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史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
人 物 史
源誉存応
げんよぞんのう
生 没 年
天文16年(1547)-元和6年(1620)11/2
出 身
-
俗 姓(氏)
由木
俗 名
-
別 称
慈昌
院 号 坊 号
-
父
-
母
-
兄 弟 姉 妹
-
所 属 寺 社
増上寺[住持]
僧 位 僧 官
-
諡 号
普光観智国師
師 匠
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
○
史料にみえる源誉存応の呼称
源誉存応 年表
天文16年 1547年 -月-日 1歳
源誉存応
が生まれる。
出典:『観智国師伝』(「増上寺文書」)
弘治1年 1555年 10月23日 9歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-
弘治4年 1558年 2月28日 12歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-
元亀1年 1570年 4月23日 24歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-
天正1年 1573年 7月28日 27歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-
文禄1年 1592年 12月8日 46歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-
慶長1年 1596年 10月27日 50歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-
慶長3年 1598年 8月18日 52歳
豊臣秀吉
が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条
慶長8年 1603年 2月12日 57歳
朝廷にて
徳川家康
の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政
が右近衛少将に、
板倉勝重
が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条
慶長10年 1605年 4月16日 59歳
徳川秀忠
が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗
が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項
慶長16年 1611年 10月20日 65歳
徳川家康
が源誉存応と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長16年 1611年 10月25日 65歳
徳川家康
が増上寺に赴く。源誉存応に銀100枚、被物10領を贈る。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長16年 1611年 11月7日 65歳
忍(武蔵国)にいる
徳川家康
のもとに源誉存応が訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長16年 1611年 11月9日 65歳
新田義重に征夷将軍贈官につき、新田(上野国)にて代々の菩提所を建立するにあたり、源誉存応、
土井利勝
、
成瀬正成
が地形を視察に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長16年 1611年 11月13日 65歳
朝、
徳川家康
が忍(武蔵国)を発ち、川越(武蔵国)に到着する。鴻巣(武蔵国)にて鷹狩をしていた
徳川秀忠
が川越に居る家康のもとに赴く。
秀忠が
本多正純
、
安藤直次
、
永井直勝
、
松平正久
、
後藤光次
、
長谷川藤広
に黄金・馬・服を下賜する。
夜、源誉存応、
成瀬正成
、
土井利勝
が上野国より川越にいる家康のもとに赴き、新田義重・
義貞
の菩提所について旧跡が存在したことを報告する。家康のそのことを喜ぶ。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長18年 1613年 8月13日 67歳
源誉存応が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長18年 1613年 8月15日 67歳
巳刻(9-11時)、源誉存応が報土寺(駿河国)に居す。
徳川家康
が報土寺に赴く。供は
本多正純
、
安藤直次
、
成瀬正成
、
村越直吉
、
松平正久
等100余名。家康は源誉存応の法問「一念弥陀仏即滅無量罪」を聴聞する。午刻(11-13時)、家康は駿府城(駿河国)に帰城する。その後、家康は
南光坊天海
邸のもとに赴き仏法について雑談する。夜、帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長18年 1613年 8月17日 67歳
源誉存応が
駿府城
(駿河国)に登城する。法問が行われる。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長18年 1613年 8月18日 67歳
駿府城
(駿河国)にて源誉存応による法問が行われる。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長18年 1613年 9月2日 67歳
源誉存応が
駿府城
(駿河国)に登城する。
徳川家康
と仏法について密談する。しかし、家康の理解が得られず、天台宗を崇敬するという。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長18年 1613年 10月1日 67歳
江戸城
(武蔵国)にいる
徳川家康
に諸大名が礼をする。増上寺の源誉存応が家康のもとに出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長18年 1613年 12月1日 67歳
江戸城
(武蔵国)南御殿にて
徳川家康
と
徳川秀忠
が対面する。諸大名が家康に礼をする。午刻(11-13時)、
南光坊天海
と仙波中院が家康の前で仏法について雑談する。その際、天海に仙波(武蔵国)近辺で500石を寄進することと中院に黄金10枚を贈ることを伝える。天海の退出後、
源誉存応
が家康のもとに出仕し、仏法について雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 1月6日 68歳
源誉存応
が
徳川家康
に礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条、『細川家記』13「忠興」7
慶長20年 1615年 6月14日 69歳
源誉存応
が上洛する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 閏6月17日 69歳
二条城
(山城国)にて浄土法問が行われる。題は「難易二道」。
源誉存応
、呑龍、了的、廓山、長流、理益など12名が参加する。一乗院、青蓮院、大乗院、公家衆、
伊達政宗
、
藤堂高虎
、
黒田忠之
、
池田利隆
、冷泉中納言が見物する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 閏6月28日 69歳
源誉存応
が
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
のもとに出仕する。閏6月29日に関東へ戻るので暇乞いをする。
出典:『駿府記』同年月日条
元和1年 1615年 7月13日 69歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条
元和2年 1616年 4月17日 70歳
徳川家康
が死去する。
出典:-
元和6年 1620年 11月2日 74歳
源誉存応
が死去する。
出典:『観智国師伝』(「増上寺文書」)、『東武実録』、『元和年録』
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