人 物 史

杉原長房 すぎはら ながふさ
生 没 年天正2年(1574)-寛永6年(1629)2/4
出 身-幼 名-
別 称弥兵衛
法 名-
戒 名花岳院殿心達道無大居士
杉原家次-
兄 弟 姉 妹雲照院(木下家定の妻)、杉原長房
配 偶 者栄雲院(浅野長政の娘)
杉原重長、杉原長俊、娘(北条氏重の妻)、娘(船越永景の妻)、娘(松平忠晴の妻)、娘(堀親昌の妻)、娘(浅野高英の妻)、娘(竹中重常の妻)、娘(青山幸通の妻)、娘(上田重安の妻)
官 位伯耆守
役 職-
城 郭坂本城(近江国)、杵築城(豊後国)、豊岡城(但馬国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ杉原長房の関連文化財
杉原長房 年表
天正2年 1574年 -月-日 1歳
杉原長房が近江国小谷にて生まれる。
出典:-

文禄1年 1592年 12月8日 19歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 23歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 25歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 7月20日 27歳
小野木重次率いる軍勢15000が細川幽斎の籠る田辺城(丹後国)を包囲する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川藤孝」の項、『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長5年 1600年 7月21日 27歳
小野木重次谷衛友、石川備後守、藤懸永勝、長谷川勝富、川勝秀氏、生駒一正、木下延俊、赤松道広、杉原長房、別所重友、小出吉政山崎家盛毛利高政高田治忠、早川長政、中川秀成等が率いる軍勢15000が細川幽斎の籠る田辺城(丹後国)を攻めるべく、城近辺に陣取る。
出典:『田辺城合戦記』

慶長5年 1600年 7月23日 27歳
小野木重次細川幽斎の籠る田辺城(丹後国)を西より攻める。
出典:『田辺城合戦記』

慶長5年 1600年 7月24日 27歳
小野木重次細川幽斎の籠る田辺城(丹後国)に東西より鉄砲を放つ。
出典:『田辺城合戦記』

慶長5年 1600年 7月25日 27歳
小野木重次細川幽斎の籠る田辺城(丹後国)に西より鉄砲を放ち、搦め手口を攻める。幽斎勢が退ける。
出典:『田辺城合戦記』

慶長5年 1600年 7月26日 27歳
小野木重次細川幽斎の籠る田辺城(丹後国)を東西より攻める。幽斎勢が退ける。
出典:『田辺城合戦記』

慶長5年 1600年 9月12日 27歳
小野木重次率いる軍勢15000が細川幽斎の籠る田辺城(丹後国)を包囲する中、藤孝が死に古今伝授が途絶えることを危惧した禁裏が、勅使として中院通勝・三条実脩・烏丸光広を遣わし、幽斎に降伏を説く。幽斎は勅使の説得を受け入れ田辺城を開城し、亀山城(丹波国)に移る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川藤孝」の項

慶長8年 1603年 2月12日 30歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 32歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長16年 1611年 8月16日 38歳
浅野長則(長重)、杉原長房、堀親良が江戸(武蔵国)より駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもと赴く。家康は、長則の父・長政の遺領を3人に割譲し給付する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日 42歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 43歳
徳川家康が死去する。
出典:-

寛永1年 1624年 2月30日 51歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-

寛永6年 1629年 2月4日 56歳
杉原長房が死去する。
出典:-

人物リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.