人 物 史

六角定頼 ろっかく さだより
生 没 年明応4年(1495)-天文21年(1552)1/2
出 身近江国幼 名-
別 称四郎
法 名江雲
戒 名雲光寺殿
六角高頼-
兄 弟 姉 妹六角氏綱六角定頼、大原高保、和田高盛、梅戸高実、真玄、女(今出川季孝の妻)、女(京極材宗の妻)
配 偶 者呉服前
六角義賢、娘(細川晴元の妻)、娘(土岐頼芸の妻)、娘(北畠具教の妻)、娘(武田信豊の妻)、如春尼[養女]
官 位弾正少弼
役 職室町幕府 管領代
近江国守護
城 郭観音寺城(近江国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ六角定頼の関連文化財
六角定頼 年表
和暦 西暦 年齢 事項 出典
明応4年1495--1六角定頼が生まれる。-
永正15年15187924兄・氏綱が死去する。-
永正17年152021826細川高国が近江国に逃亡する。『厳助往年記』同年月日条、『陰徳太平記』巻4「細川澄元囲越水城付細川高国後詰之事」
永正17年152042826細川高国坂本(近江国)に着陣する。『厳助往年記』同年月日条
永正17年15205326細川高国が入京する。鴨川に軍勢を展開する。高国に六角勢が大将・小原を大将に加勢する。三好之長等持寺に夫人し、三好長光長則を先陣として高倉通の二条から四条にかけて布陣させる。『厳助往年記』同年月日条、『陰徳太平記』巻4「細川澄元囲越水城付細川高国後詰之事」
永正17年15205526巳刻(9-11時)、細川高国の軍勢が鴨川を渡り、三好之長勢が布陣する上京に攻め入る。高国は本陣を川崎の天神に置き、午刻(11-13時)には等持寺の東南にて高国と之長が戦う。戦中、讃岐勢の香川・安富・久米・河村が高国方に寝返り、亥刻(21-23時)、之長・長光長則は京都より逃亡し、高国が勝利する。『厳助往年記』同年月日条、『陰徳太平記』巻4「細川澄元囲越水城付細川高国後詰之事」
永正18年15214127六角定頼北野社に馬・太刀を寄進する。『北野社家日記』同年月日条
永正18年15214527六角定頼の4月1日の北野社への馬・太刀の寄進の返礼として、北野社より太刀が送られる。『北野社家日記』同年月日条
大永7年1527101333足利義晴細川道永が軍勢20000-30000を率い坂本(近江国)より上洛し、義晴は若王子に、高国は神護寺に陣所を置く。またその加勢として、六角定頼率いる軍勢20000(30000とも)が東福寺に、朝倉教景率いる軍勢6000(10000とも)が下京四条に布陣する。『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条
大永7年1527102533足利義晴東寺法輪院に、細川道永が吉祥寺(山城国)に陣替えする。『厳助大僧正記』同年月日条
大永7年1527102833三好元長伊丹城(摂津国)攻めを止め、細川道永を討つべく京に向かう。『細川両家記』、『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」
大永7年1527102933川勝寺にて畠山義堯・遊佐河内守と朝倉宗滴が戦う。『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」
大永7年1527111733三好元長、波多野稙通、赤井、柳本賢治が長坂口より足利義晴の陣所に攻め入る。元長、賢治、赤井は本圀寺に陣取り、東寺への通路を塞ぐ。稙通は本能寺に陣取る。『言継卿記』・『厳助大僧正記』同年月日条
大永7年1527111833三好元長が西院(山城国)に陣取る。(『細』)
三好元長勢と朝倉家の印牧氏と戦い、三好勢が50人ばかりを討たれる。(『言』)
『言継卿記』同年月日条、『細川両家記』
大永7年1527121433下京にて細川道永勢と三好元長柳本賢治勢が戦う。『言継卿記』同年月日条
大永8年152812134六角定頼三好元長細川晴元細川道永の和睦を取りまとめる。『細川両家記』
大永8年15284234細川道永相国寺に陣替えする。六角定頼が相国寺慈照院に陣所を置く。『言継卿記』同年月日条
大永8年152842134足利義晴相国寺万松軒に陣所を置く。『言継卿記』同年月日条
大永8年152851434細川道永が京都から逃れ山上(山城国)に逃れる。『厳助大僧正記』同年月日条
大永8年152852834足利義晴六角定頼坂本(近江国)に撤退し、石山寺に陣取る。『厳助大僧正記』同年月日条
享禄1年15289834足利義晴が朽木(近江国)に逃れる。『享禄以来年代記』同年月日条(『続群書類従』第29輯下)
享禄4年15314637箕浦河原にて六角定頼と浅井亮政が戦う。(享禄4年)4月7日付六角定頼書状写(滋賀県立安土城考古博物館編『蒲生氏郷-戦国を駆け抜けた武将-』2005年)
享禄4年15314737箕浦河原の合戦で功のあった蒲生定秀六角定頼が感状を発給する。定秀は定頼より太刀(雲次)1腰を賜る。(享禄4年)4月7日付六角定頼書状写(滋賀県立安土城考古博物館編『蒲生氏郷-戦国を駆け抜けた武将-』2005年)
天文1年153282438早朝より山科本願寺が法華衆や六角定頼勢の攻撃を四方から受ける。野村郷(山城国)からの焼き討ちにより寺内に入り込まれ、また下間兵庫助が定頼に内応したこともあって、未刻(13-15時)に諸勢が寺内に乱入し、同寺が陥落する。寺内は一軒も残らず焼き討ちされる。
定頼は夜に帰陣する。
『私心記』同年月日条、『経厚法印日記』同年月日条、『二水記』同年月日条、『細川両家記』
天文2年153361839平岡にて細川晴国と薬師寺国長・三雲資胤・蒲生定秀進藤貞治が戦い、晴国が勝利する。薬師寺国長は戦死する。『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』151号)
天文3年153412940吉田兼右六角定頼のもとに赴く。定頼は2、3日酒を大いに飲み酔った状態であるという。兼右には六角義賢が応対する。『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』153号)
天文3年153451840永原、進藤貞治南禅寺に陣取る。『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』153号)
天文3年153452340南禅寺に陣取る永原、進藤貞治のもとに木沢長政が訪れ、密々の話し合いをする。『兼右卿記』同年月23日条(『ビブリア』153号)
天文5年153622042六角定頼相国寺鹿苑院に書状をもって樽5荷、肴代1緡を贈る。『鹿苑日録』同年月日条
天文5年153672342京都の法華衆寺院を攻める延暦寺の合力として六角定頼が東山(山城国)に布陣する。『巌助往年記 上』同年月日条
天文5年153672742延暦寺衆徒、六角定頼が京都の法華宗寺院を攻撃する。これにより、上京の一条・小川あたりが焼け、誓願寺講堂が焼失する。下京も放火される。『巌助往年記』同年月日条
天文5年1536122342本願寺証如が浅井亮政・加賀四郡に六角定頼との和与が整った旨を伝える。『天文日記』同年月日条
天文5年1536122642本願寺証如のもとに伊勢国坊主衆・門徒中より使者がやってくる。その使者に六角定頼との和与が調ったことを伝え、それを伊勢・尾張・美濃・三河に伝えるよう命じる。『天文日記』同年月日条
天文5年1536122742本願寺証如六角定頼との和与について、尽力してくれた木沢長政へ御礼の書状を送る。『天文日記』同年月日条
天文6年153711143六角定頼への使者として下間頼慶、横田能登、横田出雲を遣わす。定頼には書状・馬・太刀(代30000疋)を、六角家重臣の平井・進藤に200貫を贈る。『私心記』同年月日条
天文6年153741943細川晴元六角定頼の娘と祝言をあげる。『天文日記』同年4/28条
天文7年15386444六角定頼が鎌刃城(近江国)を落とす。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153972345細川晴元茨木長隆伊勢貞孝のもとに遣わし、洛中洛外を除く西国に徳政令の発布を提案する。貞孝より足利義晴にその旨の披露があり、義晴は六角定頼に相談せよと返答する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153981345三好利長(長慶)三好政長の対立のことにつき、六角定頼坂本(近江国)に赴く。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153982345坂本(近江国)に滞在中の六角定頼より伊勢貞孝のもとへ馬、太刀、10荷10合が贈られる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153982445上京下京の地下人から申請のあった徳政停止について六角定頼と相談し、定頼より徳政停止で問題なしとの返答を受けたことから、松田晴秀に徳政停止を施行するよう伝える。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153991345三好利長(長慶)三好政長の対立の仲裁に乗り出した六角定頼進藤貞治と永原重隆に軍勢800を付し芥川山城(摂津国)に遣わす。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153992645細川晴元山崎(山城国)より上洛する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153910245六角定頼の上洛につき寄宿所について権門被官地も対象とすることが決まる。ただし、幕府昵懇衆については免除となる。定頼の宿奉行は田村兵庫。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153910345六角定頼が上洛する。蒲生定秀、青地、池田、下笠、上崎、三雲、本間が定頼の供をする。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153910445六角定頼が幕府に出頭する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153910745子・義賢が上洛する。『蜷川親俊日記』同年月日条、『巌助往年記』同年月条
天文8年1539101045細川晴元六角定頼義賢父子を自邸に招く。晴元が催した観世能に伊勢貞孝も出席する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539101845足利義晴六角定頼のもとを訪れる。観世能が催される。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539102145伊勢貞孝六角定頼のもとを訪れる。
六角義賢が左京大夫に任じられる。
『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539102245細川晴元六角定頼のもとを訪れる。定頼は観世能を催す。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539102445足利義晴菊童丸父子が六角定頼のもとを訪れる。式三献のもてなしがある。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153910-45三好利長(長慶)三好政長が和睦する。『巌助往年記 上』同年月条
天文8年153911145細川晴元、六角定頼が幕府に出仕する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539111345六角定頼義賢父子が参内する。
定頼・義賢父子が伊勢貞孝邸を訪れる。貞孝は観世能にてもてなす。藤宰相、大舘晴光、上野与三郎、細川高久海老名高助、永田景弘、飯川彦九郎、祐乗坊、蜷川親俊、青地、下笠、三雲、蒲生定秀が相伴する。
『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539111945六角定頼が蜷川親俊のもとに狛修理を使者として遣わす。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539112245伊勢貞孝六角定頼のもとに赴く。貞孝は定頼に緞子、盆、太刀を贈る。六角義賢が貞孝に太刀を贈る。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539112945六角定頼義賢父子が参内する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153912645伊勢貞孝六角定頼のもとに赴く。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年154211548三雲勢が北白川(山城国)に陣替えする。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年15422148六角家の馬淵勢が下京にて厳しい取り立てをしたため、下京の町衆と喧嘩となる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年154222548蒲生定秀、三雲勢が白川(山城国)に陣取る。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年154231248足利義晴の使者として大舘常興のもとを祐阿が訪れる。訪問目的は、筒井順昭より代替わりの御礼進上があったが御内書を発給するべきか否かとのこと。常興としては不要であると考えるが、六角定頼伊勢貞孝が必要と考えるならば発給してもよいと返答する。『大舘常興日記』同年月日条
天文11年154232848足利義晴菊童丸父子が坂本(近江国)より大津(近江国)を経由し上洛する。義晴の供は細川右馬頭、上野与三郎、万阿、藤中納言。菊童丸の供は大舘晴光、佐々木、小原、大舘治部大夫、佐々木民部少輔、伊勢貞孝、孝阿。義晴は相国寺法住院に入り、御殿の作事を命じる。
細川晴元は坂本(近江国)より上洛する。
『蜷川親俊日記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条
天文11年1542閏31148足利義晴六角定頼坂本(近江国)滞在時の支援を謝すべく御内書を発給するにあたり、案文の作成を大舘常興に命じる。常興より案文2案が提出される。『大舘常興日記』同年月日条
天文11年15426848唐船勘合の事につき、六角定頼の使者 慈光院が上洛する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文13年154432150六角定頼が命じた勢多橋修復勧進について、本願寺証如が50貫文を奉加として出す。『天文日記』同年月日条
天文14年1545--51孫・義治が生まれる。-
天文15年154612752多賀社不動院の「同宿輩」が諸国に私宅を構え、勧進であると偽って奉加を募る者がいるので、同社本願 不動院に対し「同宿輩」をきちんと管理するよう命じる奉行人奉書を発給する。天文15年12月7日付六角氏奉行人連署奉書(『多賀大社叢書』文書篇70号)
天文15年154612952坂本(近江国)の樹下成保邸にて足利義藤の元服式が執り行われることに先立ち、六角定頼が加冠役を勤めることから、六角家家臣が諸役を担う。進藤貞治は成保邸の普請を、蒲生定秀楢崎賢道は妙見寺などの辻固めを命じられる。『厳助往年記』同年月日条
天文15年1546121352本願寺証如六角定頼、平井、進藤貞治に歳暮として書状・梅染を送る。使者は中間。『天文日記』同年月日条
天文15年1546121852足利義藤坂本(近江国)の樹下成保邸での元服につき、加冠役の六角定頼より迎えの軍勢が義藤のいる東山慈照寺にやってくる。義藤は巳刻(9-11時)に慈照寺を出発し、浄土寺、若王子、南禅寺、粟田口、日岡、花山、小山、大津を経由し坂本(近江国)に入る。坂本にて定頼・義賢父子が門外にて迎える。『厳助往年記』同年月日条
天文15年1546121952足利義藤坂本(近江国)の樹下成保邸にて元服する。加冠は六角定頼、理髪は細川晴経、惣奉行は摂津元造、元服奉行は松田晴秀飯尾堯連、打乱は朽木稙綱、泔坏は大原高保、御祝調進は大隅秀宗・大草公広、御手長は伊勢盛正、御物奉行は蜷川親俊・三上秀長が勤める。定頼は義藤に馬・弓・征矢・鎧・砂金を進上する。
足利義藤の御乗馬初め儀を執行する。
義藤が従四位下・左馬頭に叙位・任官する。征夷大将軍就任の宣旨が下され、勅使・高辻大納言が義藤のいる坂本(近江国)に遣わされる。
『厳助大僧正記』同年月日条、『光源院殿御元服記』(『群書類従』)
天文15年1546122252足利義藤六角定頼の旅宿に御成りする。定頼旅宿にて能が催される。『厳助往年記』同年月日条
天文16年1547353足利義晴義藤父子が北白川城(山城国)に900余騎にて籠城する。随従者は近衛稙家聖護院道増、大覚寺義尭、烏丸光康日野晴光、高倉永家、日野資将、賀茂在留、大舘晴光、細川輝経、大舘晴忠、細川隆是、伊勢貞教、摂津元造、摂津晴門、三淵晴員、小笠原備前守、武田信実和田惟政『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」
天文16年15474153細川晴元三好長慶ら淡路・四国衆30000をもって足利義晴義藤父子が籠城する北白川城(山城国)を攻める。『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」
天文16年154741053足利義晴義藤父子が籠城する北白川城(山城国)を攻めていた三好長慶ら淡路・四国衆30000が摂津国国衆の制圧を優先した細川晴元の命により摂津国に引き上げる。『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」
天文16年154771253細川晴元の要請を受けた六角定頼義賢が、足利義晴義藤が籠城する北白川城(山城国)を包囲する。『足利季世記』巻4「公方東坂本御出奔ノ事」
天文16年154771953細川晴元六角定頼の包囲を受け耐えられず足利義晴義藤父子が籠城していた北白川城(山城国)を自焼し東坂本(近江国)に逃れる。『足利季世記』巻4「公方東坂本御出奔ノ事」、『陰徳太平記』巻15「将軍北白川御籠城之事」
天文16年154772953足利義藤細川晴元六角定頼義賢父子を赦免する。両人が義晴のいる坂本(近江国)に出仕する。ただし、晴元は義晴とは対面できず。
晴元・定頼間で諸事協議がなされる。
『足利季世記』巻4「舎利寺合戦ノ事附晴元定頼免許ノ事」、『厳助往年記 上』同年月日条
天文16年1547閏72953足利義藤のもとに細川晴元が挨拶に訪れる。晴元と六角定頼が諸事を協議する。『厳助大僧正記』同年同月条
天文16年154710653細川国慶が畠山政国に加勢すべく内野西ノ京(山城国)に300余人を率い現れる。
国慶に応戦するため六角定頼は多賀豊高に軍勢200余を付けて遣わす。
京都合戦にて三好宗三と細川国慶、小泉秀清、今村慶満が戦い、宗三が勝利する。国慶は戦死する。
天文16年10月9日付三好宗三書状案(「大徳寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-202号)
天文18年154911355六角定頼が、岸和田兵衛大夫に、三好長慶細川晴元に謀反したこと、松浦守が長慶に与同したことを伝え、兵衛大夫に晴元方として行動するように求める。天文18年1月13日付六角定頼書状写(「武家事紀」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-参考19号)
天文18年15494-55細川晴元が近江国に赴き、六角定頼と摂津攻めのことについてと談合する。『厳助大僧正記』同年同月条(『史籍集覧』25 近代デジタルライブラリー コマ番号178-208)
天文18年154942655細川晴元が摂津を攻めるにあたり丹波国を経由し塩川城(摂津国)に下向する。
六角定頼が晴元の摂津国攻めを援護するべく京都東山に軍勢を遣わす。
『厳助大僧正記』同年同月条(『史籍集覧』25 近代デジタルライブラリー コマ番号178-208)、『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」
天文18年154942855塩川城(摂津国)にいた細川晴元のもとに三好宗三が合流し、西宮(摂津国)を放火する。『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」
天文18年154942955三好宗三伊丹親興尼崎(摂津国)を放火する。『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」
天文18年15495155三好宗三が東富松城(摂津国)を攻めるが、城兵の抗戦により撤退する。『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」
天文18年15495255三宅城(摂津国)の香西元成三好長逸の守る芥川山城(摂津国)を攻撃するも敗れる。『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」
天文18年15495555三好宗三が諸勢を率い三宅城(摂津国)に入る。『足利季世記』巻4「幡雲立事」
天文18年154962355三好宗三が「川舟を 留て近江の 勢もこそ 問んともせぬ 人を待かな」と六角定頼勢を待つ歌を詠む。『足利季世記』巻4「宗三出張ノ事」
天文18年154962455十河一存が単独で細川晴元の居所である三宅城(摂津国)を攻撃する。一存の三宅城攻撃を受けてもなお三好長慶細川晴元との戦いは避け、三好宗三の籠る江口城を攻撃し、落とす。この戦いで宗三、高畠長直高畠長信が戦死する。晴元は政長の敗報を受け嵯峨(山城国)に逃れる。『私心記』同年同月条、『足利季世記』巻4「江口城攻落シ宗三打死ノ事」、『厳助大僧正記』同年同月条(『史籍集覧』25 近代デジタルライブラリー コマ番号178-208)、
天文18年154962555六角義賢細川晴元の援軍として進藤貞治ら軍勢36000を率い西ノ岳・鳥羽・竹田・山崎・神南(山城国)に軍勢を駐屯させ自身は東寺に布陣する。しかし、24日の江口の合戦で晴元が敗れたとの報が入り、義賢は北白川(山城国)まで撤退する。
晴元は夕方に上洛する。
『足利季世記』巻4「大樹ト晴元御没落ノ事」
天文18年154962855足利義晴義藤父子、細川晴元東坂本(近江国)の常在寺に移る。『足利季世記』巻4「大樹ト晴元御没落ノ事」
天文18年15497-55六角定頼が摂津国にて細川晴元が死亡したと聞き、山崎(山城国)まで軍勢を進めるが、無事であることを知り京都に戻る。『厳助大僧正記』同年同月条
天文19年155051156細川晴元六角義賢の諫言により足利義藤が比叡辻(近江国)宝泉寺に移る。『足利季世記』巻4「前将軍薨逝ノ事」
天文19年15506956足利義藤細川晴元が中尾城(山城国)に入城する。『言継卿記』同年月日条
天文19年155071456三好長逸三好長虎十河一存が率いる三好勢18000が一条から五条に展開する。細川晴元が足軽100で野伏せりを仕掛け鉄砲にて三好長虎与力を討つ。足利義藤は吉田山(山城国)に陣取るも三好勢と交戦せず。六角定頼勢は北白川山上に布陣するも交戦せず。九ツ時(11-13時)に三好勢は三好長慶のいる山崎(山城国)に撤退する。
義藤は東山の寺社本所領を押領するものの、三好長慶が寺社本所領を安堵しているため地下(村人)は義輝の命に応じず。
『言継卿記』同年月日条
天文19年1550102056三好長逸十河一存、芥川らが御所の東から五条に陣取る。
六角定頼が東山山上に軍勢20000をもって陣取る。六角勢のうち永原衆が細川勢2000とともに鴨河原にて野伏をする。
『言継卿記』同年月日条
天文19年1550111956摂津国・丹波国・河内国の国衆からなる三好長慶の軍勢40000が、東山・聖護院・岡崎・吉田・北白川・浄土寺・師子谷・田中(山城国)を悉く放火し、足利義藤の籠る中尾城(山城国)の城際に野伏せりを仕掛ける。
午刻(11-13時)に撤退した三好勢に対し、細川晴元が軍勢30を鴨川まで出す。
『言継卿記』同年月日条
天文19年1550112056三好長慶松永長頼を先手の大将とする軍勢を山科(山城国)に遣わし、大津・松本(近江国)を放火する。その三好勢は山科(山城国)に陣取る。『言継卿記』同年月日条、『厳助往年記』同年月日条
天文19年1550112156足利義藤が籠城していた中尾城(山城国)を焼き、堅田(近江国)に逃亡する。細川晴元坂本(近江国)に移る。三好長慶は足利勢が布陣していた北白川(山城国)に軍勢を遣わし、焼け残りを放火する。『言継卿記』同年月日条
天文19年1550112456三好長慶が諸国から動員した軍勢を解散する。『言継卿記』同年月日条
天文19年155011-56京極六郎が美濃国より近江国に攻め入り、多賀・四十九・枝村(近江国)等を放火する。『厳助往年記』同年月日条
天文20年155113057伊勢貞孝足利義藤を連れて密かに上洛させようとしたところ上洛計画が露見する。義藤は近江国に止まるが、貞孝は上洛する。『言継卿記』同年2月1日条、『厳助往年記』同年2月条
天文20年15512757志賀(近江国)にて松永長頼松永久秀六角義賢が戦い、義賢が勝利する。『足利季世記』巻5「進士九郎賢光ノ事」
天文20年155122257近江国内で六角定頼に反抗する勢力の蜂起があったため、細川晴元坂本(近江国)から対岸に渡航する。『言継卿記』同年月日条
天文20年155122457三好長慶勢、伊勢貞孝が志賀(近江国)に攻め入る。『言継卿記』同年月日条
天文20年155122657三好長慶勢、伊勢貞孝が志賀(近江国)に入り、同地にて山陣する。『言継卿記』同年月日条
天文20年155122757三好長慶勢、伊勢貞孝大津(近江国)を放火する。その後、三好・伊勢勢は志賀(近江国)より京都に帰陣する。三好・伊勢勢の撤退を受け、六角義賢が追撃の軍勢を遣わす。鹿ヶ谷にて六角勢と三好長虎が戦う。六角勢が北白川(山城国)に出没し放火する。『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条
天文20年155122857六角義賢の軍勢が東門前・鹿ヶ谷・岡崎・若王寺・粟田口・山科・日岡・四宮(山城国)を放火し、鴨川に野伏せりを掛ける。これを受け、三好長慶伊勢貞孝今村慶満を遣わすも六角勢は撤退する。『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条
天文20年15513257三好長慶が軍勢20000のをもって岩倉(山城国)の山本館を攻め、放火する。『言継卿記』同年月日条
天文20年15513757伊勢貞孝が吉祥院(山城国)にいる三好長慶のもとを訪れる。長慶の居所に小童が忍び入り焼き討ちを企てるが捕える。長慶は東寺松永久秀陣所に移る。『言継卿記』同年月8日条
天文20年155131457三好長慶伊勢貞孝邸を訪れる。貞孝邸で長慶と貞孝が将棋をさす。その後、乱舞が行われる。夕方、奉公衆・進士賢光が長慶に斬りかかり傷を負わせる。負傷した長慶は山崎(山城国)に移る。
宇津(丹波国)より香西元成・柳本・宇津・三好政勝の軍勢が京都に入り伊勢貞孝邸を焼き討ちする。同軍勢は西賀茂・正伝寺(山城国)に陣取る。
『言継卿記』同年月14・15日条
天文20年155131557香西元成・柳本・宇津・三好政勝三好長虎率いる軍勢20000が戦い、長虎が勝利する。『言継卿記』同年月日条
天文20年155131657三好長慶が見舞いに訪れた使者と面会し無事を伝える。
三好長虎率いる軍勢20000が3月14日に香西元成三好政勝らが陣取った西賀茂・正伝寺(山城国)を放火する。その後、長虎の軍勢は東に向かう。
『言継卿記』同年月日条
天文20年155171457細川晴元の命により三好政勝香西元成、柳本、山本、山中、織田左近大夫、十河左介、岸和田が軍勢3000で等持寺に打ち入り、相国寺に立て籠る。そこに、松永久秀松永長頼が率いる摂津・河内・大和の軍勢40000が攻め寄せ、両勢交戦の末、松永勢が勝利する。松永勢は相国寺を放火する。『厳助往年記』同年月日条、『足利季世記』巻5「大内殿生害之事並家伝之事」
天文21年15521258六角定頼が死去する。-
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