人 物 史

足利義昭 あしかが よしあき
生 没 年天文6年(1537)11/13-慶長2年(1597)8/28
出 身-幼 名千歳丸
別 称義秋
法 名覚慶、昌山
戒 名霊陽院昌山道休
足利義晴慶寿院(近衛尚通の娘)
兄 弟 姉 妹足利義輝足利義昭、周暠、女(武田義統の妻)、女(三好義継の妻)、女(烏丸光宣の妻)、宝鏡院理源
配 偶 者さこの方、小宰相局
足利義尋
官 位左馬頭、参議、左近衛権中将、権大納言
役 職室町幕府 征夷大将軍
城 郭-
参 考 文 献足利義昭に関する参考文献
関 連 デ ー タ足利義昭の関連文化財
足利義昭 年表
天文6年 1537年 11月13日 1歳
足利義昭が生まれる。千歳丸と命名される。
出典:-

天文8年 1539年 6月28日 3歳
足利千歳丸興福寺一乗院に入ることが決まる。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文8年 1539年 11月17日 3歳
足利義晴・慶寿院・菊童丸千歳丸近衛稙家のもとを訪れる。菊童丸の供は大舘晴光、畠山上野介、上野与三郎、細川晴経伊勢貞孝、歳阿。義晴の供は細川晴賢、佐々木民部少輔、孝阿。堤、三上、野依、河村民部、淵田、鈴木、開藤、河田弥三郎、林源二郎が随従する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 11月20日 6歳
足利千歳丸興福寺一乗院に入室する。供は朽木稙綱
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

弘治1年 1555年 10月23日 19歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 22歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄8年 1565年 5月19日 29歳
午初点(11時)、御所(春日殿)にて兄・義輝松永久通ら三好勢10000の襲撃を受け自害する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 7月28日 29歳
夜、一乗院覚慶興福寺一乗院を離れ、和田城(近江国)に移る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄8年 1565年 8月-日 29歳
一乗院覚慶が矢島(近江国)に移る。
出典:『足利季世記』巻7「一乗院殿様御元服之事」

永禄8年 1565年 12月5日 29歳
織田信長一条院覚慶より上洛を促す御内書を受けたことに対し、細川藤孝に、上意次第、お供(出兵)することを伝えるとともに朝倉義景武田義統への軍勢催促を促す。
出典:(永禄8年)12月5日付織田信長書状(「高橋義彦氏所蔵文書」10、『織田信長文書の研究』上巻60号)

永禄8年 1565年 12月24日 29歳
誓願寺長老が矢島(近江国)にいる一乗院覚慶のもとに赴く。
出典:『言継卿記』同年月25日条

永禄9年 1566年 4月21日 30歳
矢島(近江国)にて一乗院覚慶が還俗し足利義秋と名乗る。左馬頭に任じられる。朝廷へは伝奏を経ず吉田兼右を通じて報告をする。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 6月11日 30歳
足利義栄の先陣として、篠原長房率いる軍勢25000が兵庫(摂津)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻41「阿波公方義栄摂州御渡海之事」

永禄9年 1566年 6月23日 30歳
篠原長房越水城(摂津国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻41「阿波公方義栄摂州御渡海之事」

永禄9年 1566年 7月13日 30歳
篠原長房越水城(摂津国)を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻41「阿波公方義栄摂州御渡海之事」

永禄9年 1566年 7月21日 30歳
京都において足利義秋の死亡が噂される。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

永禄9年 1566年 7月29日 30歳
夜、足利義昭が矢島(近江国)から若狭国へ移ったとの噂が流れる。
出典:『言継卿記』同年閏8月1日条、『多聞院日記』同年閏8月3日条

永禄9年 1566年 9月23日 30歳
足利義栄越水城(摂津国)に入城する。
出典:『陰徳太平記』巻41「阿波公方義栄摂州御渡海之事」

永禄10年 1567年 2月25日 31歳
足利義昭朝倉義景の居所・一乗谷(越前国)に入る。
出典:『綿考輯録』巻1

永禄10年 1567年 10月20日 31歳
黒山(山城国)に攻め寄せた三淵弾正、香西、宇治田原の足利勢に対し、三好長虎は三如来堂に布陣していたが、夜の内に普賢寺谷まで移った後、黒山の公方勢を攻め100余人を討ち取る。
出典:『多聞院日記』同年月23日条

永禄11年 1568年 6月23日 32歳
細川藤孝・上野清信・明智光秀岐阜城(美濃国)に居る織田信長のもとに赴き、足利義昭の上洛を依頼する。
出典:『綿考輯録』巻1

永禄11年 1568年 7月16日 32歳
足利義昭織田信長の居城・岐阜城(美濃国)に向かうべく一乗谷(越前国)を発つ。朝倉景恒と前波景当が国境まで警護する。義昭は浅井長政の館に入る。
出典:『多聞院日記』同年月27日条、『綿考輯録』巻1

永禄11年 1568年 7月22日 32歳
足利義昭浅井長政の館より美濃国に移る。
出典:『多聞院日記』同年月27日条

永禄11年 1568年 7月25日 32歳
織田信長足利義昭を立政寺(美濃国)に迎える。
出典:『足利季世記』巻7「信長出張之事」、『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 7月27日 32歳
立政寺(美濃国)にて織田信長足利義昭に謁す。
出典:『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 8月7日 32歳
織田信長が軍勢をともない佐和山城(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻1(3)「信長御憑み御請の事」

永禄11年 1568年 8月14日 32歳
織田信長三好義継に、足利義昭を美濃国に移し上洛の手助けを引き受けたこと、上洛のため近々軍勢を発すこと、その際は忠節を求めることを伝える奉書を発給する。
出典:(永禄11年)8月14日付織田信長奉書(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1419号「丹波市教育委員会所蔵文書」)、(『多聞院日記』同年月22日条

永禄11年 1568年 9月7日 32歳
織田信長岐阜城(美濃国)より出陣する。平尾村(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 9月8日 32歳
織田信長が高宮(近江国)に陣取る(『信』)。愛知川(近江国)の近郷を焼き払う(『足』)。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『足利季世記』巻7「信長出張之事」

永禄11年 1568年 9月10日 32歳
織田信長が近江国中郡に侵攻する。これを受け、岩成友通が、朝、坂本(近江国)に向かう。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月11日 32歳
織田信長が近江国にて六角承禎と交戦する。一旦、美濃に引き上げる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月12日 32歳
織田信長佐久間信盛木下秀吉丹羽長秀、浅井新八に命じ箕作山城(近江国)を攻めさせ、夜、落とす。城攻めに松平信一、服部正成、明智光秀徳山則秀浅野長政細川藤孝松井康之蜂須賀正勝丹羽氏勝が参加する。
同夜、観音寺城(近江国)が自焼する。長光寺城(近江国)ほか11、12の城を落とす。
出典:『言継卿記』同年月13日条、『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『綿考輯録』巻1、『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏勝」の項

永禄11年 1568年 9月13日 32歳
足利義昭の上洛が整ったと諸方より多聞山城(大和国)に報告が入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月14日 32歳
織田信長勢が六角承禎の居城を落とする。六角家家臣の後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里が信長に降伏する。
織田信長が15日に上洛すると京都で噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月15日 32歳
立政寺(美濃国)にいる足利義昭のもとに織田信長の使者として不破光治がやってきて9月13日に観音寺城(近江国)を落としたことを伝える。
出典:『足利季世記』巻7「新公方様御上洛之事」

永禄11年 1568年 9月19日 32歳
近江国おける六角承禎織田信長の戦いが、信長の勝利と大和国にて噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月23日 32歳
織田信長園城寺に出陣する。先陣が山科七郷(山城国)に陣取ると噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月24日 32歳
織田信長大津(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月25日 32歳
織田信長清水寺に入る。足利義昭大津(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月26日 32歳
織田信長が山科郷(山城国)の南を通り東寺に布陣する。また信長は北白川を経由し軍勢を入京させる。足利義昭清水寺に移す。
久我にて織田信長三好長逸が戦う。
信長が勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月27日 32歳
織田信長足利義昭清水寺から東寺に移し、さらに西岡(山城国)まで移す。
信長勢が西岡の所々・吉祥院・淀・鳥羽(以上、山城国)・樟葉(河内国)を放火する。義昭を西岡寺土の寂勝院に布陣させる。織田勢を山崎(山城国)から天神之馬場までに展開する。
勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通と和睦交渉を進める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月28日 32歳
織田信長三好長逸勢が拠る山崎(山城国)を攻め落とす。西岡(山城国)あたりを放火する。
足利義昭が山崎の竹内左兵衛邸に移る。織田勢の先陣が芥川市場を放火する。(『言』)
織田信長より柴田勝家蜂屋頼隆森可成坂井政尚が三好攻めの先陣を命じられ、桂川を渡り岩成友通の籠城する勝龍寺城(山城国)を攻める。(『信』)
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻1(4)「信長御上洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」

永禄11年 1568年 9月29日 32歳
足利義昭が天神馬場(摂津国)に移る。織田信長芥川山城(摂津国)の麓を攻める。また織田勢が河内国の各所を放火する。夕方、三好長逸が芥川山城を、岩成友通勝龍寺城(山城国)を信長に明け渡す。
出典:『言継卿記』同年月日・30日条

永禄11年 1568年 9月30日 32歳
足利義昭芥川山城(摂津国)に入城する。
織田信長が郡山道場、富田寺外を落とす。富田寺内とは和睦する。池田城(摂津国)を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月2日 32歳
足利義昭織田信長芥川山城(摂津国)に陣取る。三好長逸池田勝正が義昭・信長に降伏する。
松永久秀が義昭のもとへ礼に赴くため八幡山(山城国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月3日 32歳
竹内季治、畠山昭高畠山高政松永久秀池田勝正、入江が足利義昭織田信長のいる芥川山城(摂津国)にやってきて降伏を受け入れてくれたことの礼をする。
出典:『言継卿記』同年月4日条

永禄11年 1568年 10月4日 32歳
松永久秀足利義昭織田信長に礼をする。信長は大和国の進退を久秀に委ねる。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄11年 1568年 10月10日 32歳
足利義昭織田信長松永久秀への合力として細川藤孝和田惟政佐久間信盛率いる軍勢20000を遣わす。同軍勢は西京の唐招提寺あたりに入る。これを受け、窪城が開城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月14日 32歳
足利義昭芥川山城(摂津国)より上洛し本圀寺に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月16日 32歳
足利義昭が細川管領邸に移る。織田信長は古津所に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月25日条

永禄11年 1568年 10月18日 32歳
夜、足利義昭が将軍宣下を受ける。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月22日 32歳
足利義昭が参内する。
出典:『多聞院日記』同年月25日条

永禄11年 1568年 10月22頃日 32歳
足利義昭が勝軍地蔵城(山城国)の普請をする。勘当し薩摩国に赴いた近衛前久の屋敷を破却し、城の用材にあてる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月23日 32歳
足利義昭織田信長を招き能を催す。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月24日 32歳
織田信長が美濃国へ帰国するため足利義昭に暇乞いする。
出典:『信長公記』巻1(5)「観世大夫・今春大夫御能仕るの事」

永禄12年 1569年 1月1日 33歳
三好康長三好宗渭三好長逸斎藤龍興が家原城(和泉国)を攻める。
出典:『当代記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月4日 33歳
三好長逸三好宗渭岩成友通が蜂起し、足利義昭を攻めるべく塩小路(山城国)まで押し寄せてくる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月5日 33歳
午刻(11-13時)、三好長逸三好宗渭岩成友通足利義昭の居所・本圀寺に攻め寄せる。本圀寺の北の中堂寺、南東の不動堂が放火される。足利勢は足軽衆20名が討死するも、長逸等の軍勢を退ける。
出典:『言継卿記』同年月日条、『当代記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月6日 33歳
三好長逸三好宗渭岩成友通が軍勢6000にて東寺・浄福寺あたりに陣取る。その後、長逸、宗渭、友通は七条(山城国)に移動する。足利義昭の救援として、池田勝正伊丹親興三好義継が上洛する。七条に陣する長逸等に西から池田勝正・伊丹親興、北から奉公衆(細川藤孝等)、南から三好義継が攻めかかり、長逸等は1000余名の戦死者を出し敗北する。長逸は八幡(山城国)に逃亡し、友通は北野神社松梅院に逃れるが、北野社に追手がきたためさらに逃亡する。
出典:『言継卿記』同年月日・7日条

永禄12年 1569年 1月10日 33歳
三好長逸三好宗渭岩成友通足利義昭を襲撃したとの報を受け、救援に駆けつけた織田信長が、この日、入洛する。救援の軍勢に松永久秀等が加わる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月12日 33歳
織田信長の上洛につき尾張国・美濃国・伊勢国・近江国・若狭国・丹波国・摂津国・河内国・山城国・大和国・和泉国の国衆が上洛し80000の軍勢が集まる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月13日 33歳
足利義昭熊谷信直に三好三人衆を退治すべく四国への出陣を催促する。使者は柳沢元政。
出典:永禄12年1月13日付足利義昭御内書(『大日本古文書』家わけ14「熊谷家文書」146号)

永禄12年 1569年 1月21日 33歳
足利義昭の居所として織田信長が勘解由小路室町にあった足利義輝の御所(武衛御所)を再興すべく自らが奉行となって普請を始める。石積みを西側より始める。尾張国・美濃国・伊勢国・近江国・伊賀国・若狭国・山城国・丹波国・摂津国・河内国・大和国・和泉国・播磨国より石を集める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月26日 33歳
織田信長が、足利義輝が戦死した御所(武衛御所)に、足利義昭の御殿を建立することを、同地に建立されていた真如堂蓮光院に伝える。真如堂には替地として一条の西の地(広さ4丁町)の寄進と所領の安堵、さらには西岡(山城国)のうち知徳庵、知徳庵道場分を新たに寄進、課役の賦課と寄宿停止を伝える。
出典:永禄12年1月26日付織田信長朱印状(「真正極楽寺文書」『織田信長文書の研究』上巻147号)

永禄12年 1569年 2月7日 33歳
勘解由小路室町に建設中の城の西側の石積みがおおよそ完成する。高さ4間1尺(約7.5m)。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 2月7日 33歳
勘解由小路室町に建設中の城の西側の石積みがおおよそ完成する。高さ4間1尺(約7.5m)。城の普請場にいる織田信長のもとに山科言継が見舞いに訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 2月8日 33歳
足利義昭織田信長によって自身が上洛したことを上杉輝虎に伝えるとともに、武田信玄との和睦を勧める御内書を発給する。使者は智光院。
出典:(永禄12年)2月8日付足利義昭御内書(「上杉家文書」『織田信長文書の研究』上巻 参考p250)

永禄12年 1569年 2月9日 33歳
勘解由小路室町城の南の岸が崩れ人夫7、8人が死亡する。普請人数は1日数千人という。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 2月15日 33歳
足利義昭が忍頂寺(摂津国)に代々の証文により祈願所であることは間違いないので寺領の守護不入を安堵する御内書を発給する。署名は細川藤孝、中澤元網。
出典:(永禄12年)2月15日付足利義昭御内書(「寿泉院文書」『織田信長文書の研究』上巻 参考p252)

永禄12年 1569年 3月12日 33歳
浦上氏が足利義昭に礼をする。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 4月14日 33歳
織田信長が築城した春日室町第に足利義昭本圀寺より移る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 4月21日 33歳
織田信長が春日室町第に入った足利義昭のもとに赴き、岐阜城(美濃国)に帰還するとして暇乞いに訪れる。義昭は涙を流し信長に謝意を表し、門外まで見送るとともに、春日室町第の東の石垣から信長が粟田口を越えるところまで見守る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 10月17日 33歳
足利義昭青蓮院尊朝の同院門跡領近江国高島郡葛川寺務職および山林を安堵する。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

永禄13年 1570年 1月24日 34歳
足利義昭が参内する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 1月25日 34歳
織田信長足利義昭に鷹、鳥、雁150を、禁裏に銭50疋(500文)を進上する。禁裏への使者は細川藤孝
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 2月2日 34歳
足利義昭が参内する。伊丹親興が3000の兵で辻固めを勤める。御供衆の細川藤賢細川藤孝・伊勢三郎、同朋衆の春阿弥・祐阿弥、御走衆の飯川弥四郎・槙島孫六・安威兵部少輔・後藤治部少輔・沼田弥四郎・沼田弥七郎、奉行衆の諏訪信濃守・飯尾右馬助が供奉する。
出典:『言継卿記』『晴右記』同年月日条

永禄13年 1570年 2月5日 34歳
足利義昭が御所にて初卯の八幡御法楽連歌会を催す。参会者は聖護院道澄、大覚寺義性、三条実澄、山科言継飛鳥井雅敦、不断光院清誉、細川藤孝飯川信堅、上野輝加、曽我助乗、飯川秋共、春阿弥で、執筆者は覚勝院の児子である松千代。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月1日 34歳
織田信長畠山昭高畠山高政三好義長、畠山播磨守、鷲巣、大舘輝光、大舘晴忠等が足利義昭のもとに礼に赴く。
信長が参内する。太刀1腰、馬代1000疋(10貫)を進上する。
信長が長橋局に参り1000疋(10貫)を進上する。
信長が誠仁親王のもとに参り対面する。誠仁親王に太刀1腰、馬代1000疋(10貫)を進上する。
信長が新大典侍に参り折紙1000疋を進上する。
信長が半井驢庵のもとに赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条、『晴右記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月3日 34歳
畠山昭高畠山高政三好義長、御供衆の細川藤賢・大舘輝光・大舘晴忠・一色藤長・一色播磨守・畠山播磨守・伊勢三郎・松永久通足利義昭のもとに礼に訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月5日 34歳
足利義昭が鷹狩に出る。織田信長三好義長松永久通が供をする。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月17日 34歳
山科言継葉室頼房足利義昭のもとに当年の礼に訪れる。申次は細川藤孝
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月18日 34歳
興福寺の多聞院英俊が織田信長の指揮する足利義昭の「御城」の普請を見物する。石蔵の四方ができていたという。また、内裏の造営についても英俊は見物。内侍所は檜皮葺きが完成し、紫宸殿は以前は檜皮葺きであったが瓦葺きになったこと、清涼殿は檜皮葺きであることを日記に留める。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月1日 34歳
足利義昭が猿楽を催す。織田信長も招待されたというが参会しなかったという。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月14日 34歳
足利義昭が御所竣工につき能を催す。織田信長徳川家康松永久秀三好義継が参会する。義昭は織田信長の位階をあげることを勧めるが信長は拒否する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月23日 34歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 6月4日 34歳
午刻(11-13時)、落窪(近江国)にて柴田勝家佐久間信盛六角承禎義治父子が戦い、勝家等が勝利する。
申刻(15-17時)、織田勢の勝利の報が足利義昭のもとにもたらされる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(6)「落窪合戦の事」、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月19日 34歳
足利義昭の近江国への出陣が、18日の池田勝正の家内の内紛と三好長逸三好宗渭岩成友通が攻め入ってくるとの噂があったことから延期となる。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月20日 34歳
池田21人衆の内、池田豊後守、池田周防守が殺害され、池田勝正池田城から追われ、刀禰山、次いで大坂(摂津国)に落ち延びる。勝正は足利義昭のもとに赴くとして、義昭のもとより上野秀政(軍勢500)、細川藤孝(軍勢200)、一色紀伊守、織田三郎五郎の合わせて軍勢2000余が山崎(山城国)に派遣される。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月26日 34歳
三好義継池田勝正が上洛する。
三好長逸岩成友通池田城(摂津国)に入城したと噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月27日 34歳
足利義昭の近江国への出陣が延期となる。
義昭が彦部の若党に自害を命じる。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月28日 34歳
巳刻(9-11時)、姉川(近江国)にて織田信長徳川家康浅井長政朝倉義景が戦い信長・家康勢が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、坂井政尚坂井尚恒(戦死)、丹羽氏勝大島光義
徳川家康勢:徳川家康[大将]、酒井忠次[先鋒]、石川数正榊原康政松平信一松平忠正酒井重忠小栗忠政(銘 信国の槍で奮戦)、本多広孝、小笠原広重、野々山元政渥美友勝
浅井長政勢:浅井長政[大将]、遠藤直経(戦死)、藤堂高虎
朝倉勢:真柄直隆(戦死)、真柄直澄(戦死)、真柄隆基(戦死)。
戦後、信長が小谷城(近江国)の押さえとして木下秀吉を横山城(近江国)に置く。
出典:『言継卿記』同年月29日条、『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同45「小栗忠政」の項、同59「酒井重忠」の項、同65「酒井忠次」の項、同73「大島光義」の項、同85「丹羽氏勝」の項、同110「野々山元政」の項、同120「石川数正」の項、同191「小笠原広重」の項、同100「榊原康政」の項、同961「渥美友勝」の項、『藤堂家覚書

元亀1年 1570年 6月28日 34歳
吉田兼見が足利義昭に御祓を進上する。
(和泉国)の岩成友通方の者の3名の首が足利義昭のもとにもたらされる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月29日 34歳
三好長逸三好宗渭岩成友通等が吹田(摂津国)あたりに到着したと京都(山城国)にて噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月30日 34歳
奉公衆が摂津国に向けて京都(山城国)より出陣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 7月27日 34歳
三好康長三好長逸三好宗渭、三好為三、岩成友通、東条行長、松山重治、斎藤龍興、長井道利等が中島天満森(摂津国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 7月29日 34歳
安宅甚太郎率いる淡路勢1500が兵庫(摂津国)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月9日 34歳
安宅甚太郎率いる淡路勢1500が尼崎(摂津国)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月13日 34歳
安宅甚太郎・池田某が猪名寺(摂津国)にて戦う。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月17日 34歳
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が、三好義継畠山昭隆伊丹親興・遊佐の軍勢が籠る古橋城(河内国)を攻める。
出典:『尋憲記』同年月20日条、『言継卿記』同年月18日条、『多聞院日記』同年月18日条、『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月25日 34歳
福島(摂津国)に陣取る三好長逸三好康長岩成友通を討つため、織田信長が京都より中島(摂津国)に向けて出陣する。淀川を渡り枚方寺内町(河内国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条、『陰徳太平記』巻47「信長大坂出張並所々合戦事」

元亀1年 1570年 8月26日 34歳
織田信長天王寺に陣取り、諸勢を天満が森、川口、渡辺、神崎、上難波、下難波、浜の手に展開し、三好長逸岩成友通三好康長、安宅信康、十河存保、篠原長房、松山重治、香西佳清、三好為三、斎藤龍興、長井道利が陣取る野田・福島(摂津国)を攻める。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 8月29日 34歳
足利義昭が中島(摂津国)に向けて出陣につき、留守居を吉田兼和に命じる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 8月30日 34歳
足利義昭が中島(摂津国)に向けて2000余の軍勢を引き連れ京より出陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 9月3日 34歳
足利義昭が中島(摂津国)に入る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月8日 34歳
織田信長が楼の岸(摂津国)に砦を築き、斎藤利治稲葉良通、中川重政を置く。川口に砦を築き、平手汎秀、長谷川与次、水野監物、佐々成政、塚本小大膳、丹羽氏勝、佐藤秀方、梶原景久、高宮右京亮を置く。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月9日 34歳
織田信長が天満が森に本陣を移す。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月12日 34歳
足利義昭織田信長が海老江(摂津国)に陣を移し、三好長逸岩成友通三好康長、安宅信康、十河存保、篠原長房、松山重治、斎藤龍興、長井道利の籠る野田・福島(摂津国)を攻める。長逸等は信長に降伏を申し出るが信長に断られる。
本願寺顕如が義昭、信長を攻撃する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 9月13日 34歳
本願寺顕如が織田方の楼の岸砦、川口砦に攻め入る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月14日 34歳
本願寺顕如が天満が森に攻め入る。かすがゐ堤の合戦で織田信長と大坂本願寺勢が戦い、信長が本願寺勢を退ける。この戦いで織田勢の第1陣を佐々成政が、第2陣を前田利家がつとめる。成政は負傷し撤退する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月16日 34歳
浅井長政・朝倉景健の軍勢30000が坂本(近江国)に攻め寄せる。宇佐山城(近江国)の森可成が軍勢1000で応戦し退ける。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月19日 34歳
浅井長政・朝倉景健の軍勢が坂本(近江国)に攻め寄せる。宇佐山城主の森可成は応戦するも敗れる。可成、織田信治、青地茂綱、尾藤源内、尾藤又八、道家清十郎、道家助十郎が戦死する。浅井・朝倉勢は宇佐山城(近江国)に攻め入るも武藤五郎右衛門、肥田彦左衛門に退けられる。浅井・朝倉勢は大津の馬場・松本(近江国)を放火する。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月23日 34歳
織田信長和田惟政柴田勝家に殿を命じ、野田・福島(摂津国)を引き払い京都に向かう。江口を経由して足利義昭とともに帰洛する。
信長は吉田兼見に白川と山中の通路を封鎖するように命じる。兼見は白川、浄土寺にその旨を命じる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 11月15日 34歳
足利義昭が桜馬場にて馬を調教する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 11月30日 34歳
朝倉勢の籠る堅田(近江国)を攻めを終えた織田信長に対し、足利義昭朝倉義景との和睦を勧めるため園城寺に赴く。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 12月13日 34歳
織田信長勢が瀬田(近江国)まで撤兵すること、高島郡(近江国)に人質を送ることを条件に信長と朝倉義景が和睦する。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 12月14日 34歳
織田信長が軍勢を瀬田(近江国)の山岡景隆所まで戻す。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀2年 1571年 1月2日 35歳
妻・一之台が方違えのため神龍院を訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 1月3日 35歳
妻・一之台が神龍院より帰京する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 1月4日 35歳
吉田兼見が足利義昭に御祓を進上する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 2月7日 35歳
吉田兼見が足利義昭を訪れる。対面する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 5月19日 35歳
相国寺光源院(足利義輝菩提寺)にて燃香が行われる。義昭は焼香のため参列する。細川藤賢、上野佐渡守、伊勢三郎、歳阿弥、間下式部少輔、安威兵部少輔、朽木左兵衛尉、松田監物、後藤治部少輔、間下宮内少輔、松田豊前守、松田主計允が随従する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 6月11日 35歳
足利義昭の養女としていた九条家の娘が筒井順慶に嫁ぐ。
出典:『多聞院日記』同年月12日条

元亀2年 1571年 7月25日 35歳
上京町衆が足利義昭のもとを訪れ踊りを披露する。1番目に一条室町の衆が雪躅鷺を、2番目に西陣(21町)が田栽・座頭を、3番目に立売町が薦僧を、4番目に絹屋町が小川鐘鋳・道明寺・西王母・黒主を舞う。次いで桜の馬場で踊りを披露し、さらに伏見殿の門前にて披露する。見物の衆は10万人を超えたという。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 8月28日 35歳
池田知正の討伐に向かった和田惟政が白井河原の戦いにて荒木村重と戦う。村重が惟政を討ち取り勝利する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年9月1日条

元亀2年 1571年 9月12日 35歳
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 12月17日 35歳
細川六郎が幕府に出仕する。足利義昭は六郎を右京大夫に任官させ、偏諱を与えて秋元と名乗らせる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 12月28日 35歳
歳暮の礼として吉田兼見が足利義昭のもと訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 1月16日 36歳
吉田兼見が足利義昭に御祓を進上する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 1月18日 36歳
足利義昭のもとに諸家が礼に訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 1月19日 36歳
足利義昭が石清水八幡宮に代官として槙島昭光を遣わす。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 閏1月18日 36歳
足利義昭が鷹狩をする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 2月4日 36歳
足利義昭が自身のもとに訪れた人々に上野信恵の所で行われた手猿楽を見物させる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 2月10日 36歳
足利義昭が淀(山城国)に城を築くよう命じる。家並みに人足を賦課する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 3月21日 36歳
足利義昭の命により徳大寺公維の屋敷地に織田信長の屋敷を建設することが決定する。屋敷は四方が築地で囲うことにする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 5月4日 36歳
吉田兼見が足利義昭に御祓を進上する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 5月8日 36歳
足利義昭園城寺の光浄院暹慶(山岡景友)を上山城守護職に補任する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 5月14日 36歳
辰刻(7-9時)、織田信長が京都より岐阜城(美濃国)に向けて出発する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 8月4日 36歳
吉田兼見が足利義昭に御祓を進上する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 8月15日 36歳
子・義尋が生まれる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 8月18日 36歳
足利義昭が御所の普請を命じる。吉田兼見が人足を出す。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 9月4日 36歳
吉田兼見が足利義昭に御祓を進上する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 10月4日 36歳
吉田兼見が足利義昭に御祓を進上する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 11月26日 36歳
細川藤孝が吉田兼見のもとを訪れる。その後、坂本(近江国)に向かう。
藤孝が吉田兼右の堂上免許を足利義昭に取り次ぎ免許を得る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 2月17日 37歳
足利義昭が城の中堀2間分を吉田兼見に課す。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 2月19日 37歳
足利義昭の城の普請につき吉田兼見より吉田兼有と人足30人が訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 2月20日 37歳
織田信長柴田勝家明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆に、足利義昭の臣・山岡光浄院が籠る石山城(近江国)の攻撃を命じ、勝家等の諸勢が出陣する。
出典:『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 2月22日 37歳
足利義昭の城の普請につき吉田兼見より人足40人が訪れる。
義昭は兼見に鉄砲の灰木10束を進上するよう命じる。吉田郷には灰木がないとの訴えが兼見よりなされるが近郷から調達するようにと命じる。
織田信長の使者として島田秀満松井友閑が上洛する。両人の上洛は、義昭と信長の不和の噂につき、信長の意を伝えるため。
出典:『兼見卿記』同年月日条・3月6日条

元亀4年 1573年 2月23日 37歳
吉田兼見が鉄砲の灰木7束を足利義昭に進上する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 2月24日 37歳
柴田勝家明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆が、瀬田(近江国)を渡り山岡光浄院が籠る石山城(近江国)を攻める。
出典:『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 2月26日 37歳
石山城(近江国)に籠る山岡光浄院が、同城を攻める織田家の柴田勝家明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆に降伏し、城より退城する。
出典:『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 2月29日 37歳
辰刻(7-9時)、足利義昭方の今堅田城(近江国)を丹羽長秀明智光秀蜂屋頼隆が攻める。光秀は琵琶湖上から攻撃し城を落とす。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 3月6日 37歳
吉田兼見が足利義昭のもとを訪れ、鍬を進上する。松田監物が披露する。兼見と対面する。亡くなった吉田兼右のことついて話をする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 3月8日 37歳
足利義昭織田信長の不和の噂について、島田秀満が信長の意向を義昭に伝えるが義昭は拒絶する。秀満はすみやかに岐阜城(美濃国)に向かう。秀満は吉田兼見に大津(近江国)にまでの人足を依頼し兼見は3人を供出する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 3月11日 37歳
高山重友高槻城(摂津国)内にて和田惟長に叛き、惟長を殺害しようとする。惟長は重傷を負い天守閣に籠るも、家中の者の仲介により惟長は退城する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 3月20日 37歳
足利義昭上杉謙信武田信玄本願寺顕如との和睦を促す使者・書状を送る。
出典:(元亀4年)3月20日付足利義昭御内書(『上越市史 別編1 上杉氏文書集』1144号)

元亀4年 1573年 3月29日 37歳
織田信長勢の先陣が粟田口(山城国)を経て、午刻(11-13時)、三条河原に展開する。自身は逢坂(近江国)にて細川藤孝荒木村重の迎えを受け、知恩院に入り本陣とする。軍勢を白川、粟田口、祇園。清水、六波羅、鳥羽、竹田に展開する。柴田勝家は吉田兼見より吉田郷の警固を依頼される。丹羽長秀蜂屋頼隆は聖護院に陣取る。
足利義昭は籠城する。
吉田兼見に兼見の所領である吉田郷への軍勢の陣取りはしないことを伝える。
兼見が信長のもとへ礼に訪れる。銀子1枚を贈る。兼見と対面する。義昭が戦闘行為をとったため軍勢を上洛させたと伝える。また、3月8日に島田秀満が京都より岐阜城(美濃国)へ下向した際、大津(近江国)までの人足を兼見が供出してくれたことについて謝し、吉田郷への軍勢の駐留を禁止する制札を発給する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 4月3日 37歳
東山に展開させていた織田信長の軍勢が陣払いをし、賀茂・西京より嵯峨を打ち廻り、所々を放火する。本陣である知恩院より出勢はなし。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月4日 37歳
丑刻(1-3時)、織田信長が西陣(山城国)を放火する。足軽を洛中に乱入させ放火。上京の二条より北を悉く焼き討ちにする。等持寺を本陣とする。
吉田兼見が等持寺にいる信長のもとへ陣中見舞いに訪れ、強飯、菓子1両種が贈られる。兼見より禁裏の近くまで類火が及んでおり放火を停止するよう求められる。もし、禁裏に火が及ぶ場合は、吉田社への正親町天皇の臨幸を考えている旨を伝えられる。それに対し信長は、兼見の気遣いを称し、村井貞勝を警固につけることを約す。また、兼見に舂木を添え、禁裏に害が及ばないようにすることを伝える。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(4)「公方様御構取巻きの上にて御和談の事」

元亀4年 1573年 4月5日 37歳
禁裏が足利義昭織田信長の争いを調停すべく、勅使として二条晴良、三条実澄、庭田重保を織田勢の本陣である知恩院に派遣する。勅使3名は信長と対面する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月7日 37歳
織田信長が和睦の使者として織田信広佐久間信盛細川藤孝足利義昭のもとに遣わす。義昭は3名に対面する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月8日 37歳
巳刻(9-11時)、織田信長岐阜城(美濃国)に向けて京都を発つ。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月9日 37歳
吉田兼見が足利義昭のもとを訪れる。兼見が義昭に盆、硯(紫石)を進上する。槙島昭光が披露する。奥御殿にて兼見と対面する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月12日 37歳
武田信玄が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「武田晴信」の項

元亀4年 1573年 4月13日 37歳
足利義昭が槙島(山城国)に移ると噂される。実際には移っていないが、退城は内々で決定していることを吉田兼見が松田監物より知らされる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月20日 37歳
足利義昭が御所の普請を命じる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月21日 37歳
足利義昭の御所の普請につき、吉田兼見は人足を召し連れ天守の壁の修復を行い完成させる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月27日 37歳
足利義昭織田信長の和睦が成立する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月28日 37歳
足利義昭が御所の堀の普請を命じる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 6月8日 37歳
足利義昭が吉田社の馬場の松の木5本を吉田兼見に所望する。兼見は伐採免除を願い出るが受け入れず松の木5本を得る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月3日 37歳
午刻(11-13時)、足利義昭が御所を退き槙島城(山城国)に移る。御所には日野輝資、高倉永相、伊勢貞興、三淵藤英を置く。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月6日 37歳
織田信長勢の先勢が大津(近江国)に着陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月7日 37歳
午刻(11-13時)、織田信長坂本(近江国)に着陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月8日 37歳
織田信長勢の先勢が上洛し、祇園、四条道場に陣取る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月9日 37歳
織田信長が上洛し妙覚寺を陣所とする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月10日 37歳
二条城(山城国)に籠城している足利義昭勢が三淵藤英を除き織田信長に降伏する。柴田勝家が開城交渉のため城内に入る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月12日 37歳
柴田勝家の交渉により二条城(山城国)に籠城していた三淵藤英が退城する。藤英は伏見(山城国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月16日 37歳
織田信長足利義昭の在城する槙島城(山城国)を攻めるべく、先勢を五ヶ庄・宇治に陣取らせる。信長の出馬は17日と決まる。先陣は、稲葉良通貞通父子で、平等院門前にて鬨の声をあげる。この城攻めに明智光秀荒木村重蒲生氏郷佐久間信盛柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀蜂屋頼隆細川藤孝忠興父子が五ヶ庄より攻める衆に加わる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(8)「真木嶋にて御降参、公方様御牢人の事」

元亀4年 1573年 7月17日 37歳
織田信長が京都を発ち五ヶ庄に着陣し、岡屋の所を本陣とする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月18日 37歳
織田信長が槙島(山城国)を放火する。信長が足利義昭が籠る槙島城(山城国)を攻めようとしたところ義昭が降伏する。義昭の子・義尋を人質として信長のもとに送り、義昭は槙島城(山城国)を退城し枇杷荘(山城国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月20日 37歳
足利義昭三好義継のいる若江(河内国)へ移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 37歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 8月20日 37歳
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日 37歳
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

天正1年 1573年 11月-日 37歳
織田信長の命をうけた佐久間信盛三好義継の籠る若江城(河内国)を攻める。
織田信長勢:佐久間信盛[大将]、松井康之
三好義継勢:三好義継[大将]、金山武春、多羅尾右近、池田教正、野間佐吉、那須久右衛門、岡飛騨守、江川。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)、『綿考輯録』巻2

天正1年 1573年 11月-日 37歳
佐久間信盛三好義継の籠る若江城(河内国)を攻める。
織田信長勢:佐久間信盛[大将]、松井康之
三好義継勢:三好義継[大将]、金山武春、多羅尾右近、池田教正、野間佐吉、那須久右衛門、岡飛騨守、江川
義継家臣の多羅尾右近・池田教正・野間佐吉が信盛に内通し、金山武春を殺害して、若江城(河内国)城内に織田勢を引き入れる。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)

天正1年 1573年 11月16日 37歳
若江城(河内国)にて三好義継が自害する。那須久右衛門、岡飛騨守、江川が殉死する。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)

天正4年 1576年 9月14日 40歳
織田信長足利義昭御所の石垣の石を取り除く。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 9月15日 40歳
破却が進む足利義昭御所の内部を山科言経が見物する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 1月9日 43歳
武田勝頼吉川元春に、荒木村重織田信長に謀叛したことについて、毛利家の本意に属すことであり、足利義昭を奉じて速やかに京都へ出勢すべきことを毛利輝元に諫言するように伝える書状を発給する。
出典:(天正7年)1月9日付武田勝頼書状写(『戦国遺文』武田氏編5巻-3067号、吉川家文書)

天正10年 1582年 11月21日 46歳
足利義昭が上条宜順斎(政繁)・須田満親に宛てて上杉景勝柴田勝家と和睦するよう命じる御内書を発給する。
出典:(天正10年)11月21日付足利義昭御内書(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2604・2605号号)

天正11年 1583年 4月24日 47歳
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

天正13年 1585年 7月11日 49歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正15年 1587年 7月-日 51歳
細川幽斎が津之郷(備後国)にいる足利義昭のもとへ礼に赴く。
出典:小瀬甫庵『太閤記』巻第10「幽斎道之事」

天正17年 1589年 5月19日 53歳
足利義昭相国寺光源院にて光源院(足利義輝)の25回忌法要を修す。
出典:『相国考記』同年月日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

天正19年 1591年 9月18日 55歳
午刻(11-13時)、有節瑞保が大坂(摂津国)の足利昌山の屋敷に訪れる。冷麺、松茸吸物でもてなす。豊臣秀吉の入唐のことについて話す。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

文禄1年 1592年 12月8日 56歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 60歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 5月9日 61歳
光源院の仏事料について、小早川隆景が銀子20枚を、毛利輝元が銀子20枚を西笑承兌に贈る。足利昌山に納める隆景よりの銀子20枚のうち、5枚を等持院に送り、5枚を本院に送る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 5月19日 61歳
足利義昭相国寺光源院にて光源院(足利義輝)の33回忌法要を修す。
出典:『相国考記』同年月日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

慶長2年 1597年 8月9日 61歳
相国寺鹿苑院の西笑承兌足利昌山に帷1を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月28日 61歳
足利義昭が大坂(摂津国)にて死去する。
出典:『鹿苑日録』同年月29日条

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