人 物 史

竹中重門 たけなか しげかど
生 没 年天正1年(1573)-寛永8年(1631)閏10/9
出 身-幼 名-
別 称吉助
法 名-
戒 名-
竹中重治得月院(安藤守就の娘)
兄 弟 姉 妹竹中重門
配 偶 者加藤光泰の娘
竹中重常、竹中重次、竹中重利、娘(小堀正十の妻)、娘(毛利広豊の妻)、娘(朽木智綱の娘)
官 位丹後守
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ史料にみえる竹中重門の呼称
竹中重門 年表
天正1年 1573年 -月-日 1歳
竹中重門が生まれる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 1歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正7年 1579年 6月13日 7歳
父・重治三木城(播磨国)の向城である平山陣所にて病死する。
出典:『黒田家譜』巻2「孝高記」

文禄1年 1592年 12月8日 20歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 24歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 26歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 9月19日 28歳
草津(近江国)に陣取る徳川家康のもとに竹中重門が捕らえた小西行長の身柄が引き渡される。行長の身柄は村越茂助が預かる。
出典:(慶長5年)9月19日付徳川家康朱印状(東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号252)、『関原始末記』

慶長8年 1603年 2月12日 31歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 33歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長18年 1613年 1月2日 41歳
豊臣秀頼の名代・速水守久(取次・大沢基宿)、日野唯心水無瀬一斎山名禅高、畠山左近、土岐市正、西尾豊後守、遠藤慶隆竹中重門古田重治、稲葉方通、谷衛友、平野長泰、長谷川縫殿助、片桐且元片桐貞隆駿府城(駿河国)にいる徳川家康に年始の礼をする。
医者衆が家康に年始の礼をする。
宗義智の名代・柳川智永、京・堺・大坂・奈良・伏見の町人が家康に年始の礼をする。
夜、謡始が行われ、家康、徳川義利徳川頼宣、徳川頼房、唯心、禅高、永井直勝本多正純が出席する。観世大夫、梅若大夫に服2領が下付される。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日 43歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 44歳
徳川家康が死去する。
出典:-

寛永1年 1624年 2月30日 52歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-

寛永8年 1631年 閏10月9日 59歳
竹中重門が死去する。
出典:-

人物リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.