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事項 |
出典 |
永正17年 | 1520 | 6 | 10 | 細川澄元が勝瑞城(阿波国)にて死去する。 | 『陰徳太平記』巻4「細川澄元囲越水城付細川高国後詰之事」 |
享禄5年 | 1532 | 6 | 20 | 細川晴元が本願寺証如に要請して馳せ集まった摂津・河内・和泉の一向一揆100000に、三好元長の居所である堺の顕本寺が攻められる。追い詰められた元長は、三好一秀、塩田若狭守、加地丹波守等とともに自害する。 | 『厳助大僧正記』同年月日条、『言継卿記』同年月22日条 |
天文1年 | 1532 | 8 | 9 | 三好千熊丸・千満丸兄弟が連署で父・元長の菩提所である見性寺に阿波国上郡山本分を寄進する。 | 天文1年8月9日付三好長慶・三好実休連署書下(「見性寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-101号) |
天文22年 | 1553 | 6 | 9 | 三好之虎が細川持隆を見性寺に攻め自害に追い込む。 | 『足利季世記』巻5「細川讃岐守生害ノ事」 |
永禄3年 | 1560 | 4 | 8 | 洲本(淡路国)にて、不和となっていた三好長慶と三好之虎が会見する。之虎は出家し物外軒実休と号す。 | 『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」 |
永禄3年 | 1560 | 6 | 24 | 畠山高政討伐のため三好長慶の催促をうけた三好実休が四国衆を率い尼崎(摂津国)に到着する。 | 『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」 |
永禄5年 | 1562 | 3 | 5 | 久米田(河内国)にて畠山高政・安見宗房・遊佐信教・根来寺衆と三好実休が戦い、実休が戦死する。実休の辞世「草からす 霜又今朝ノ 日に消て 報の程は 終にのかれず」。 この戦いにより高屋城(河内国)が落ちるとともに、三好長慶の居城・飯盛山城を除く河内国の三好方の諸城が畠山高政方に靡く。 | 『厳助往年記』同年月6日条、『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」 |
永禄5年 | 1562 | 3 | 6 | 三好実休が戦死したため、安宅冬康は在番していた岸和田城(和泉国)を放棄する。同城は畠山高政の支配下となる。 足利義輝が慶寿院とともに八幡(山城国)に移る。 六角義賢が勝軍地蔵城(山城国)から清水坂に陣を移す。 三好長慶は山崎(山城国)に撤退する。 | 『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」 |
永禄7年 | 1564 | 7 | 24 | 三好長慶が死去する。養子・義継が幼齢であるとして長慶の死は秘匿される。 | 『足利季世記』巻6「冬康生害之事」 |
元亀4年 | 1573 | 3 | 22 | 篠原長房が三好長治の居城・勝瑞城(阿波国)を去り、所領の河島(阿波国)に退去する。 | 『南海通紀』巻10「阿州河島合戦記」 |
元亀4年 | 1573 | 5 | 20 | 三好長治が篠原長房を討つべく、勝瑞城(阿波国)より十河存保を大将として長房領の河島(阿波国)に軍勢を遣わす。 | 『南海通紀』巻10「阿州河島合戦記」 |
元亀4年 | 1573 | 7 | 16 | 三好長治の命を受けた十河存保が篠原長房の居城の上桜城(阿波国)を攻める。長房は応戦するも、敗れて自害する。 三好長治勢:十河存保[大将]、植松帯刀(篠原長重討取)。 篠原長房勢:篠原長房[大将](自害)、篠原長重(戦死)。 | 『南海通紀』巻10「阿州河島合戦記」 |
天正4年 | 1576 | 12 | 5 | 細川真之が勝瑞城(阿波国)を出て福浦出羽守を頼み、伊井谷に逃れる。 | 『南海通紀』巻11「三好長治滅亡記」 |
天正6年 | 1578 | 1 | - | 十河存保が勝瑞城(阿波国)に入城する。 | 『南海通紀』巻13「阿州重清遭殺害記」 |
天正8年 | 1580 | 1 | 3 | 十河存保が勝瑞城(阿波国)を脱し、十河城(讃岐国)に移る。 | 『南海通紀』巻14「三好存保帰讃州十河城記」 |
天正10年 | 1582 | 8 | 28 | 長宗我部元親が勝瑞城(阿波国)を攻めるべく、軍勢を香宗我部親泰を大将とする勢と長宗我部親吉を大将とする二手に分ける。一宮成助、桑野康明が先陣。これに対し、三好存保は勝瑞城より出陣し、勝興寺に本陣を、先陣を中富川に置く。中富川にて元親と存保が戦い、元親が勝利する。戦後、元親は勝瑞城を攻めるべく同城の北にある龍音寺に陣取る。 | 『南海通紀』巻15「阿州中富川合戦記」・「勝瑞城攻記」 |
天正10年 | 1582 | 9 | 12 | 篠原自遁より羽柴秀吉に勝瑞城(阿波国)のことにつき注進があったため、秀吉が仙石秀久に淡路衆を引き連れ出陣するように命じる。また、生駒親正・明石則実に篠原自遁の居城まで渡海するように命じる。加えて黒田孝高に野口孫五郎の居城まで赴き、親正・則実の渡海を支援するように命じる。 | 天正10年9月12日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-487号) |