人 物 史

長宗我部信親 ちょうそかべ のぶちか
生 没 年永禄8年(1565)-天正14年(1586)12/12
出 身土佐国幼 名千雄丸
別 称弥三郎
法 名-
戒 名天甫寺常舜禅定門
長宗我部元親石谷光政の娘
兄 弟 姉 妹長宗我部信親、香川親和、津野親忠、長宗我部盛親、長宗我部右近大夫、長宗我部康豊、女(一条内政の妻)、女(吉良親実の妻)、阿古(佐竹親直の妻)、女(吉松十右衛門の妻)
配 偶 者石谷頼辰の娘
娘(長宗我部盛親の妻)
官 位-
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ長宗我部信親の関連文化財
長宗我部信親 年表
永禄8年 1565年 -月-日 1歳
長宗我部信親が生まれる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 6歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 9歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正3年 1575年 -月-日 11歳
弟・盛親が生まれる。
出典:-

天正10年 1582年 8月28日 18歳
長宗我部元親勝瑞城(阿波国)を攻めるべく、軍勢を香宗我部親泰を大将とする勢と長宗我部親吉を大将とする二手に分ける。一宮成助、桑野康明が先陣。これに対し、三好存保は勝瑞城より出陣し、勝興寺に本陣を、先陣を中富川に置く。中富川にて元親と存保が戦い、元親が勝利する。長宗我部信親は元親の制止を振り切り川を押し渡り三好勢に攻め入る。
出典:『南海通紀』巻15「阿州中富川合戦記」

天正13年 1585年 4月1月23日日 21歳
羽柴秀吉の命により長宗我部元親を討伐すべく讃岐国に向かう宇喜多秀家の軍勢15000、蜂須賀正勝黒田孝高仙石秀久・尾藤知宣・杉原家次・小西行長の軍勢8000が屋島(讃岐国)に着陣する。
出典:『南海通紀』巻17「備前播磨軍将出陣讃州記」

天正13年 1585年 4月24日 21歳
羽柴秀長長宗我部元親を攻めるため、阿波国に向けてより出船する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 4月25日 21歳
羽柴秀長率いる軍勢が福良(淡路国)を経由し土佐泊(阿波国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 4月-日 21歳
羽柴秀次長宗我部元親を攻めるべく丹波国の軍勢を率い播磨国を経由し岩屋(淡路国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 6月16日 21歳
長宗我部元親を対治するため、羽柴秀吉が弟・秀長を四国に出陣させる。
出典:『宇野主水記』同年7月3日条

天正13年 1585年 7月3日 21歳
長宗我部元親の対治のため羽柴秀吉が洲本(淡路国)に着陣する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 7月5日 21歳
羽柴秀長が木津城(阿波国)を攻め、落とす。長宗我部元親は木津城の後詰に出ていたが、落城したため土佐国に帰国する。
出典:『宇野主水記』同年7月3日条

天正13年 1585年 10月15日 21歳
長宗我部元親信親父子が土佐国へ帰国するため大坂城(摂津国)を発つ。
今井宗久を介し桑名太郎左衛門を本願寺顕如のもとに遣わし、太刀1腰、馬1疋(栗毛)を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 12月7日 22歳
島津家久が利光宗魚の籠る鶴賀城(豊後国)を攻める。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月8日 22歳
島津家久が利光宗魚の籠る鶴賀城(豊後国)を攻める。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月9日 22歳
島津家久が利光宗魚の籠る鶴賀城(豊後国)を攻める。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月10日 22歳
島津家久が利光宗魚の籠る鶴賀城(豊後国)を攻め、城が落ちる。宗魚は戦死する。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月12日 22歳
戸次川の戦いで島津家久仙石秀久長宗我部元親・十河存保が戦い、家久が勝利する。存保、長宗我部信親が戦死する。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

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