人 物 史

蜂須賀正勝 はちすか まさかつ
生 没 年大永6年(1526)-天正14年(1586)5/22
出 身尾張国海東郡蜂須賀郷幼 名-
別 称小六、小六郎、彦右衛門、利正
法 名-
戒 名福聚院殿良巌浄張大居士
蜂須賀正利-
兄 弟 姉 妹蜂須賀正勝、蜂須賀又十郎、蜂須賀正信、墨(織田喜七郎の妻)、蜂須賀正元、女(梶浦雅範の妻)
配 偶 者松(三輪吉高の娘)、白雲院(鳥井越中守の娘)
奈良(中山直親の妻、賀島長昌の妻)、蜂須賀家政、宝珠院(黒田長政の妻)、娘(前田秀以の妻)
官 位修理大夫
役 職-
城 郭長水城(播磨国)、龍野城(播磨国)、徳島城(阿波国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ蜂須賀正勝の関連文化財
蜂須賀正勝 年表
大永6年 1526年 -月-日 1歳
尾張国海東郡蜂須賀村にて蜂須賀正勝が生まれる。
出典:『系図纂要』「蜂須賀家」

享禄1年 1528年 8月20日 3歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 7歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 30歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 33歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 -月-日 33歳
子・家政が尾張国丹羽郡宮後村にて生まれる。
出典:『系図纂要』「蜂須賀家」

永禄3年 1560年 5月19日 35歳
桶狭間にて織田信長今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:森可成前田利家
今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項

永禄9年 1566年 9月1日 41歳
木下秀吉が墨俣(美濃国)に城を築くべく北方の渡に用材を整え、筏で流す。
出典:『太閤記』巻1「秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事」

永禄9年 1566年 9月4日 41歳
織田信長が墨俣(美濃国)に向けて小牧山城(尾張国)より出陣する。
出典:『太閤記』巻1「秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事」

永禄9年 1566年 9月5日 41歳
木下秀吉が墨俣(美濃国)にて城普請を始める。
斎藤龍興が墨俣(美濃国)で城普請をしている織田信長勢を攻め、織田勢は応戦する。
出典:『太閤記』巻1「秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事」

永禄9年 1566年 9月7日 41歳
木下秀吉が墨俣(美濃国)にて普請をした城がおおよそ竣工する。
出典:『太閤記』巻1「秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事」

永禄9年 1566年 9月24日 41歳
斎藤龍興が墨俣城(美濃国)を攻める。墨俣城在番の木下秀吉蜂須賀正勝稲田植元が応戦し、龍興勢を退ける。
出典:『太閤記』巻1「秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事」

元亀1年 1570年 4月23日 45歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀2年 1571年 5月6日 46歳
浅井長政が姉川(近江国)まで進出し横山城(近江国)に備えつつ箕浦(近江国)を放火する。下長沢・下坂にて長政と木下秀吉が戦う。
出典:『信長公記』巻4(2)「箕浦合戦の事」、『当代記』巻1同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 48歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 8月27日 48歳
羽柴秀吉小谷城(近江国)京極丸を攻略し、浅井久政長政父子を分断する。秀吉は小丸に籠る久政を攻め、久政は切腹する。久政の首は織田信長の居る虎御前山に届けられる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日 48歳
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

天正6年 1578年 4月-日 53歳
吉川元春小早川隆景宇喜多忠家尼子勝久山中幸盛の籠る上月城(播磨国)に攻め寄せる。羽柴秀吉荒木村重が救援に赴くが、城が落城する。
出典:『信長公記』巻11(6)「高倉山西国陣之事」

天正6年 1578年 6月26日 53歳
羽柴秀吉荒木村重が高倉山(播磨国)の陣所を引き払い、書写山(播磨国)に移る。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 6月27日 53歳
神吉城(播磨国)攻めにつき、同城の北東に織田信忠神戸信孝佐久間信盛林秀貞細川藤孝が、西の山に丹羽長秀が布陣する。他に織田信包明智光秀荒木村重稲葉一鉄滝川一益筒井順慶蜂屋頼隆が城攻めに加わる。城攻めに際し、信孝が足軽衆と先陣を争う。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 6月28日 53歳
織田信忠が神吉城(播磨国)を攻める。城の南より織田信包が攻め入り、城の東口を滝川一益丹羽長秀が金掘り衆を入れ、かつ城楼を組み大鉄砲にて攻める。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月15日 53歳
滝川一益丹羽長秀が神吉城(播磨国)東丸を攻め落とす。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月16日 53歳
佐久間信盛荒木村重が神吉城(播磨国)西丸に攻め入る。西丸にて防戦していた神吉藤大夫が降伏する。滝川一益丹羽長秀が神吉城(播磨国)の本丸に攻め入り、神吉民部少輔を討ち取る。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月-日 53歳
羽柴秀吉が志方城(播磨国)を攻める。同城が降伏する。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月-日 53歳
織田信長勢が別所長治の籠る居城・三木城(播磨国)を包囲すべく付城を築く。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正7年 1579年 6月13日 54歳
竹中重治三木城(播磨国)の向城である平山陣所にて病死する。
出典:『黒田家譜』巻2「孝高記」

天正7年 1579年 9月10日 54歳
大村の合戦で、羽柴秀吉別所長治が戦う。長治は谷大膳が籠る羽柴方の付城を一度は落とすも、秀吉が別所甚太夫・別所三太夫・別所左近将監・光枝小太郎・光枝道夕・櫛橋弥五郎・高橋平左衛門・三宅与兵次・小野権左衛門・砥堀孫太夫を討ち取る。
出典:『天正記』「播磨別所記」

天正8年 1580年 1月15日 55歳
羽柴秀吉に兵糧攻めを受けている三木城(播磨国)の別所長治が、自身と別所賀相・別所友之の自害を条件に籠城している兵卒の助命を、書状をもって浅野長政・別所重棟に伝え、秀吉に請う。秀吉は長治の請いを受け入れる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」、『天正記』「播磨別所記」

天正8年 1580年 1月17日 55歳
申刻(15-17時)、三木城(播磨国)にて別所長治別所友之が切腹する。三木城が羽柴秀吉の手に落ちる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」、『天正記』「播磨別所記」、『豊臣記』

天正8年 1580年 6月5日 55歳
夜中、宇野祐清が宍粟郡(播磨国)より逃亡する。木下平太輔、蜂須賀正勝が追撃する。
出典:『信長公記』巻13(8)「因幡・伯耆両国に至って羽柴発向の事」

天正9年 1581年 11月6日 56歳
羽柴秀吉鳥取城(因幡国)に入り、各城に在番兵を配置する。
出典:天正9年11月8日付多雲宛書状写(『豊臣秀吉文書集』1巻-353号)

天正9年 1581年 11月8日 56歳
羽柴秀吉姫路城(播磨国)に入り開陣する。
出典:天正9年11月8日付多雲宛書状写(『豊臣秀吉文書集』1巻-353号)、『信長公記』巻14(13)「伯耆国南条表発向の事」

天正10年 1582年 3月15日 57歳
羽柴秀吉が毛利輝元攻めとして備中国に向けて姫路城(播磨国)より出陣する。
出典:『豊臣記』

天正10年 1582年 5月8日 57歳
羽柴秀吉高松城(備中国)を包囲する。
出典:天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)

天正10年 1582年 6月2日 57歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月4日 57歳
高松城(備中国)に籠城していた清水宗治、清水宗知、難波宗忠、末近信賀が、毛利・羽柴両軍が見守る中で切腹する。
出典:-

天正10年 1582年 6月10日 57歳
羽柴秀吉中川清秀明智光秀が久我(山城国)あたりに在陣しているという風聞を伝えるとともに、11日には兵庫(摂津国)もしくは西宮まで進軍することを伝える。清秀には摂津国境界を固めるようにと伝える。(秀吉書状)
筒井順慶が秀吉に同心する旨を誓った起請文を発給する。(『多』)
出典:天正10年6月10日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-430号)、『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 6月12日 57歳
明智光秀が八幡、山崎(以上、山城国)に布陣する。
羽柴秀吉池田恒興とともに摂津国に軍勢を進める。中川清秀高山重友を先陣をつとめ山崎(山城国)に布陣。以下、羽柴勢は山崎から天神馬場(摂津国)に展開する。秀吉は織田信孝を待つため富田(摂津国)に宿す。
出典:『多聞院日記』同年月日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)

天正10年 1582年 6月13日 57歳
山崎(山城国)にて織田信孝羽柴秀吉明智光秀が戦い、信孝・秀吉が勝利する。
織田信孝・羽柴秀吉勢:高山重友中川清秀堀秀政池田恒興羽柴秀長黒田孝高、神子田半左衛門、加藤光泰木村重茲中村一氏加藤清正[羽柴秀吉勢]、栗山利安[黒田孝高勢]、堤教利[丹羽長秀勢](首級4)。
明智光秀勢:明智光秀[大将]、明智光近(戦死)、斎藤利宗伊勢貞興(戦死)、安田国継
敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。
秀吉は勝龍寺城に入城する。
出典:『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項、『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」

天正11年 1583年 4月24日 58歳
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

天正11年 1583年 -月-日 58歳
蜂須賀正勝龍野城(播磨国)主となる。
出典:『系図纂要』「蜂須賀家」

天正12年 1584年 9月9日 59歳
杉原家次が死去する。
出典:-

天正12年 1584年 -月-日 59歳
黒田長政が糸(蜂須賀正勝の娘)を娶る。
出典:『黒田家譜』巻2「孝高記」

天正13年 1585年 3月26日 60歳
羽柴秀吉が太田左近の籠る太田城(紀伊国)を水攻めにすることとし、朝から城廻りに柵および堤防の普請を始める。この城攻めに羽柴秀吉勢として参加する。
出典:『太田水責記』、『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

天正13年 1585年 4月1日 60歳
羽柴秀吉が太田左近の籠る太田城(紀伊国)を水攻めにすべく、宮井・小倉井より注水を開始する。
出典:『太田水責記』

天正13年 1585年 4月9日 60歳
羽柴秀吉が太田左近の籠る太田城(紀伊国)を水攻めにしている最中、酉刻(17-19時)、宇喜多秀家持ち場の堤防が切れる。
出典:『太田水責記』

天正13年 1585年 4月22日 60歳
蜂須賀正勝、前野長康が起請文をもって、水攻め中の太田城(紀伊国)に籠る太田左近と和睦する。和睦の条件は、羽柴勢が51名戦死したため、太田城側も左近をはじめ主要の者51名の切腹を条件とする。
羽柴秀吉が鉄砲筒・腰刀を徴発する(原刀狩令)。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月1月23日日 60歳
羽柴秀吉の命により長宗我部元親を討伐すべく讃岐国に向かう宇喜多秀家の軍勢15000、蜂須賀正勝黒田孝高仙石秀久・尾藤知宣・杉原家次・小西行長の軍勢8000が屋島(讃岐国)に着陣する。
出典:『南海通紀』巻17「備前播磨軍将出陣讃州記」

天正13年 1585年 4月24日 60歳
羽柴秀長長宗我部元親を攻めるため、阿波国に向けてより出船する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 4月25日 60歳
羽柴秀長率いる軍勢が福良(淡路国)を経由し土佐泊(阿波国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 4月-日 60歳
羽柴秀次長宗我部元親を攻めるべく丹波国の軍勢を率い播磨国を経由し岩屋(淡路国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 6月16日 60歳
長宗我部元親を対治するため、羽柴秀吉が弟・秀長を四国に出陣させる。
出典:『宇野主水記』同年7月3日条

天正13年 1585年 7月3日 60歳
長宗我部元親の対治のため羽柴秀吉が洲本(淡路国)に着陣する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 7月5日 60歳
羽柴秀長が木津城(阿波国)を攻め、落とす。長宗我部元親は木津城の後詰に出ていたが、落城したため土佐国に帰国する。
出典:『宇野主水記』同年7月3日条

天正13年 1585年 7月15日 60歳
豊臣秀次を大将として蜂須賀正勝家政父子、仙石秀久堀秀政長谷川秀一、日根野弘就・盛就兄弟、浅野長政、前野長康、高山重友一柳直末、戸田勝隆が長宗我部親吉の籠る脇城(阿波国)を攻める。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正13年 1585年 7月16日 60歳
豊臣秀次を大将として蜂須賀正勝家政父子、仙石秀久堀秀政長谷川秀一、日根野弘就・盛就兄弟、浅野長政、前野長康、高山重友一柳直末、戸田勝隆が長宗我部親吉の籠る脇城(阿波国)を攻め、外城を落とす。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正14年 1586年 1月2日 61歳
孫・至鎮が生まれる。
出典:-

天正14年 1586年 5月22日 61歳
蜂須賀正勝が死去する。
出典:『系図纂要』「蜂須賀家」

人物リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.