人 物 史

長宗我部元親 ちょうそかべ もとちか
生 没 年天文8年(1539)-慶長4年(1599)5/19
出 身土佐国幼 名-
別 称弥三郎、土佐侍従
法 名雲蹊恕三
戒 名雲蹊恕三大禅定門
長宗我部国親斎藤氏の娘
兄 弟 姉 妹長宗我部元親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部親益、女(本山茂辰の妻)、女(池頼和の妻)、養甫尼(波川清宗の妻)
配 偶 者石谷光政の娘
長宗我部信親、香川親和、津野親忠、長宗我部盛親、長宗我部右近大夫、長宗我部康豊、女(一条内政の妻)、女(吉良親実の妻)、阿古(佐竹親直の妻)、女(吉松十右衛門の妻)
官 位宮内少輔、土佐守、侍従
役 職-
城 郭岡豊城(土佐国)、浦戸城(土佐国)
参 考 文 献長宗我部元親に関する参考文献
関 連 デ ー タ長宗我部元親の関連文化財
長宗我部元親の家臣
長宗我部元親 年表
天文8年 1539年 -月-日 1歳
長宗我部元親が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 17歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 20歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄3年 1560年 5月26日 22歳
長宗我部国親が本山茂達の家臣・大窪美作守が守る長浜城(土佐国)を急襲し、同城を落とす。
出典:『南海通紀』巻12「長宗我部宮内少輔抜長浜城記」

永禄3年 1560年 5月28日 22歳
本山茂辰が朝倉城(土佐国)より出陣し、長浜城(土佐国)を攻めるため木須賀に陣取る。
出典:『南海通紀』巻12「長宗我部宮内少輔抜長浜城記」

永禄3年 1560年 5月29日 22歳
戸ノ本(土佐国)にて本山茂辰と長宗我部国親元親が戦い、国親が勝利する。
出典:『南海通紀』巻12「長宗我部宮内少輔抜長浜城記」

永禄3年 1560年 6月15日 22歳
父・国親が死去する。
出典:『南海通紀』巻12「長宗我部宮内少輔抜長浜城記」

永禄8年 1565年 -月-日 27歳
子・信親が生まれる。
出典:-

永禄12年 1569年 8月11日 31歳
安芸国虎が浄貞寺(土佐国)にて自害する。
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元亀1年 1570年 4月23日 32歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 35歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 9月16日 35歳
一条兼定が隠居し、家督を一条内政に譲る。兼定は妻の生家である大友宗麟のもとに身を寄せる。
出典:『陰徳太平記』巻50「一条兼定卿御流離之事」

天正3年 1575年 -月-日 37歳
子・盛親が生まれる。
出典:-

天正7年 1579年 4月28日 41歳
高篠郷(讃岐国)にて長宗我部元親勢の先陣である石川・金子・新居・曽我部等と羽床資載が戦い、資載が勝利する。
出典:『南海通紀』巻14「土州元親出陣讃州羽床記」

天正7年 1579年 4月29日 41歳
高篠郷(讃岐国)にて長宗我部元親と羽床資載が戦い、元親が勝利する。
出典:『南海通紀』巻14「土州元親出陣讃州羽床記」

天正7年 1579年 4月30日 41歳
香川信景の勧めにより、羽床資載が長宗我部元親に降伏する。
出典:『南海通紀』巻14「土州元親出陣讃州羽床記」

天正7年 1579年 -月-日 41歳
長宗我部元親の子・五郎次郎が、香川信景の娘と婚儀し、香川家に養子入りする。
出典:『南海通紀』巻13「香川信景降り土州元親記」

天正8年 1580年 6月26日 42歳
長宗我部元親明智光秀の執奏のもと織田信長に音信として鷹16連、砂糖3000斤を贈る。
出典:『信長公記』巻13(8)「因幡・伯耆両国に至って羽柴発向の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正10年 1582年 5月11日 44歳
神戸信孝が四国に渡海すべく、軍勢を率い住吉(摂津国)に入る。
出典:『信長公記』巻15(24)「阿波国神戸三七御拝領の事」

天正10年 1582年 6月2日 44歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 7月20日 44歳
西長尾(讃岐国)にいる長宗我部元親のもとに、香川親和、羽床資載、大西上野介、中内源兵衛、国吉三郎兵衛、馬立中務大輔、新居、前川、曽我部、金子、石川、目取等の讃岐・伊予国衆12000が参集する。
出典:『南海通紀』巻15「土佐元親出陣於阿讃二路記」

天正10年 1582年 7月20日 44歳
香川親和、羽床資載等が率いる長宗我部勢が西長尾(讃岐国)を発し讃岐国那珂郡・鵜足郡に攻め入る。
出典:『南海通紀』巻15「土佐元親出陣於阿讃二路記」

天正10年 1582年 8月5日 44歳
長宗我部勢が佐料城(讃岐国)に陣取る。伊勢馬場(讃岐国)にて滝宮豊後守率いる香西勢と長宗我部勢(伊予国衆)が戦い、長宗我部勢が勝利する。また、西光寺にて香西太郎左衛門と国吉三郎兵衛・中内源兵衛・大西上野介率いる長宗我部勢が戦い、長宗我部勢が勝利する。
出典:『南海通紀』巻15「香西伊勢馬場並西光寺表合戦記」

天正10年 1582年 8月-日 44歳
長宗我部元親が宿毛甚左衛門、桑名弥次兵衛、光留権助、津野藤蔵、久武内蔵助、馬場因幡守、吉良播磨守、吉良左京進、江村孫左衛門、桑名太郎左衛門、姫倉豊前守、吉田次郎左衛門、吉田三郎左衛門、山川五郎左衛門、安田又左衛門、桑名丹後守、桑名平右衛門、桑名将監、の中三郎左衛門、北村閑斎、東条関之兵衛、牛岐右京進、仁宇但馬守、四宮肥後守、四宮左馬允等からなる軍勢23000を率い、香宗我部親泰の居城・牛岐城(阿波国)に陣取る。
出典:『南海通紀』巻15「阿州中富川合戦記」

天正10年 1582年 8月11日 44歳
香川親和が讃岐国衆10000を率い国分寺を発し、讃岐国東方に向けて出陣する。
出典:『南海通紀』巻15「西方諸将発向東方十河城記」

天正10年 1582年 8月26日 44歳
長宗我部元親が早淵(阿波国)に陣取る。
出典:『南海通紀』巻15「阿州中富川合戦記」

天正10年 1582年 8月28日 44歳
長宗我部元親勝瑞城(阿波国)を攻めるべく、軍勢を香宗我部親泰を大将とする勢と長宗我部親吉を大将とする二手に分ける。一宮成助、桑野康明が先陣。これに対し、三好存保は勝瑞城より出陣し、勝興寺に本陣を、先陣を中富川に置く。中富川にて元親と存保が戦い、元親が勝利する。戦後、元親は勝瑞城を攻めるべく同城の北にある龍音寺に陣取る。
出典:『南海通紀』巻15「阿州中富川合戦記」・「勝瑞城攻記」

天正10年 1582年 9月21日 44歳
三好存保が東条関之兵衛を通じ長宗我部元親に降伏を申し出る。元親は申し出を拒絶するが、存保が今後二度と元親に敵対しない旨を誓詞を提出すると申し出たので、元親は存保の降伏を受諾する。元親は黒田原に陣を引き、存保は讃岐国に引き挙げる。
出典:『南海通紀』巻15「勝瑞城攻記」

天正10年 1582年 9月-日 44歳
長宗我部元親が、牛岐城(阿波国)に香宗我部親泰を、一宮城(阿波国)に江村孫左衛門を、一宮南城(阿波国)に谷忠澄を、岩倉城(阿波国)に長宗我部掃部頭を、吉田城(阿波国)に北村閑斎を、宍咋城(阿波国)に野中三郎左衛門を、木津城(阿波国)に東条関之兵衛を、渭山城(阿波国)に吉田孫左衛門を、脇ノ城(阿波国)に長宗我部親吉を置く。
出典:『南海通紀』巻15「土州元親阿波国平治記」

天正10年 1582年 10月20日 44歳
長宗我部元親が、十河城(讃岐国)を攻めるべく、岩倉城(阿波国)を発し十河に着陣する。
出典:『南海通紀』巻15「土州元親自阿波発向讃州記」

天正10年 1582年 10月-日 44歳
長宗我部元親が白地城(阿波国)に帰城する。
出典:『南海通紀』巻15「老父夜話記」

天正12年 1584年 3月27日 46歳
長宗我部元親が貝塚本願寺にいる本願寺顕如のもとに年頭の礼として使者を遣わす。顕如は使者と対面する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月1月23日日 47歳
羽柴秀吉の命により長宗我部元親を討伐すべく讃岐国に向かう宇喜多秀家の軍勢15000、蜂須賀正勝黒田孝高仙石秀久・尾藤知宣・杉原家次・小西行長の軍勢8000が屋島(讃岐国)に着陣する。
出典:『南海通紀』巻17「備前播磨軍将出陣讃州記」

天正13年 1585年 4月24日 47歳
羽柴秀長長宗我部元親を攻めるため、阿波国に向けてより出船する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 4月25日 47歳
羽柴秀長率いる軍勢が福良(淡路国)を経由し土佐泊(阿波国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 4月-日 47歳
羽柴秀次長宗我部元親を攻めるべく丹波国の軍勢を率い播磨国を経由し岩屋(淡路国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 5月20日 47歳
羽柴秀吉坂本(近江国)にて体調を崩す。
長宗我部元親討伐につき、羽柴秀吉一柳直末、斎村広英、加藤嘉明、津田小八郎へ6月3日の大坂城(摂津国)よりの出陣を、6月16日に延期することを伝えるとともに、それまでに明石(播磨国)に参集するよう命じる。
出典:『宇野主水記』同年月日条、(天正13年)5月20日付羽柴秀吉朱印状(「加藤子爵家文書」)

天正13年 1585年 6月16日 47歳
長宗我部元親を対治するため、羽柴秀吉が弟・秀長を四国に出陣させる。
出典:『宇野主水記』同年7月3日条

天正13年 1585年 7月3日 47歳
長宗我部元親の対治のため羽柴秀吉が洲本(淡路国)に着陣する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 7月5日 47歳
羽柴秀長が木津城(阿波国)を攻め、落とす。長宗我部元親は木津城の後詰に出ていたが、落城したため土佐国に帰国する。
出典:『宇野主水記』同年7月3日条

天正13年 1585年 7月15日 47歳
豊臣秀次を大将として蜂須賀正勝家政父子、仙石秀久堀秀政長谷川秀一、日根野弘就・盛就兄弟、浅野長政、前野長康、高山重友一柳直末、戸田勝隆が長宗我部親吉の籠る脇城(阿波国)を攻める。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正13年 1585年 7月16日 47歳
豊臣秀次を大将として蜂須賀正勝家政父子、仙石秀久堀秀政長谷川秀一、日根野弘就・盛就兄弟、浅野長政、前野長康、高山重友一柳直末、戸田勝隆が長宗我部親吉の籠る脇城(阿波国)を攻め、外城を落とす。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正13年 1585年 8月5日 47歳
島津領内にて羽柴秀吉勢が四国に渡海し、長宗我部元親の退治と、その後の九州攻めが噂される。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正13年 1585年 10月15日 47歳
長宗我部元親信親父子が土佐国へ帰国するため大坂城(摂津国)を発つ。
今井宗久を介し桑名太郎左衛門を本願寺顕如のもとに遣わし、太刀1腰、馬1疋(栗毛)を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 1月8日 48歳
本願寺顕如教如興正寺顕尊下間頼廉長宗我部元親のもとを訪れる。元親は9日、土佐国に向けて出港予定とされる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 10月28日 48歳
仙石秀久長宗我部元親、十河存保が上原(豊後国)に着陣する。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月7日 48歳
島津家久が利光宗魚の籠る鶴賀城(豊後国)を攻める。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月8日 48歳
島津家久が利光宗魚の籠る鶴賀城(豊後国)を攻める。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月9日 48歳
島津家久が利光宗魚の籠る鶴賀城(豊後国)を攻める。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月10日 48歳
島津家久が利光宗魚の籠る鶴賀城(豊後国)を攻め、城が落ちる。宗魚は戦死する。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月12日 48歳
戸次川の戦いで島津家久仙石秀久長宗我部元親・十河存保が戦い、家久が勝利する。存保、長宗我部信親が戦死する。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月28日 48歳
豊臣秀吉小早川隆景安国寺恵瓊黒田孝高に豊後国の戦況について承知したことを伝えるとともに、阿波国勢(蜂須賀家政)、淡路国勢(加藤嘉明脇坂安治)を豊後国に遣わすこと、仙石秀久の所領・讃岐国を召し上げたことを伝える。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正15年 1587年 1月25日 49歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 49歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 49歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 49歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 49歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 49歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 49歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 49歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 49歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 49歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 49歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 49歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 49歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 49歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 49歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 49歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 49歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 49歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 49歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 49歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 49歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 49歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 49歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正16年 1588年 4月14日 50歳
後陽成天皇が聚楽第(山城国)に行幸する。秀吉の前駈(右列)に石田三成大谷吉継片桐且元が、前駈(左列)に増田長盛加藤嘉明が供をする。秀吉に続き、織田信包織田長益前田利家蒲生氏郷長宗我部元親蜂屋頼隆細川忠興が、鳳輦についで織田信雄徳川家康豊臣秀次豊臣秀長近衛信輔烏丸光宣持明院基孝東坊城盛長広橋兼勝が、近衛大将の左として鷹司信房が供奉する。
出典:『多聞院日記』同年5月4日条、『豊鑑』巻3

天正16年 1588年 4月16日 50歳
聚楽第(山城国)で行われた和歌会にて「豊なる 都のうちの 松風に おきつしまねも なみしづか也」と詠む。
出典:『豊鑑』巻3

天正18年 1590年 12月28日 52歳
豊臣秀吉が関白職を甥・秀次に譲る。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正20年 1592年 3月8日 54歳
長宗我部元親が朝鮮攻めにつき浦戸(土佐国)を出航する。
出典:『福富半右衛門親政法名浄安覚書

文禄1年 1592年 12月8日 54歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄5年 1596年 4月27日 58歳
豊臣秀吉長宗我部元親邸に赴く。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

慶長1年 1596年 10月27日 58歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 2月21日 59歳
豊臣秀吉が朝鮮攻めの陣立を定める。
1・2番 加藤清正(軍勢10000)、小西行長(軍勢7000)、宗義智(軍勢1000)、松浦鎮信(軍勢3000)、有馬晴信(軍勢2000)、大村喜前(軍勢1000)、五島純玄(軍勢700)
3番 黒田長政(軍勢5000)、毛利吉成・勝永(軍勢2000)、島津豊久(軍勢800)、高橋元種(軍勢600)、秋月種長(軍勢300)、伊東祐兵(軍勢500)、相良長毎(軍勢800)
4番 鍋島直茂勝茂(軍勢12000)
5番 島津義弘(軍勢10000)
6番 長宗我部元親(軍勢3000)、藤堂高虎(軍勢2800)、池田秀氏(軍勢2800)、加藤嘉明(軍勢2400)、来島通総(軍勢600)、中川秀成(軍勢1500)、菅達長(軍勢200)
7番 蜂須賀家政(軍勢7200)、生駒親正(軍勢2700)、脇坂安治(軍勢1200)
8番 毛利秀元(軍勢30000)、宇喜多秀家(軍勢10000)
釜山かい城在番 小早川秀秋(軍勢10000)
あんこうらいの城在番 立花宗茂(軍勢5000)
加徳城在番 高橋直次(軍勢500)、筑紫広門(軍勢500)
竹島城在番 毛利秀包(軍勢1000)
西生浦城在番 浅野幸長(軍勢3000)
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』271号)

慶長2年 1597年 3月24日 59歳
長宗我部元親百箇条に、元親盛親父子が連署する。
出典:『長曾我部元親百箇条』(『群書類従』)

慶長3年 1598年 1月1日 60歳
未刻(13-15時)、垣見一直、熊谷直盛が、申刻(15-17時)、長宗我部元親中川秀成、池田秀氏、毛利勝永、秋月種長高橋元種伊東祐兵、相良頼房が西生浦に到着する。
出典:浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長3年 1598年 1月2日 60歳
巳刻(9-11時)、長宗我部元親盛親父子が船20・30叟にて蔚山城に到着する。未刻(13-15時)、池田秀氏が船にて蔚山城に到着する。
出典:浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長3年 1598年 1月3日 60歳
子刻(23-1時)、明・朝鮮軍が蔚山城を攻める。辰刻(7-9時)、明・朝鮮軍が城攻めを止める。
出典:浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長3年 1598年 1月4日 60歳
巳刻(9-11時)、浅野幸長加藤清正等の籠る蔚山城を攻めていた明・朝鮮の軍勢が撤退する。夜、蔚山城の救援に赴いていた日本勢が蔚山城に入城する。
出典:浅野幸長家臣某蔚山籠城覚書(『浅野家文書』80号)、浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長3年 1598年 1月6日 60歳
蔚山城に籠城していた日本勢が、同城を発ち、西生浦まで移る。
出典:浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長4年 1599年 5月19日 61歳
長宗我部元親が死去する。
出典:-

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