歴史の目的をめぐって
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歴史
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誕生年計算
寛政重修諸家譜 索引(製作中)
史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
人 物 史
小西行長
こにし ゆきなが
生 没 年
?-慶長5年(1600)10/1
出 身
-
幼 名
-
別 称
弥九郎
法 名
アウグスティヌス
戒 名
-
父
小西隆佐
母
-
兄 弟 姉 妹
-
配 偶 者
-
子
-
官 位
内匠頭、摂津守
役 職
-
城 郭
宇土城
(肥前国)
参 考 文 献
○
小西行長に関する参考文献
関 連 デ ー タ
-
小西行長 年表
- -年 -月-日
小西行長
が生まれる。
出典:-
天正12年 1584年 4月9日
池田勝入斎
・
池田元助
・
森長可
が
丹羽氏重
の籠る
岩崎城
(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、
織田信雄
・
徳川家康
が
羽柴秀次
・勝入斎・元助・長可・
堀秀政
を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:
榊原康政
、
大須賀康高
、本多康重、
丹羽氏次
、
酒井重忠
、
永井直勝
(池田勝入斎討取)、
渥美友重
(首級2)、
駒井昌長
、
折井次昌
[岡本彦次郎討取]、
野呂守景
、秋鹿朝矩(戦死)、
加藤正次
、
酒井忠次
[小牧山本陣留守居衆]、
石川数正
[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、
豊臣秀吉
は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項
天正13年 1585年 4月1月23日日
羽柴秀吉
の命により
長宗我部元親
を討伐すべく讃岐国に向かう
宇喜多秀家
の軍勢15000、
蜂須賀正勝
・
黒田孝高
・
仙石秀久
・尾藤知宣・杉原家次・
小西行長
の軍勢8000が屋島(讃岐国)に着陣する。
出典:『南海通紀』巻17「備前播磨軍将出陣讃州記」
天正13年 1585年 4月24日
羽柴秀長
が
長宗我部元親
を攻めるため、阿波国に向けて
堺
より出船する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」
天正13年 1585年 4月25日
羽柴秀長
率いる軍勢が福良(淡路国)を経由し土佐泊(阿波国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」
天正13年 1585年 4月-日
羽柴秀次
が
長宗我部元親
を攻めるべく丹波国の軍勢を率い播磨国を経由し岩屋(淡路国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」
天正13年 1585年 6月16日
長宗我部元親
を対治するため、
羽柴秀吉
が弟・
秀長
を四国に出陣させる。
出典:『宇野主水記』同年7月3日条
天正13年 1585年 7月3日
長宗我部元親
の対治のため
羽柴秀吉
が洲本(
淡路国
)に着陣する。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正13年 1585年 7月5日
羽柴秀長
が木津城(阿波国)を攻め、落とす。
長宗我部元親
は木津城の後詰に出ていたが、落城したため土佐国に帰国する。
出典:『宇野主水記』同年7月3日条
天正13年 1585年 7月11日
羽柴秀吉
への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条
天正15年 1587年 1月25日
島津義久
成敗につき、
宇喜多秀家
(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年 1587年 2月1日
島津義久
成敗につき、
宮部継潤
・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 2月5日
島津義久
成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、
福島正則
(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、
高山重友
(軍勢1300)、
細川忠興
(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 2月10日
島津義久
成敗につき、
豊臣秀長
(軍勢15500)、
筒井定次
(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 2月15日
島津義久
成敗につき、
豊臣秀勝
(軍勢5000)、
丹羽長重
(軍勢500)、
生駒親正
(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 2月20日
島津義久
成敗につき、
前田利長
(軍勢3000)、
長谷川秀一
(軍勢1700)、
堀秀政
(軍勢3000)、
木村重玆
(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、
溝口秀勝
(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、
太田一吉
(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 2月25日
島津義久
成敗につき、
蒲生氏郷
(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、
九鬼嘉隆
(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、
池田輝政
(軍勢1000)、
森忠政
(軍勢1000)、
稲葉典通
(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 3月1日
島津義久
成敗につき、
豊臣秀吉
(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。
蜂屋頼隆
(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、
石川数正
(軍勢500)、
佐々成政
(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、
矢部家定
(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、
古田重然
(軍勢130)、
稲葉方通
(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、
浅野長政(軍勢1200)
、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、
富田信広
(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、
片桐且元
、
糟屋武則
(軍勢150)、
池田長吉
(軍勢400)、
川尻秀長
(軍勢120)、
加藤清正
(軍勢170)、
古田重勝
(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、
青木一重
(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として
豊臣秀次
を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年 1587年 3月29日
豊臣秀吉
が
小倉
(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は
豊臣秀長
を大将に
毛利輝元
・
吉川元長
・
小早川隆景
・
宇喜多秀家
・
黒田孝高
・
宮部継潤
・亀井茲矩・
蜂須賀家政
・
長宗我部元親
・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・
大友義統
の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』
天正15年 1587年 4月1日
豊臣秀勝
、
前田利長
、
蒲生氏郷
率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、
豊臣秀吉
は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1
天正15年 1587年 4月2日
豊臣秀吉
が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した
秋月種実
は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・
種長
とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年 1587年 4月4日
豊臣秀吉
が
秋月種実
の居城・荒平山城(筑前国)に入る。
生駒親正
が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 4月11日
豊臣秀吉
が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 4月11日
豊臣秀吉
が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎
が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」
天正15年 1587年 4月13日
豊臣秀吉
が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 4月16日
豊臣秀吉
が
熊本城
(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 4月17日
宮部継潤
が守る根白坂砦(日向国)を
島津家久
が攻める。
豊臣秀長
が救援に赴き、麾下の
藤堂高虎
と
宇喜多秀家
勢の
戸川達安
が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』
天正15年 1587年 4月19日
豊臣秀吉
が
宇土城
(肥後国)に入城する。
熊本城
(肥後国)に
富田知信
を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 4月21日
豊臣秀吉
が
八代城
(肥後国)に入城する。
宇土城
(肥後国)に
加藤清正
を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 5月5日
豊臣秀吉
が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 5月6日
島津義久
が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の
豊臣秀吉
のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」
天正15年 1587年 5月8日
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の
豊臣秀吉
のもとに剃髪した
島津義久
が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 5月9日
豊臣秀吉
が
島津義久
に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)
天正15年 1587年 6月-日
豊臣秀吉
が
黒田孝高
、
石田三成
に博多(筑前国)の町割・民屋復興を命じる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年 1587年 6月11日
博多(筑前国)の町の指図ができる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年 1587年 6月12日
博多(筑前国)の町割が行われる。町割の奉行は
滝川雄利
・
長束正家
・山崎片家・
小西行長
。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正16年 1588年 1月20日
肥後国一揆につき、
豊臣秀吉
が
浅野長政
・
加藤清正
・
小西行長
率いる軍勢20000を派遣する。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」
天正17年 1589年 10月13日
小西行長
が軍勢6500と
加藤清正
よりの援軍として佐々平左衛門・古橋又助・瀧野讃岐・山内甚三郎率いる軍勢1500をもって志岐麟専の籠る志岐城(肥後国)に対峙する。
出典:『清正記』巻1
天正17年 1589年 10月18日
志岐城(肥後国)に籠る志岐麟専が城より打って出て、
小西行長
率いる軍勢6500と佐々平左衛門・古橋又助・瀧野讃岐・山内甚三郎率いる
加藤清正
勢1500と戦う。
出典:『清正記』巻1
天正17年 1589年 11月5日
加藤清正
が志岐麟専の籠る志岐城(肥後国)を攻める。壱岐城の後詰め木山弾正と加藤清正が戦い、清正が弾正を討ち取る。
出典:『清正記』巻1
天正17年 1589年 11月20日
小西行長
、
加藤清正
、
有馬晴信
、後藤、大村、平戸が天草種元の籠る本渡城(肥後国)を攻める。
出典:『清正記』巻1
天正17年 1589年 11月21日
小西行長
、
加藤清正
、
有馬晴信
、後藤、大村、平戸が天草種元の籠る本渡城(肥後国)を攻める。
出典:『清正記』巻1
天正17年 1589年 11月22日
小西行長
、
加藤清正
、
有馬晴信
、後藤、大村、平戸が天草種元の籠る本渡城(肥後国)を攻める。
出典:『清正記』巻1
天正17年 1589年 11月23日
小西行長
、
加藤清正
、
有馬晴信
、後藤、大村、平戸が天草種元の籠る本渡城(肥後国)を攻める。
出典:『清正記』巻1
天正17年 1589年 11月24日
小西行長
、
加藤清正
、
有馬晴信
、後藤、大村、平戸が天草種元の籠る本渡城(肥後国)を攻める。
出典:『清正記』巻1
天正17年 1589年 11月25日
辰刻(7-9時)、
小西行長
、
加藤清正
、
有馬晴信
、後藤、大村、平戸が天草種元の籠る本渡城(肥後国)を攻め、同城を落とす。種元は自害する。
出典:『清正記』巻1
天正18年 1590年 12月28日
豊臣秀吉
が関白職を甥・
秀次
に譲る。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」
天正20年 1592年 1月5日
豊臣秀吉
が
加藤清正
、
小西行長
を召し出し、朝鮮出兵につき、清正に
鍋島直茂
・相良頼房を付し、行長に
宗義智
・松浦鎮信・
有馬晴信
・大村喜前・五島純玄を付すことを伝える。また、清正に朝鮮国内での制札、軍書、南妙法蓮華経の旗を、行長に朝鮮国内での制札、軍書、馬(銘 大黒)を与える。
出典:『清正記』巻2
天正20年 1592年 4月24日
豊臣秀吉
が名島(筑前国)を発ち、昼前に深江に宿泊する。深江にて4月12日に
小西行長
・
宗義智
が朝鮮の釜山に着岸し朝鮮軍を攻め、同地を落としたとの報を受ける。
出典:『太閤さま軍記のうち』
天正20年 1592年 6月14日
夜、平壌城より高彦伯、柳璟令が大同江(平安川)に布陣する日本軍の
宗義智
の陣を夜襲する。
小西行長
、
黒田長政
が応戦し、日本軍が勝利する。
出典:『
菅氏世譜
』
天正20年 1592年 7月16日
安定館にてと祖承訓・史儒率いる明軍と
小西行長
が戦う。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」
天正20年 1592年 8月10日
安定館にてと祖承訓・史儒率いる明軍と
小西行長
・
黒田長政
・
立花宗茂
が戦い、日本軍が勝利する。史儒が戦死する。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」
天正20年 1592年 10月27日
李如松率いる明軍50000が山海関を出立する。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」
文禄1年 1592年 12月25日
李如松率いる明軍50000が鴨緑江を渡る。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」
文禄2年 1593年 1月3日
李如松率いる明軍50000が安定館に到着する。
小西行長
が
大友義統
、
黒田長政
、
小早川秀包
に加勢を依頼する。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」
文禄2年 1593年 1月6日
李如松率いる明軍43000と朝鮮軍8000が、
小西行長
・
宗義智
・松浦鎮信・
有馬晴信
・大村喜前・五島純玄が守る平壌を攻める。行長が明軍を退ける。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」
文禄2年 1593年 1月8日
夜、
小西行長
が平壌城より撤退する。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」
文禄2年 1593年 1月9日
8日夜に平壌城を撤退し明軍の追撃を受けていた
小西行長
が黒田家家臣・小河信章の守る龍泉寺に入城する。信章は行長を追う明を退ける。
黒田長政
が行長を白川城に迎える。行長は撤退を勧めるが、長政および
小早川秀包
は応戦を主張し、行長には撤退を勧める。龍泉城の信章は
栗山利安
の陣取る江陰に入り、秀包は牛峯に陣取る。
明軍は江陰を攻め、黒田勢の利安・黒田直之・母里友信・後藤基次・衣笠景延が応戦する。黒田勢は長政本陣の白川城まで引き上げる。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」
文禄2年 1593年 1月10日
黒田長政
が籠る白川城を明軍が攻める。長政が明軍を退ける。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」
文禄2年 1593年 1月16日
李如松率いる明軍が開城府に入城する。
出典:『黒田家譜』巻7「長政記」
文禄2年 1593年 2月18日
豊臣秀吉
が
小西行長
、
黒田長政
に開城府に陣取るよう命じる。
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状写(『浅野家文書』262号)
文禄2年 1593年 2月18日
豊臣秀吉
が
小早川隆景
に漢城に陣取るよう命じる。
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状写(『浅野家文書』262号)
文禄2年 1593年 5月20日
豊臣秀吉
が牧使城の包囲を命じる。包囲の衆は、
鍋島直茂
(軍勢7642)、
黒田長政
(軍勢5082)、
加藤清正
・相良頼房(軍勢6790)、毛利吉成(軍勢1671)、
島津義弘
(軍勢2128)、
高橋元種
(軍勢741)、
秋月種長
(軍勢388)、島津忠豊(476)、
伊東祐兵
(706)の総勢30980と
小西行長
・
宗義智
・松浦鎮信・大村喜前・五島純玄・
有馬晴信
(軍勢7415)、
長谷川秀一
(軍勢2470)、
細川忠興
(軍勢2296)、昌原十一人衆(軍勢4400)、
浅野長政
・
長継
父子(軍勢4000)、織田秀信(軍勢4018)、
伊達政宗
(軍勢1258)、
黒田孝高
(軍勢325)の総勢52000。
出典:文禄3年5月20日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』955号)
文禄2年 1593年 6月24日
宇喜多秀家
、
毛利秀元
、
小早川隆景
、
吉川広家
、
黒田長政
、
加藤清正
、
小西行長
、
浅野長政
率いる軍勢45000が晋州城を包囲する。
出典:『陰徳太平記』巻79「遊撃将軍請和並晋州城落去之事」
慶長2年 1597年 2月21日
豊臣秀吉
が朝鮮攻めの陣立を定める。
1・2番
加藤清正
(軍勢10000)、
小西行長
(軍勢7000)、
宗義智
(軍勢1000)、松浦鎮信(軍勢3000)、
有馬晴信
(軍勢2000)、大村喜前(軍勢1000)、五島純玄(軍勢700)
3番
黒田長政
(軍勢5000)、毛利吉成・勝永(軍勢2000)、
島津豊久
(軍勢800)、
高橋元種
(軍勢600)、
秋月種長
(軍勢300)、
伊東祐兵
(軍勢500)、相良長毎(軍勢800)
4番
鍋島直茂
・
勝茂
(軍勢12000)
5番
島津義弘
(軍勢10000)
6番
長宗我部元親
(軍勢3000)、
藤堂高虎
(軍勢2800)、池田秀氏(軍勢2800)、
加藤嘉明
(軍勢2400)、来島通総(軍勢600)、
中川秀成
(軍勢1500)、菅達長(軍勢200)
7番
蜂須賀家政
(軍勢7200)、
生駒親正
(軍勢2700)、
脇坂安治
(軍勢1200)
8番
毛利秀元
(軍勢30000)、
宇喜多秀家
(軍勢10000)
釜山かい城在番
小早川秀秋
(軍勢10000)
あんこうらいの城在番
立花宗茂
(軍勢5000)
加徳城在番
高橋直次
(軍勢500)、筑紫広門(軍勢500)
竹島城在番
毛利秀包
(軍勢1000)
西生浦城在番
浅野幸長
(軍勢3000)
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』271号)
慶長2年 1597年 7月-日
朝鮮国攻めにつき、諸将の攻め口を定める。船手は熊谷直盛・早川長政を奉行に、
毛利秀元
、
九鬼守隆
、
寺沢広高
、
長宗我部元親
、池田秀氏、小川祐滋、
中川秀成
、
伊東祐兵
、
立花宗茂
、
脇坂安治
、来島通総、
菅三郎兵衛
、菅右衛門八郎、
宍戸元続
、
安国寺恵瓊
を宛て、陸路北方は
太田一吉
を奉行に
加藤清正
を宛て、陸路中方は
竹中重利
を奉行に、
加藤嘉明
、
蜂須賀家政
、
生駒親正
、毛利吉成、毛利勝永、
島津豊久
、
秋月種長
、
高橋元種
、相良頼房を宛て、陸路南方は
毛利高政
を奉行に、
宇喜多秀家
、
小西行長
、
藤堂高虎
、
島津義弘
を宛てる。
出典:『朝鮮記 乾』
慶長2年 1597年 8月9日
豊臣秀吉
が、
西笑承兌
作成したバタン国への返書を確認のうえ、承兌に金印を捺させ
長束正家
に渡す。
朝鮮より注進がある。唐島に駐屯し豊臣軍の軍船を止めていた朝鮮軍に対し、
小西行長
、
藤堂高虎
、
脇坂安治
、
加藤嘉明
、
島津忠恒
、
島津義弘
が唐島に夜襲をしかけ、数千人を討ち取るとともに船を焼く。この注進を受け、秀吉は朝鮮に出陣するとの意向を示す。
徳川家康
、
上杉景勝
、
前田利家
を呼び出す。利家は病のため召しに応じることができず。
出典:『鹿苑日録』同年月日条
慶長2年 1597年 8月12日
宇喜多秀家
、
太田一吉
、
藤堂高虎
、
脇坂安治
、
小西行長
、
竹中重利
、
加藤嘉明
、
島津義弘
、来島通総、
菅三郎兵衛
、菅右衛門八郎、
蜂須賀家政
、
毛利高政
、
生駒親正
、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、
島津豊久
、
秋月種長
、
高橋元種
、相良頼房、
伊東祐兵
が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を包囲する。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、
宇喜多詮家
[宇喜多秀家勢]、
戸川達安
[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、
藤堂高刑
[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『朝鮮記 乾』
慶長2年 1597年 8月13日
宇喜多秀家
、
太田一吉
、
藤堂高虎
、
脇坂安治
、
小西行長
、
竹中重利
、
加藤嘉明
、
島津義弘
、来島通総、
菅三郎兵衛
、菅右衛門八郎、
蜂須賀家政
、
毛利高政
、
生駒親正
、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、
島津豊久
、
秋月種長
、
高橋元種
、相良頼房、
伊東祐兵
が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を攻める。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、
宇喜多詮家
[宇喜多秀家勢]、
戸川達安
[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、
藤堂高刑
[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『朝鮮記 乾』
慶長2年 1597年 8月14日
宇喜多秀家
、
太田一吉
、
藤堂高虎
、
脇坂安治
、
小西行長
、
竹中重利
、
加藤嘉明
、
島津義弘
、来島通総、
菅三郎兵衛
、菅右衛門八郎、
蜂須賀家政
、
毛利高政
、
生駒親正
、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、
島津豊久
、
秋月種長
、
高橋元種
、相良頼房、
伊東祐兵
が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を攻める。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、
宇喜多詮家
[宇喜多秀家勢]、
戸川達安
[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、
藤堂高刑
[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『朝鮮記 乾』
慶長2年 1597年 8月15日
宇喜多秀家
、
太田一吉
、
藤堂高虎
、
脇坂安治
、
小西行長
、
竹中重利
、
加藤嘉明
、
島津義弘
、来島通総、
菅三郎兵衛
、菅右衛門八郎、
蜂須賀家政
、
毛利高政
、
生駒親正
、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、
島津豊久
、
秋月種長
、
高橋元種
、相良頼房、
伊東祐兵
が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を攻め、この城を落とす。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、
宇喜多詮家
[宇喜多秀家勢]、
戸川達安
[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、
藤堂高刑
[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『相国考記』同年9月16日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)、『朝鮮記 乾』
慶長2年 1597年 8月17日
南原城を破却する。
出典:『朝鮮記 乾』
慶長2年 1597年 12月2日
小西行長
が、
宇喜多秀家
、
藤堂高虎
より普請の成った順天城を請け取る。
出典:浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)
慶長3年 1598年 2月-日
小早川秀秋
が諸城の城主を定める。蔚山城は
加藤清正
を、西生海城は毛利吉成を、釜山城は
寺沢広高
を、竹島城は
鍋島勝茂
を、リヤク山城は
黒田長政
を、コチャウ城は
立花宗茂
を、泗川城は
島津義弘
を、南海城は柳川調信を、順天城は
小西行長
を城主とする。
出典:『朝鮮記 乾』
慶長3年 1598年 8月18日
豊臣秀吉
が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条
慶長5年 1600年 8月1日
石田三成
等が
伏見城
(山城国)が攻め落とす。
鳥居元忠
、
松平近正
、
松平家忠
、
内藤家長
、岩間兵庫、上林竹庵が討死する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史研究』)、『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項
慶長5年 1600年 8月16日
石田三成
が居城・
佐和山城
(近江国)を出陣し、
大垣城
(美濃国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻10「長政記」
慶長5年 1600年 8月23日
福島正則
、
池田輝政
、
細川忠興
、
加藤嘉明
、
浅野幸長
、
山内一豊
、
井伊直政
、
本多忠勝
等が
織田秀信
の籠る
岐阜城
(美濃国)を攻め、同城を落とす。
攻衆:井伊直政[惣奉行][瑞龍寺出丸]、本多忠勝[総奉行][瑞龍寺出丸]、福島正則[大手町口]、加藤嘉明[大手町口]、細川忠興[浄土口]、山内一豊[浄土口]、浅野幸長[瑞龍寺出丸]、池田輝政[長良川の城搦手](一番乗)、
細川忠隆
[細川忠興勢]、細川興秋[細川忠興勢]、
伊木忠次
[池田輝政勢]、
池田利隆
[池田輝政勢]、
池田長吉
[池田輝政勢]。
織田秀信勢:織田秀信[大将]。
出典:『関原始末記』、(慶長5年)8月24日付福島正則書状(『浅野家文書』114号)、『寛政重修諸家譜』巻第105「細川忠隆」、同105「細川興秋」の項、同263「池田利隆」の項、同267「池田長吉」の項、同773「加藤嘉明」の項
慶長5年 1600年 9月14日
宇喜多秀家
、
小西行長
、
長束正家
、
石田三成
、
大谷吉継
、
安国寺恵瓊
の連名で、
小早川秀秋
に対し、
豊臣秀頼
が15歳になるまで関白職と天下の進退を秀秋に委ねること、播磨国を給付すること、秀秋家老の稲葉佐渡守・平岡頼勝に近江国内で10万石と金子300枚を給付することを記した誓詞を発給する。
深夜、関ヶ原に陣取る。
出典:『関原始末記』
慶長5年 1600年 9月15日
関ヶ原の合戦で
徳川家康
と
石田三成
が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。
黒田長政
・
加藤嘉明
・
細川忠興
・
金森長近
が
石田三成
と、
福島正則
・
松平忠吉
・
井伊直政
が
宇喜多秀家
・
小西行長
と、
藤堂高虎
が
大谷吉継
と戦い、
池田輝政
・
浅野幸長
が南宮山の
毛利秀元
・
吉川広家
・
安国寺恵瓊
・
長束正家
・
長宗我部盛親
と対峙する。戦中、
小早川秀秋
が寝返り、
大谷吉継
勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。
島津義弘
・
島津豊久
は伊勢路からの撤退を企て、
井伊直政
の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、
酒井重忠
[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、
松平康安
[徳川家康勢]、
小栗忠政
[徳川家康勢]、
花房職秀
[徳川家康勢]、
油川信貞
[徳川家康勢]、
三枝守英
[徳川家康勢]、
岩瀬氏与
[徳川家康勢・使番]、
鈴木重次
[徳川家康勢]、
鈴木信光
[徳川家康勢 御使番]、
森可澄
[徳川家康勢]、
加藤正次
[徳川家康勢]、
酒依昌吉
[徳川家康勢]、
小倉吉正
[水野重央勢]、
黒田一成
[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、
藤堂高刑
[藤堂高虎勢]、
池田利隆
[池田輝政勢]、
池田長吉
[池田輝政勢]、
伊木忠次
[池田輝政勢]、
森可政
[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、
川尻秀長
(戦死)、
島清興
[石田三成勢](戦死)、
大谷吉治
[大谷吉継勢]、
湯浅隆貞
[大谷吉継勢](戦死)、
福留政親
[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』、『
菅氏世譜
』
慶長5年 1600年 9月-日
小西行長
が糟賀部村にて関ヶ原の町人 林蔵人に捕らえられる。
出典:『関原始末記』
慶長5年 1600年 9月19日
草津(近江国)に陣取る
徳川家康
のもとに
竹中重門
が捕らえた
小西行長
の身柄が引き渡される。行長の身柄は村越茂助が預かる。
出典:(慶長5年)9月19日付徳川家康朱印状(東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号252)、『関原始末記』
慶長5年 1600年 10月1日
石田三成
、
小西行長
、
安国寺恵瓊
が
大坂城
(摂津国)より京都に送られ、洛中にて引き回しのうえ、六条河原にて処刑される。3名の首は三条橋にて晒される。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻11「長政記」
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