣として、細川典厩、細川和泉守、三好勝時、三好勝長、三好政長に着岸する。『陰徳太平記』巻6「城州桂川合戦之事」
大永7年152729三好勝長、三好政長柳本賢治と合流するべくを発つ。『陰徳太平記』巻6「城州桂川合戦之事」
大永7年1527322足利義維細川晴元が阿波国よりに入る。『細川両家記』同年月日条、『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」
享禄4年1531221細川晴元の要請により三好元長に到着する。『細川両家記』
享禄4年1531310細川道永にいる足利義澄・細川晴元を攻めるべく淀川を越え、中島(摂津国)に陣取る。先陣を住吉のこまつに陣取らせるが、より出撃した晴元勢に敗れる。諸勢は天王寺、今宮、木津、難波に、道永は中島の内の浦井に、浦上村宗は野田・福島(摂津国)に陣取る。『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「天王寺合戦付細川常桓自害ノ事」
享禄4年1531325細川政之が兵8000を率いに到着する。『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「天王寺合戦付細川常桓自害ノ事」
享禄5年1532123三好元長にて死亡したと京都で噂される。『二水記』同年月日条
享禄5年1532620細川晴元本願寺証如に要請して馳せ集まった摂津・河内・和泉の一向一揆100000に、三好元長の居所であるの顕本寺が攻められる。追い詰められた元長は、三好一秀、塩田若狭守、加地丹波守等とともに自害する。『厳助大僧正記』同年月日条、『言継卿記』同年月22日条
天文1年153282にいた細川晴元が一向一揆勢に包囲されるが、合戦にて勝利する。『二水記』同年月3日条
天文1年153284細川晴元本願寺証如が敵対関係となる。(『私』)
木沢長政の衆が一向一揆勢と喧嘩し殺害される。長政はその報復として、の東にあるあさかの道場の近郷を放火する。
『私心記』同年月日条、『祇園執行日記』同年月日条、『細川両家記』
天文1年153285一向一揆勢が細川晴元の居る北荘に攻め入るが、木沢長政の救援もあって細川勢が一向一揆勢を退ける。
池田城(摂津国)に摂津国の一向一揆勢が攻めかかるが和睦により一揆勢は開陣する。
『経厚法印日記』同年月日条、『細川両家記』、『足利季世記』巻四 山科本願寺責落事
天文1年153288に居る細川晴元大坂本願寺に軍勢を遣わすも一向一揆勢が細川勢を退ける。『経厚法印日記』同年月日条
天文1年1532121414日から15日にかけてにて火災があり、『兼右卿記』によれば1000間程が、『厳助往年記』によれば4000間が焼失する。『兼右卿記』同年月19日条(『ビブリア』150号)、『厳助往年記』同年月日条
天文1年1532122514-15日にで発生した火災が、堺北荘1町残す程、堺南荘は1/3が焼失する程の被害であったことを猪熊が吉田兼右に伝える。『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』150号)
天文2年1533210一向一揆がにいる細川晴元を攻め、堺を落とす。晴元は淡路国に逃亡する。『足利季世記』巻四 所々一揆起ル事、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」
天文2年1533429に籠っていた一向一揆が細川晴元の攻撃を受け大坂本願寺に撤退する。『足利季世記』巻四 伊丹城合戦附晴元帰ル事、『細川両家記』
天文5年1536117木沢長政が、夕方、に入る。『天文日記』同年月日条
天文6年1537915三好長慶へ入る。『天文日記』同年9月18日条
天文7年1538121本願寺証如が唐船見物のため隠密にに赴き、慈光寺道場に着船した唐船を見物する。船中にて客衆より折樽を贈られる。夜、慈光寺にて逮夜を勤める。『天文日記』同年月日条
天文7年1538--細川氏綱が、にて細川晴元打倒の兵をあげる。-
天文8年153913客衆より唐船の着津につき本願寺証如のもとに挨拶に訪れる。その際、客衆が唐船5駄荷所と船乗1名を証如に進上することを述べる。『天文日記』同年月3・4日条
天文9年1540426本願寺証如が富小路にに着津させている唐船を見せる。『天文日記』同年月日条
天文10年1541107にて堺御坊の作事が始まる。柱立が行われる。『天文日記』同年月日条
天文10年1541102911月26日に堺御坊の内儀の座敷が完成したことをうけ、本願寺証如が同坊を見物に訪れる。『天文日記』同年月日条
天文10年1541112本願寺証如が堺より大坂本願寺に帰寺する。『天文日記』同年月日条
天文11年154235熊野より智勢が興福寺多聞院を訪れる。『多聞院日記』同年月日条
天文11年154236智勢が興福寺多聞院より南荘材木町にある熊野の穀屋に帰る。『多聞院日記』同年月日条
天文11年154238三好政長に渡海する。(天文10年)3月10日付三好政長書状(「酒井氏書状文書」『戦国遺文』三好氏篇第1巻-165号)
天文11年1542418御坊の見物のため堺に赴く。『天文日記』同年月日条
天文11年1542427堺御坊の見物のためにを訪れていた本願寺証如大坂本願寺に帰る。『天文日記』同年月日条
天文12年1543724三好長慶が革島一宣に27日に松浦守を攻めるため、26日にに入ることを伝える。(天文12年)7月24日付三好長慶書状(「革島家文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-179号)
天文12年154372928日夜より29日の日中までの火災によりの大半が焼失する。『多聞院日記』同年月日条
天文13年15441-にて細川晴元細川氏綱が戦い、晴元が勝利する。『厳助往年記』同年月日条
天文16年1547724三好之虎安宅冬康、畠山上総介がに入り河内国攻めの評定を開く。『足利季世記』巻4「舎利寺合戦ノ事附晴元定頼免許ノ事」
天文17年1548424細川晴元と畠山政国が和睦する。晴元勢(三好長慶三好之虎安宅冬康等)が、若林(河内国)の陣所を払いへ移る。『足利季世記』巻4「細川玄蕃頭討死ノ事」
天文18年1549218三好長慶に入る。『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」
天文18年154959細川晴元の合力として岸和田兵衛大夫と木沢左京亮が河内国に攻め込むべく北荘に陣取るが、畠山・遊佐長教三好長慶の軍勢に攻め込まれ敗走する。『足利季世記』巻4「幡雲立事」
天文21年155288安宅冬康に上陸したと噂される。『天文日記』同年月日条
天文22年15531113長尾景虎に到着する。本願寺証如に音信として太刀・馬を遣わす。ただし実物は越後国より送るため目録のみで、実際には鳥目1000疋と樽代を送る。この音信は、三好長慶よりの助言による。『天文日記』同年月日条
天文23年1554128松永久秀今井宗久の武野紹鴎の茶室 大黒庵にて行われた紹鴎の茶会に参会する。『今井宗久茶湯書抜』同年月日条
天文23年1554519本願寺証如に到着した安宅冬康に音信として5種5荷を、菅若狭に3種3荷を贈る。『天文日記』同年月日条
弘治2年1556623安井宗運が 柳町(堺の北端)の東面、経王寺の前に宿泊する。(弘治2年)6月23日付安井宗運書状(『戦国遺文三好氏編』第1巻-参考40「東寺百合文書」)
永禄1年1558918にて三好長慶三好之虎安宅冬康十河一存の4兄弟が集まる。『足利季世記』巻5「公方勝軍地蔵エ出張之事」
永禄1年15581222三好之虎安宅冬康から尼崎(摂津国)に入る。『足利季世記』巻5「高政高屋城ヲ出ル事」
永禄2年1559523三好長慶が摂津国衆を率いを発し根来寺に向かう。『足利季世記』巻5「細川氏綱淀城入事」
永禄3年156035三好長慶に在陣する。『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」
永禄3年15601024飯盛山城(河内国)の安見宗房が城を三好長慶に明け渡しに逃れる。
高屋城(河内国)の畠山高政遊佐信教が城を長慶に明け渡しに逃れる。
『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」
永禄4年1561729開口神社で祭礼が行われる。1561年8月17日付ガスパル・ビレラ書簡(『異国叢書』1)
永禄4年1561108コスモ・デ・トルレスの書簡にが「甚だ富み多数の住民あり、ベニスの如き政治を行う所なり」と記される。1561年8月17日付ガスパル・ビレラ書簡(『異国叢書』1)
永禄5年1562125で火災が起こり500軒余が焼失する。『厳助往年記』同年月日条
永禄7年1564718巳下刻(10時)、山科言継が住吉・を見物。堺南荘の旭蓮社に参詣。塩風呂町の宿に宿泊する予定であったが、宿がよろしくなかったため弥左衛門(和久与助)のもとに宿泊する。
堺南荘の東堀の普請が行われる。
『言継卿記』同年月日条
永禄7年1564724三好長慶が死去する。養子・義継が幼齢であるとして長慶の死は秘匿される。『足利季世記』巻6「冬康生害之事」
永禄9年1566530にいた松永久秀三好長逸三好宗渭岩成友通が攻める。久秀は逃亡する。『多聞院日記』同年月日条
永禄9年1566717相国寺鹿苑院主がにいる三好宗渭のもとに礼に訪れる。『鹿苑日録』同年月日条
永禄9年1566717相国寺鹿苑院主が、早朝、に到着する。篠原長房宿所に礼に赴く。また長房内衆の牛島、河人、間壁、和田助兵衛にも礼に赴く。さらに三好宗渭のもとに礼に赴く。天王寺を参詣した後、巳刻(9-11時)に堺に戻り、宿所の旭蓮社に入る。また、加地権介の宿所に礼に赴く。『鹿苑日録』同年月日条
永禄10年156746三好義継松永久秀より信貴山城(大和国)に入城する。『多聞院日記』同年月日条、『足利季世記』巻6「大仏殿焼亡之事」、『陰徳太平記』巻41「三好義誥与松永一味付東大寺炎焼之事」
永禄10年1567412三好義継多聞山城(大和国)に入城する。『陰徳太平記』巻41「三好義誥与松永一味付東大寺炎焼之事」
永禄10年15671021飯盛山城(河内国)に籠城していた松山安芸守と山口がに逃亡する。同城は三好長逸篠原長房が請け取り入城する。『多聞院日記』同年月日条
永禄11年156812三好千鶴に着陣する。『多聞院日記』同年月5日条
永禄12年156911三好康長三好宗渭三好長逸斎藤龍興が家原城(和泉国)を攻める。『当代記』同年月日条
永禄12年156938・9にてうつぼ屋の禅佐(72歳)が死去する。『多聞院日記』同年月12日条
永禄13年1570130松永久秀が母の追善のためとして2月4日よりにて千部経法会を執行すると噂される。『多聞院日記』同年月日条
永禄13年1570212松永久秀が母の追善のためとして2月15日よりにて千部経法会を執行すると噂される。『多聞院日記』同年月日条
元亀1年1570628吉田兼見が足利義昭に御祓を進上する。
(和泉国)の岩成友通方の者の3名の首が足利義昭のもとにもたらされる。
『兼見卿記』同年月日条
元亀1年1570822織田信長が長光寺(近江国)に宿泊する。(『信』)
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が、天王寺、ウリウノ、に陣取る。松永久秀が高安(河内国)に、竹下秀勝が大窪に陣取る。
『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『多聞院日記』同年月日
天正3年15751028織田信長妙覚寺にて京・の茶人を召し寄せ茶会を千宗易の点前で催す。『信長公記』巻8(9)「御茶之湯の事」
天正4年1576514吉田兼見がを見物する。『言継卿記』同年月日条
天正4年1576522織田信長に陣を移す。『言継卿記』同年5/24条
天正6年1578717九鬼嘉隆が率いる大船7艘がに着岸。見物人を驚愕させる。『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」
天正7年157915九鬼嘉隆織田信長のもとに年頭の礼のためより安土城(近江国)に赴く。信長は嘉隆に妻子に会うべく暇を下す。『信長公記』巻12「安土城年賀の事」
天正9年1581123羽柴秀吉が野口孫五郎に織田信長が孫五郎の降伏を認めた旨を伝えるとともに、12月27・28日には安土城(近江国)に上り、年始の挨拶をする旨にようにと伝える。なお土産についてはで用意するようにとも述べる。天正9年12月14日付野口孫五郎宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-364号)
天正10年1582529徳川家康穴山梅雪を見物する。『鷺森日記』同年月日条
天正10年1582635つ時分、より本能寺の変についての情報が鷺森(和泉国)にもたらされる。『鷺森日記』同年月日条
天正11年1583224本願寺顕如が下市(大和国)の願行寺を発つ。今井(大和国)および山田(河内国)にて1献あり。の慈光寺に宿泊する。『宇野主水記』附録同年月日条
天正11年158374本願寺顕如が紀伊より貝塚(和泉国)に移る。
顕如の音信の使者として羽柴秀吉のもとに赴き大樽10を贈る。本願寺顕如の書状を秀吉家臣の浅野長政石田三成堀秀政羽柴秀長に渡す役目を負う。
岸和田城(和泉国)の中村一氏へ頼廉の折紙を持参する。
この日は、に逗留し、5日に秀吉のいる大坂(摂津国)へと向かう予定。
『宇野主水記』同年月日条
天正11年1583714本願寺顕如が、羽柴秀吉への毛利家の使者として安芸よりにやってきた安国寺恵瓊荒木村重に書状を送り、大坂本願寺退散以来無音であったことを謝す。『宇野主水記』同年月日条
天正11年1583915本願寺顕如が、貝塚動座の礼として羽柴秀吉下間頼廉、寺内若狭、増田照従を遣わす。両名はに到着。頼廉は浅野長政への音信の添状と、岸和田城(和泉国)城主・中村一氏への添状を調える。『宇野主水記』同年月日条
天正11年15831015本願寺顕如が堺御坊に一宿する。『宇野主水記』同年月日条
天正13年1585423羽柴秀吉の命により長宗我部元親を討伐すべく讃岐国に向かう宇喜多秀家の軍勢15000、蜂須賀正勝黒田孝高仙石秀久・尾藤知宣・杉原家次・小西行長の軍勢8000が屋島(讃岐国)に着陣する。『南海通紀』巻17「備前播磨軍将出陣讃州記」
天正13年1585424羽柴秀長長宗我部元親を攻めるため、阿波国に向けてより出船する。『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」
天正13年1585425羽柴秀長率いる軍勢が福良(淡路国)を経由し土佐泊(阿波国)に到着する。『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」
天正13年1585426本願寺顕如にいるとされる羽柴秀吉のもとに、下間頼廉円山内匠を遣わす。『宇野主水記』同年月日条
天正13年1585629教如が住吉の祓をにて見物する。その後、貝塚本願寺に帰寺する。『宇野主水記』同年月日条
天正13年15851119小早川隆景吉川元長に着津する。『宇野主水記』同年月日条
天正14年15861026羽柴秀吉の南北の堀を埋めるよう命じる。この日、堀を埋める工事が始まる。『宇野主水記』同年月日条
天正14年1586113-4の南北の堀がおおよそ埋まる。『宇野主水記』同年月日条
天正16年1588閏523島津義弘に到着し、堺の北の神明町経王寺・法花寺に宿泊する。(天正16年)6月6日付島津義弘書状(『島津家文書』3-1493号)
天正16年158862島津義弘が大坂(摂津国)に赴く。(天正16年)6月6日付島津義弘書状(『島津家文書』3-1493号)
慶長2年1597115より西笑承兌のもとに肩衝9個が来る。そのうちの小肩衝を金子10枚にて購入する。また、青木一矩に贈る肩衝を金子10枚で購入する。『鹿苑日録』同年月日条
慶長2年15971117伏見城(山城国)内にて豊臣秀吉が、前田利家織田有楽斎西笑承兌とともに閑談する。秀吉が金子70枚で針屋源十郎から購入した星肩衝、で購入した小肩衝、金森可重より進上のシリブクラの小壺、虚堂墨蹟(の若狭屋宗加→大友宗麟蒲生氏郷→秀吉)を見せる。虚堂墨蹟は承兌に賜う。『鹿苑日録』同年月日条
慶長19年1614128堺商人・長崎の者が徳川家康に進物を捧げる。長谷川藤広が取り次ぐ。『駿府記』同年月日条
慶長20年1615115長谷川藤広が堺代官となる。『当代記』同年月日条
慶長20年1615428豊臣秀頼勢10000が郡山・龍田・法隆寺(大和国)の近辺に出撃し、子刻(23-1時)放火する。法隆寺は火災を免れる。大和郡山城(大和国)に籠城していた筒井定慶は逃亡する。
申刻(15-17時)、大野治房・槙島昭光が豊臣勢を率い、(和泉国)、住吉(摂津国)等を放火する。住吉社(摂津国)は火災を免れる。
『駿府記』同年月日・29日条
慶長20年1615429浅野長晟が信達(和泉国)にて大野治長の家老・北村善大夫、大野弥五左衛門等30名ほどを捕縛する。
巳刻(9-11時)、柏野(和泉国)にて、大野治房・大野道犬・郡宗保・槙島昭光・塙直之・岡野大学が率いる豊臣勢3000が浅野長晟の陣取る信達(和泉国)に攻め寄せる。浅野勢は浅野忠知を先陣に応戦する。戦いは卯刻(5-7時)より午刻(11-13時)まで戦い、長晟が勝利する。浅野勢の上田宗箇亀田高俊、田胡助左衛門、浅野良重が豊臣勢を追撃し、直之、芦田作内、米田監物、横井治右衛門、山内権三郎等が戦死する。徳川家康は長晟の戦功を賞し感状を発給する。松平正久、秋元泰勝、後藤光次が家康の意を奉じる。
元和3年10月14日付松浦俊重泉州樫井表戦争覚書(『浅野家文書』126号)、元和3年10月13日付金丸信盛泉州樫井戦争覚書(『浅野家文書』127号)、慶長20年4月30日付秋元泰朝他2名連署状(『浅野家文書』128号)、『駿府記』同年月日・30日条
慶長20年1615627大野道犬が長谷川藤広をして(和泉国)に移送される。4月28日の堺の焼失は道犬の放火によるものであるため、堺にて処刑せよとの徳川家康の命が出る。『駿府記』同年月日条
慶長20年1615閏63徳川秀忠長谷川藤広を小豆島(讃岐国)の代官とする。(和泉国)と長崎(肥前国)を往来する船にとって要所であるため、藤広が代官となる。『駿府記』同年月日条
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