人 物 史

長谷川藤広 はせがわ ふじひろ
生 没 年永禄10年(1567)-元和3年(1617)10/26
出 身伊勢国一志郡幼 名-
別 称左兵衛
法 名秀月盛白
戒 名-
長谷川藤直-
兄 弟 姉 妹長谷川藤広、夏(清雲院、徳川家康の妻)
配 偶 者-
長谷川広貞、長谷川広永、長谷川広直、長谷川広清
官 位-
役 職江戸幕府 長崎奉行 堺奉行
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ史料にみえる長谷川藤広の呼称
長谷川藤広 年表
永禄10年 1567年 -月-日 1歳
長谷川藤広が伊勢国一志郡にて生まれる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 4歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 7歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
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文禄1年 1592年 12月8日 26歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 30歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 32歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 9月15日 34歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、森可澄[徳川家康勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長16年 1611年 8月20日 45歳
長崎所司 長谷川藤広駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとを訪れる。明、南蛮等の商船80余艘が訪れたことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月27日 45歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が駿府(駿河国)の藤堂高虎邸を訪れる。家康に徳川頼宣本多正純安藤直次成瀬正成村越直吉永井直勝松平正久、水野重央、西尾丹後守、竹腰正信、秋元泰勝、板倉重昌後藤光次長谷川藤広、浅井七平、大岡兵蔵、佐久間頼勝、日根野左京亮、高力河内守、北見長五郎、野尻万介等が供奉する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月20日 45歳
朝、徳川秀忠本多正純大久保長安安藤直次成瀬正成永井直勝松平正久後藤光次長谷川藤広に茶と鶴料理を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月25日 45歳
徳川秀忠が茶壺(銘 鎮西)の口を切る。「数寄屋」にて、本多正信本多正純大久保長安安藤直次成瀬正成村越直吉永井直勝松平正久後藤光次長谷川藤広を召し、鶴料理と茶を振る舞う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月6日 45歳
徳川秀忠が鴻巣(武蔵国)の鷹場にて鷹狩をする。忍(武蔵国)に居る徳川家康より成瀬正成安藤直次永井直勝松平正久後藤光次長谷川藤広が秀忠のもとに赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月13日 45歳
朝、徳川家康が忍(武蔵国)を発ち、川越(武蔵国)に到着する。鴻巣(武蔵国)にて鷹狩をしていた徳川秀忠が川越に居る家康のもとに赴く。
秀忠が本多正純安藤直次永井直勝松平正久後藤光次長谷川藤広に黄金・馬・服を下賜する。
夜、源誉存応、成瀬正成土井利勝が上野国より川越にいる家康のもとに赴き、新田義重・義貞の菩提所について旧跡が存在したことを報告する。家康のそのことを喜ぶ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月28日 45歳
徳川家康が明国の商船の商売地を長崎(肥前国)に一元化する。長谷川藤広がその許可書を発行することとする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月23日 46歳
本多正純の与力・岡本大八が、有馬晴信に先年の黒船討ち取りの功により肥前国三郡の返付があるとして偽造した朱印状を渡すとともに、幕府老中への謝礼として白銀600枚を納めるようにと指示し、その白銀を横領したことについて、晴信からの疑義があり裁判が行われ、大八は無罪を主張するも、晴信が証拠となる文書を所持していたことから、大八の敗訴となり、大八も白状する。駿府町奉行の彦坂光正が大八を鞭打ちのうえ禁固する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月18日 46歳
禁獄中の岡本大八が有馬晴信について、長谷川藤広を殺害せんと企んでいると申告する。これにより、大八を牢より出し、大久保長安邸に移し、晴信の居る前で大八に晴信の企てについて述べさせる。晴信は閉口してしまい回答ができなかったため、晴信の身柄を拘束する。大八は再度牢に入れる。これにつき、晴信の所領は子・直純に与え、直純には国の仕置きのため帰国を許す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月21日 46歳
徳川秀忠が加護鼻にて竹腰正信をして鉄砲を放たせる。
岡本大八を牢より出し、府内(駿河国)にて引き回しのうえ、安部川原にて火炙りの刑に処す。徳川家康板倉勝重を召し、キリスト教を禁教とし、京都における南蛮寺の破却を命じる。また、長谷川藤広に暇を与え長崎(肥前国)に赴かせる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月22日 46歳
駿府城(駿河国)にて徳川秀忠山名禅高と将棋を指す。
有馬晴信を甲斐国へ配流とする。大久保長安の監督下に置く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 5月7日 46歳
長崎奉行・長谷川藤広の殺害計画があったとして有馬晴信が甲斐国にて自害する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 7月25日 46歳
明・ルソンに派遣していた商船26艘が長崎(肥前国)に到着する。白糸200000斤を積載する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月4日 46歳
ルソン商船の船頭・ルイスが駿府城(駿河国)にいる徳川家康に緞子、密2壺を献上する。
長崎(肥前国)より家康のもとに飛脚が到着する。飛脚は7月23日に黒船が長崎に着船し、白糸140000斤、緞子多数を積載していたことを、後藤光次を介し家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 6月5日 47歳
長谷川藤広が長崎(肥前国)にシャム船2艘、イギリス船1艘、漳州船6船が着岸したことを徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 6月26日 47歳
駿府城(駿河国)にて徳川家康森忠政と対面する。家康は忠政に青木一矩の肩衝茶入を下賜する。忠政は池田忠継の舅であるので、忠継を後見するようにと帰国を命じられる。
長崎(肥前国)より飛脚が駿府城に到着したと後藤光次が家康に取り次ぐ。
シャム国より木屋弥三右衛門が帰国したため、家康は弥三右衛門に対面し、同国のことについて尋ねる。弥三右衛門はシャム国には僧が多く、黄法衣を着ていたという。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月30日 48歳
駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに徳川秀忠からの使者として土井利勝が到着する。本多正純と利勝が家康と密談する。
長谷川藤広が献上した砂糖20斤が駿府城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月8日 48歳
堺商人・長崎の者が徳川家康に進物を捧げる。長谷川藤広が取り次ぐ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月15日 49歳
長谷川藤広が堺代官となる。
出典:『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月20日 49歳
長谷川藤広茶屋清次駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 6月27日 49歳
大野道犬が長谷川藤広をして(和泉国)に移送される。4月28日の堺の焼失は道犬の放火によるものであるため、堺にて処刑せよとの徳川家康の命が出る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月3日 49歳
徳川秀忠長谷川藤広を小豆島(讃岐国)の代官とする。(和泉国)と長崎(肥前国)を往来する船にとって要所であるため、藤広が代官となる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月29日 49歳
黒船が日本に着岸したとの報告が長崎(肥前国)より家康のもとにもたらされる。後藤光次が家康に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日 49歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 50歳
徳川家康が死去する。
出典:-

元和3年 1617年 10月26日 51歳
長谷川藤広が死去する。
出典:-

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