和暦 |
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事項 |
出典 |
- | - | - | - | - | 細川晴経が生まれる。 | - |
天文7年 | 1538 | 1 | 10 | - | 巳刻(9-11時)、足利義晴が参内する。大舘晴光、細川晴経、歳阿を初めて供に加える。申刻(15-17時)、戻る。 | 『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 | 1539 | 11 | 17 | - | 足利義晴・慶寿院・菊童丸・千歳丸が近衛稙家のもとを訪れる。菊童丸の供は大舘晴光、畠山上野介、上野与三郎、細川晴経、伊勢貞孝、歳阿。義晴の供は細川晴賢、佐々木民部少輔、孝阿。堤、三上、野依、河村民部、淵田、鈴木、開藤、河田弥三郎、林源二郎が随従する。 | 『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 | 1539 | 12 | 3 | - | 足利義晴・菊童丸父子が細川晴元のもとを訪れる。義晴の供は細川右馬頭、佐々木民部少輔、春阿。菊童丸の供は大舘晴光、上野与三郎、細川晴経、大舘晴忠、伊勢貞孝、祐阿。能が催される。 | 『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 | 1542 | 閏3 | 25 | - | 結城国縁、杉原晴盛をもって、御供衆の大舘常興、上野与三郎、大舘晴光、吉見右馬頭、大舘兵庫頭、伊勢因幡守、大舘治部大輔、細川晴経、朽木稙綱に、26日の御殿普請につき侍・中間を問わず小者3名を鋤を持たせて提供するようにと足利義晴が命じる。 | 『大舘常興日記』同年月日条 |
天文11年 | 1542 | 12 | 23 | - | 足利菊童丸が参内する。供は細川右馬、ワカサノ一兎、細川晴経、上野与三郎、伊勢貞孝、緑阿、奉行衆の諏訪晴長、松田八郎左衛門尉、御走衆の飯川能登守、彦部、沼田、飯川彦九郎、宇治大路、水主。 | 『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文15年 | 1546 | 12 | 19 | - | 足利義藤が坂本(近江国)の樹下成保邸にて元服する。加冠は六角定頼、理髪は細川晴経、惣奉行は摂津元造、元服奉行は松田晴秀・飯尾堯連、打乱は朽木稙綱、泔坏は大原高保、御祝調進は大隅秀宗・大草公広、御手長は伊勢盛正、御物奉行は蜷川親俊・三上秀長が勤める。定頼は義藤に馬・弓・征矢・鎧・砂金を進上する。 足利義藤の御乗馬初め儀を執行する。 義藤が従四位下・左馬頭に叙位・任官する。征夷大将軍就任の宣旨が下され、勅使・高辻大納言が義藤のいる坂本(近江国)に遣わされる。 | 『厳助大僧正記』同年月日条、『光源院殿御元服記』(『群書類従』) |
- | - | - | - | - | 細川晴経が死去する。 | - |