人 物 史

日野輝資 ひの てるすけ
生 没 年弘治1年(1555)-元和9年(1623)閏8/2
出 身-幼 名-
別 称広橋兼保
法 名唯心
戒 名-
広橋国光日野晴光[養父]高倉永家の娘
兄 弟 姉 妹日野輝資広橋兼勝、光紹
配 偶 者津守国繁の娘
日野資勝、日野忠有、輝子、娘(平松時庸の妻)、娘(花房正栄の妻)、日野資栄[養子]
官 位権大納言
氏 族 門 流-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ史料にみえる日野輝資の呼称
日野輝資 年表
弘治1年 1555年 -月-日 1歳
日野輝資が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 1歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 4歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄10年 1567年 8月5日 13歳
祖父・兼秀が死去する。
出典:『系図纂要』「広橋」

永禄11年 1568年 11月12日 14歳
父・国光が死去する。
出典:『系図纂要』「広橋」

元亀1年 1570年 4月23日 16歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀4年 1573年 7月3日 19歳
午刻(11-13時)、足利義昭が御所を退き槙島城(山城国)に移る。御所には日野輝資、高倉永相、伊勢貞興、三淵藤英を置く。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 19歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正4年 1576年 3月28日 22歳
飛鳥井雅敦邸の庭にて蹴鞠が行われる。参加者は高倉永相、山科言経、雅敦、三条公宣、西洞院時通、毘沙門堂公厳、高倉永孝、日野輝資、薄以継、五辻元仲。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 3月29日 22歳
飛鳥井雅敦邸の庭にて蹴鞠が行われる。参加者は高倉永相、山科言経、五辻為仲、雅敦、烏丸光宣、日野輝資、三条公宣、毘沙門堂公厳、広橋兼勝、高倉永孝、薄以継、五辻元仲。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月1日 22歳
飛鳥井雅敦邸の庭にて蹴鞠が行われる。参加者は三條西実枝、山科言経、雅敦、中院通勝、烏丸光宣、日野輝資、三条公宣、毘沙門堂公厳、広橋兼勝、高倉永孝、薄以継、五辻元仲。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月18日 22歳
飛鳥井雅敦邸の庭にて蹴鞠が行われる。参加者は三条西実枝、高倉永相、山科言経、雅敦、日野輝資、三条公宣、毘沙門堂公厳、広橋兼勝、高倉永孝、薄以継、五辻元仲。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月20日 22歳
飛鳥井雅敦邸の庭にて蹴鞠が行われる。参加者は三条西実枝、雅教、高倉永相、山科言経勧修寺晴豊、雅敦、烏丸光宣、日野輝資、三条公宣、広橋兼勝、高倉永孝、薄以継、五辻元仲。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月2日 22歳
公家衆の二条晴良九条兼孝一条内基、西園寺公朝、近衛信基、三条西実枝、、中山孝親菊亭晴季徳大寺公維飛鳥井雅敦山科言継庭田重保、高辻長雅、葉室頼房持明院基孝柳原淳光四辻公遠、甘露寺経元、水無瀬兼成、高倉永相、山科言経、庭田重通、勧修寺晴豊正親町実彦、中山親綱、松木宗房、中院通勝、富小路千夜叉(秀直)、唐橋尊松(在通)、烏丸光宣、五辻為仲、冷泉為純、雅敦、大炊御門経頼、日野輝資、竹内長治、東坊城盛長水無瀬親具、白川雅朝、久我季通、西洞院時通、中御門宣教、広橋兼勝、高倉永孝、冷泉、葉室長教、四辻季満、高倉範国、万里小路充房、四条隆昌、橋本実勝、冷泉俊久、薄以継、五辻元仲、五条為名、門跡衆の仁和寺守理、青蓮院尊朝、妙法院常胤、聖護院道澄大覚寺尊信、勧修寺聖信、三宝院義演、実相院が妙覚寺に滞在中の織田信長のもとに礼に訪れる。公家衆からの進物を村井貞勝が披露する。
山科言継山科言経、葉室頼房、葉室長教、冷泉、薄以継が二条晴良邸の跡地に建てた信長の屋敷を見物する。
出典:『言経卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条

天正10年 1582年 6月2日 28歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正13年 1585年 閏8月26日 31歳
羽柴秀吉施薬院全宗のもとで茶湯を催す。全宗の所に近衛龍山大覚寺尊信大乗院尋憲一条内基、梶井宮最胤、飛鳥井雅春、日野輝資、烏丸光宣、吉田兼見が参礼として訪れる。龍山等が秀吉に進上した菓子を前田玄以が披露する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正16年 1588年 7月29日 34歳
毛利輝元小早川隆景吉川広家豊臣秀長邸に赴く。豊臣秀吉も秀長邸に赴き、聖護院道澄今出川晴季織田信雄勧修寺晴豊、中山親綱、日野輝資、徳川家康豊臣秀次宇喜多秀家上杉景勝蜂屋頼隆細川忠興島津義久、龍造寺政家、立花宗茂が相伴する。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

文禄1年 1592年 12月8日 38歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 2月6日 39歳
正親町上皇が崩御する。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 42歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 44歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 1月11日 48歳
近衛信尹が日野輝資に日野家は九条家の「家来」であると述べたことについて、輝資は「家来」ではないと反論し、この日、子・資勝とともに蓄電する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長8年 1603年 2月12日 49歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 51歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長16年 1611年 9月14日 57歳
日野唯心駿府城(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月1日 57歳
駿府城(駿河国)にて徳川家康日野唯心、秀賢、円光寺、金地院崇伝が京都の院内や和漢・古今について論じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月6日 57歳
徳川家康日野唯心に米50石、水無瀬一斎に米80石、山科言緒舟橋秀賢冷泉為満に黄金1枚・被物2領を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月12日 58歳
江戸(武蔵国)より徳川秀忠の使者として神尾守世徳川家康のもとに訪れる。
家康が日野唯心、円光寺、以心崇伝に膳を賜い、雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月28日 58歳
駿府城(駿河国)にて伊達政宗が銀100枚・鮭塩引10箇を、生駒正俊が銀100枚・御服10領を徳川家康に献上する。同城の数寄屋にて家康が政宗・正俊に茶を賜う。日野唯心が相伴する。茶入は銘 投頭巾。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 5月4日 58歳
日野唯心水無瀬一斎土御門久脩飛鳥井雅庸冷泉為満舟橋秀賢が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 5月5日 58歳
日野唯心水無瀬一斎土御門久脩飛鳥井雅庸冷泉為満舟橋秀賢駿府城(駿河国)に居る徳川家康と対面し雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 5月8日 58歳
日野唯心水無瀬一斎土御門久脩飛鳥井雅庸冷泉為満舟橋秀賢駿府城(駿河国)に居る徳川家康に出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月1日 58歳
巳刻(9-11時)、日野唯心水無瀬一斎土御門久脩冷泉為満舟橋秀賢駿府城(駿河国)在府中の武士が徳川家康に出仕する。家康は各々に富士山の氷を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 7月28日 58歳
駿府城(駿河国)にて徳川家康日野唯心山名禅高以心崇伝の参加のもと高野山多聞院による真言の法談が行われる。
藤堂高虎が駿府城にて能を催す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月14日 58歳
駿府城(駿河国)にて徳川家康が一乗院を呼び茶湯を催す。日野唯心金地院崇伝藤堂高虎が相伴する。古田重然が駿府城に在府中だったことから、重然が茶を点てる。この頃、重然は「数奇之宗匠」で徳川秀忠の崇敬を厚かったとされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月21日 58歳
徳川家康が日野輝資、山名禅高藤堂高虎、三好因幡守、三好房一、本多一継、池田光重に料理と茶を振る舞う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月23日 58歳
日野唯心山名豊国藤堂高虎金地院崇伝、玄陽坊が徳川家康に出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 12月18日 58歳
徳川家康が諸大名に茶を振る舞う。日野輝資、山名禅高が同席する。両名の退席後、家康は黒田長政万徳丸父子を召し、酒盃を下賜す。黒田父子に万徳丸を右衛門佐に任ずことを告げる。また、家康は万徳に刀(銘 長光)・脇差(銘 岡本正宗)・真壺を下賜し、長政に鷹・馬を贈る。本多正純が取次。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長18年 1613年 1月2日 59歳
豊臣秀頼の名代・速水守久(取次・大沢基宿)、日野唯心水無瀬一斎山名禅高、畠山左近、土岐市正、西尾豊後守、遠藤慶隆竹中重門古田重治、稲葉方通、谷衛友、平野長泰、長谷川縫殿助、片桐且元片桐貞隆駿府城(駿河国)にいる徳川家康に年始の礼をする。
医者衆が家康に年始の礼をする。
宗義智の名代・柳川智永、京・堺・大坂・奈良・伏見の町人が家康に年始の礼をする。
夜、謡始が行われ、家康、徳川義利徳川頼宣、徳川頼房、唯心、禅高、永井直勝本多正純が出席する。観世大夫、梅若大夫に服2領が下付される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 3月5日 59歳
駿府城(駿河国)の三ノ丸にて能が催される。徳川頼宣が能5番、徳川頼房が能2番、徳川義利が小鼓1番を勤める。徳川家康、亀、お万、日野唯心山名禅高藤堂高虎、天台宗の僧衆が見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月12日 59歳
徳川家康駿府城(駿河国)の数寄屋にて伊達政宗に茶を振る舞う。日野唯心山名豊国が相伴する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 6月16日 60歳
巳刻(9-11時)、駿府城(駿河国)南殿にて嘉定が行われる。徳川家康徳川義利徳川頼宣徳川頼房日野唯心、伝長老、冷泉中納言、水無瀬一斎、大沢少将、山名禅高、佐々木中務少輔、畠山長門守、土岐左馬助、土岐市正、三好因幡守、三好房一、猪子内内匠助、本田若狭守、徳永左馬助、戸川達安、市橋下総守、堀直寄等が出席する。配膳は西尾丹後守。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月15日 60歳
徳川家康日野唯心、飛鳥井、冷泉に定家自筆『伊勢物語』を見せる。
土井利勝が江戸(武蔵国)に戻るべく駿府(駿河国)を発つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月1日 60歳
駿府城(駿河国)にいる徳川家康が、南光坊天海、以心伝心、東大寺衆、日野唯心、飛鳥井雅庸、冷泉為満、唐橋と雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月7日 60歳
徳川家康が山崎宗鑑自筆『二十一代集』を日野唯心、飛鳥井雅庸、冷泉為満に見せる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月8日 60歳
南光坊天海二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。薬樹院・竹林坊が家康に出仕する。日野唯心金地院崇伝、公家衆が家康のもとに出仕する。
家康が園城寺(近江国)寺僧、法泉院、光浄院を召し出し、崇伝をもって、本覚坊から訴えのあった照高院道勝による関東調伏の件を尋ねる。園城寺僧は本覚坊は不義僧で、最近は大徳寺(山城国)を徘徊しており、照高院道勝と園城寺僧と関係が悪く、ゆえにこの訴えのような虚説を述べているという。以前、園城寺は聖護院・実相院・円満院の三門跡で管理していたが、豊臣秀吉の命により聖護院一人による管理となったため、近年は照高院道勝と園城寺の関係は悪い。したがって照高院道勝と園城寺が一体となって関東調伏をすることはありえないと回答する。この回答をうけ、本覚坊を呼び出し反論がないか確かめるようにと家康は指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月23日 60歳
日野唯心以心崇伝徳川家康と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月29日 60歳
勅使の広橋兼勝、三条実條が住吉(摂津国)にいる徳川家康に対面する。勅使に日野唯心、飛鳥井雅庸、以心伝心も同行する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月1日 60歳
日野唯心金地院崇伝池田利隆池田忠継森忠政有馬豊氏が諸勢が天満(摂津国)に入ったことを徳川家康に報告する。物見の服部権太、島弥左衛門が池田勢等が天満に入ったことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月23日 60歳
以心崇伝日野唯心徳川家康のもとに赴く。崇伝・唯心は、公家の諸記録の書写の件で、古今礼儀式法に誤りがあれば報告するようにと家康が公家衆に尋ねた件で、公家からの誤りの指摘はなかったことを家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月1日 61歳
徳川家康駿府城(駿河国)の南御殿に出座する。日野唯心等が出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月3日 61歳
徳川家康駿府城(駿河国)の南御殿に出座する。日野唯心等が出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月6日 61歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れる。奥之座にて閑談する。本多正信本多正純が同席する。
二条城前殿で真言論議が行われる。題は「十悪起不起、身三口四意三、同時起耶、各別耶」。宝性院、無量寿院、遍明院、正智院、金剛三昧院、如意輪寺、庵室、北室院が参加。講者は多聞院。家康、秀忠、徳川義俊徳川頼宣松平忠直伊達政宗前田利常京極忠高藤堂高虎、正信、日野唯心も参席する。
未刻(13-15時)、徳川秀忠伏見城(山城国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月23日 61歳
伊達政宗が定家自筆古今集を二条城(山城国)にいる徳川家康にみせる。冷泉為満日野唯心もその場に居合わせる。政宗は唯心を通じて、家康が所望するならば進上すると家康に伝えるが、家康は「玩弄之慰」みにせよとして政宗に返却する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月5日 61歳
徳川家康二条城(山城国)の南殿に出座する。源氏物語抄を公家衆に配分する。家康は仮名を付すようにと日野唯心、三条、飛鳥井、冷泉父子、烏丸に命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日 61歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月17日 61歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き対面する。
家康は、公家諸法度を伝奏、二条昭実、三条実條、今出川晴季、公家衆に聞かせるべく広橋兼勝に読ませる。以心崇伝が同席する。
八条宮智仁が家康に礼をする。太刀・馬を贈る。
伏見宮邦清が家康に礼をする。小高檀紙10束を贈る。
九条忠栄が家康に礼をする。帷子・太刀・馬を贈る。
巳刻(9-11時)、能が催される。智仁、邦清、昭実、忠栄、一条、鷹司、近衛、晴季が参席し、七五三の饗応を受ける。織田常真日野唯心、両伝奏、花山院などの諸公家数十人、秀忠に供奉した武士は饗応を受ける。申下刻(16時)、秀忠は伏見城(山城国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月19日 61歳
中院通勝が二条城(山城国)にいる徳川家康に礼をする。以心崇伝日野唯心冷泉為満が取り成す。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月9日 61歳
徳川義俊駿府城(駿河国)にいる徳川家康に自ら鉄砲にてしとめた白鳥を進上する。
家康が駿府城の南殿に出座する。諸士が出仕する。白鳥料理を日野唯心、大沢少将、畠山長門守、土岐左馬助、土岐市正、三好因幡守、猪子内匠頭、本田若狭守、堀直寄、市橋下総守に振る舞う。茶壺(銘 志賀)の口切を行い、茶を振る舞う。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月19日 61歳
徳川家康が鷹狩で得た鶴の料理を日野唯心に振る舞う。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 62歳
徳川家康が死去する。
出典:-

元和3年 1617年 9月25日 63歳
後陽成上皇が崩御する。
出典:-

元和8年 1622年 12月18日 68歳
弟・広橋兼勝が死去する。
出典:『系図纂要』「広橋」

元和9年 1623年 閏8月2日 69歳
日野輝資が死去する。
出典:-

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